第5話【最果て】
勢いよく泡を巻き上げながら海中に沈んだノイは、バタバタと足を動かし、ひたすら沖を目指して泳ぎ始めた。
海面に出ると見つかってしまう恐れがあるため、なるべく深く潜り、海底遺跡にそって進む。
深い青に包まれた無人の町。
上からは浮力を失った数多の漂流物や人間の死体が雪のようにゆっくりと降り注ぎ、巨大な漁船が遠くの方で音もなく沈んでいるのが見えた。
地上での喧騒が嘘みたいに海中は静かだ。
にも関わらず、残響がずっと耳から離れない。
打ちつける雨や、火薬の弾ける音。
そして…
『小娘を捕まえろ!!』
『…早く行くんだ、海へ!』
カインと父の叫び声。
泳いでも泳いでも、どこまでも声は追いかけてくる。
(父さん…私どうすればいいの?)
もうノイを縛るロープはない。
だがそれは同時に、帰る場所がないということ。
この広大な海の底において、彼女は誰よりも自由であり、孤独な存在になってしまった。
水の中で呼吸ができる。
ただそれだけで、まだ独りで生きていくすべも、何をすればいいかも分からないのだ。
立ち止まることが怖くてひたすら泳ぎ続けた結果、ついに海底遺跡の果てまで辿り着いたノイ。
切り立った崖が町を終わらせ、そこから先は何もなかった。
果てしなく続く、真っ暗な深海である。
僅かな光すら届くことのない完全な闇を前にして、ノイは思わず足を止めて身震いする。
その時、闇の中でユラリと何かが蠢いた気がした。
ハッとして目を見開くと、深淵の底から二つの光が浮かび上がってくるのがはっきりと見えた。
しかもその光は徐々に大きくなっていくではないか。
こちらに近づいてきているのだと、気付いたノイの背筋が凍る。
もしもそれが生物の眼球ならば、その大きさはクジラに匹敵するだろう。
クジラならば害はない。
だがもしまったく別の生き物だとしたら…。
直後、女の金切り声のような謎の高音が深淵に響き渡り、ノイの鼓膜を震わせた。
「〜!!」
ノイは口から泡を吐いて身を翻し、もがきながら海底遺跡へと戻る。
後ろから“それ”が追いかけてきている気がした。
とにかく隠れる場所を求め、入り組んだ狭い路地を通り抜ける。
しかしそこは海流の激しい危険な区域であった。
瞬く間に見えない激流にさらわれ、体の自由を失うノイ。
どれだけ手足をバタつかせても前に進まず、波の意志に逆らうことができない。
(助けて!誰か…)
まるでミキサーにかけられたかのごとく、全身を回転させながら流されるノイの目の前に建物の壁が迫る。
そして…
ゴッ!と強く頭をぶつけた彼女の意識は、深い闇に堕ちたのだった。
* * *
何百何千という小さな星屑が宝石のようにきらめき、漆黒の夜空を彩っていた。
それは昼間の青空とはまったく異なる、宇宙そのものの色。
海面がそんな星空の景色を反射して、まるで上にも下にも宇宙が広がっているような幻想的な空間の中にプカプカと浮かぶノイ。
寄せては返す穏やかな波が、仰向けになった彼女の体を優しく撫でる。
ザザー、ザザーと、波打ち際で巻き起こる海の囁きが、眠っていたノイの意識を呼び覚ました。
「…あれ…私……」
ノイは辺りを見渡して、自分が海流によっていつの間にか砂浜まで運ばれていた事実に気付くや、ホッと息を吐いた。
それと同時にどっと疲労感が押し寄せてきたため、そのまま頭を砂の上に置き、空を見上げる。
嵐はとうに過ぎ去ったらしく、雨も風もない、綺麗な夜空だった。
ちょうどその時、満天の星々の間をいくつもの光の筋が次々と横切っていく。
『あ、流れ星!』
いつだったか、こんな風に浜辺で星を眺めながら父と過ごした日の思い出がノイの頭をよぎる。
『いいやノイ、あれは流れ星なんかじゃない』
『?』
『あれは宇宙のゴミが燃えてるんだ』
『宇宙にゴミがあるの?』
『ああ。…遠い昔、大地が海に沈むと分かったその日から、大勢の人達が地球を捨てて他の惑星に逃げ出したんだ。でもそのほとんどは失敗して、その時に壊れた宇宙船の残骸が時々地球に近づいてきて燃えてるんだよ』
『船であんなところまで行けるんだね!私もいつか行ってみたいな』
『それは…そうだな。いつか行けるといいな』
父の反応から、きっとそれは難しいことなのだろうと幼いながら何となく察したものだ。
そんな他愛のない会話や、ゴツゴツとした手の温もり、遠くで燃える宇宙ゴミを反射してキラキラと光る父の瞳を鮮明に覚えている。
でももう隣には誰もいない。
冷たく湿った砂にノイの指が食い込む。
「…どこに行ったって、独りぼっちじゃ意味ないよ」
まぶたを下ろすと同時に、涙がほろりと目元から垂れた。
と、その時である。
「…ノイ、お前なのか?」
不意に背後から声を投げかけられ、ノイはハッとして振り向いた。
「え!?」
驚いたなんてものではない。
何故ならそこに立っていたのは死んだはずの父レメクだったからだ。
ゴシゴシと涙を拭い、目を凝らす。
暗がりではっきりとはしないものの、闇の中にぼんやりと浮かび上がるその顔は父にしか見えない。
「父さん!無事だったん…」
だが、駆け寄ったノイの足がピタリと止まる。
いざ近づいてみると、それがまったくの別人だということに気付いたのである。
顔付きこそ似通っているものの、顔の皺がずっと多くて幾段か老け込んでおり、背中も曲がっている。
長くて太い木の杖に体重を預けているその様は、まるで老人になった父を見ているようだ。
父にそっくりな謎の人物を前にして、落胆よりも理解不能な恐怖に打ちのめされるノイ。
それに追い打ちをかけるようにして、その人物の後ろにもう一人何者かが立っているのが見えた。
微かな月明かりの下でもくっきりと判別できるほど白い肌をした若者だった。
高地の連中が追ってきたのだと確信したノイは、すぐさま身を翻して海に逃げようとする。
ところがいきなり視界が真っ暗になり、息ができなくなる。
頭に袋のようなものを覆い被せられたのである。
バタバタと身をよじって必死に抵抗するも、そのまま腕を縛られ、グイッと体を持ち上げられるノイ。
息遣いや足音から、おそらく複数人に囲まれているであろう事実を察した。
もはや自分一人の力ではどうすることもできない。
荒い息が袋の中に充満し、むわっとした熱気が顔に跳ね返ってくる。
そんな窒息寸前の閉塞感と不安に苛まれながら、ノイはぐったりと肩から力を抜き、絶望に身を委ねたのだった。
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