第2話【父と娘】


日中までの穏やかな気候が嘘のように、強い風がガタガタとガラスの無い窓を揺らし、室内に入り込んでくる。

天気は着実に荒れ始めて、やがて大きな嵐になることを予感させた。


住居というよりは小屋に近い小さな家の中で、ノイとレメクは小さなテーブルを挟んで向き合っていた。

テーブル上に並んでいるのは、焼いた小魚や、僅かばかりの海藻が入ったスープ。

米やパンすら無い、何ともわびしい夕食である。

室内は強盗でも入ったのかと思うほど荒れ果て、家具などもほとんど見当たらない。

ここには電気やガス、水道すら通っておらず、嵐を凌ぐためだけに住んでいるようなものだった。


「どうしたノイ、食べないのか?」


「…お腹すいてない」


普段の旺盛な食欲はどこへやら、一口たりとも手を付ける様子のない娘にレメクは複雑な顔をする。

無理もないだろう。

海で目にした死体の恐ろしげな形相がまぶたの裏に刻み込まれ、腐臭が鼻の奥に染み付いているのだ。

吐かないだけまだマシと言える。

そんなノイの気持ちが痛いほど分かるレメクは、まるで手本でも見せるかのように先に食べ始めた。


「…父さんもな、死体を初めて見た時は吐いたもんだ」


「…え?」


「お前も漁に出るようになると、これから何度も見ることになる。そのうち慣れるさ」


もぐもぐと焼き魚を咀嚼し、ゴクリと飲み込むレメク。

重い会話にも関わらず普段と変わらない様子の父に、ノイの口も自然と軽くなる。


「あの人、漁の最中に溺れちゃったの?」


「あれは“高地の連中“だ。肌が日に焼けてなかっただろ?父さん達みたいな漁師とはわけが違う」


「高地の連中って?」


「波の来ない安全な高地を牛耳ってる野蛮な奴らさ。あいつらのせいで俺達低地の民は皆、いつ沈むかも分からないこの海辺で漁をさせられてるんだ」


「安全な場所に住んでるのに、どうしてあの人は死んじゃったの?」


ずずず、とスープをすする音が会話を区切る。

子供に語って聴かせるには少々残酷な話ゆえ、平静を装っていたレメクにも僅かばかり躊躇いが見て取れた。


「…口減らしと言ってな、老人や病気の人間を殺して海に捨ててるんだ。いくら漁師から魚を奪っても、食べ物は全員分は無いからな」


「ひどい…」


「そう、自分が生き残ることばかり考えて人の命を何とも思っていない残酷な奴らだ。だからノイ、もしも奴らに狙われるようなことがあればその時は海に逃げて二度と戻って来るな。お前は陸にいなくたって生きていけるんだから」


「そんなの嫌!私は父さんと一緒がいい」


素直で純粋な眼差しが父に注がれる。

やはりまだノイにこの話は早かったのかもしれないなと、レメクは思った。

とはいえ一緒にいたいと思う気持ちは自分も同じ。

そこだけはたとえ夢物語だろうと否定したくはなかった。


「…そうだな」


レメクはスープを一気に飲み干し、器をカタリとテーブルに置いた。

その時不意に、窓の外から人間の声が聴こえてきた。

何を言っているかまでは定かではないが、わーわーと只事ではない喧騒である。

レメクは素早く立ち上がり、窓際から外の様子を窺う。


「…なんだ?」


見ると、大勢の漁師達が慌ただしく海沿いに集結しているではないか。

こんな天候の中で外に出るなど、きっと何か重大なことが起きているに違いない。

胸騒ぎがした。


「ちょっと様子を見てくる。ここで待ってなさい」


レメクが玄関の扉を開けるなり、びゅうびゅうと強烈な風が室内を吹き抜ける。

そのまま波打ち際へ小走りで向かうと、漁師達が揃って沖の方を向いていた。

激しい波が押し寄せ、水しぶきが体にかかるほど海に近い危険な場所で一体何をしているというのか。


「何があったんだ?」


レメクの質問に、漁師仲間の一人が答える。


「ああ…、遠洋漁船が帰ってきたんだが、海が荒れすぎて上陸できないらしい」


皆の視線を追うと、遥か先の海上で大型船が浮いていた。

強風と荒波に弄ばれ不規則に揺らめくさまは、完全に制御を失っているようにしか見えない。

あの様子ではとにかく波が収まるまで踏ん張るしかないだろう。

しかし誰もが見守る中、絶望が船を襲う。

ひときわ大きな高波が巻き起こったかと思うと、船が海に食われたのだ。

漁師達から悲鳴が上がる。

波が引くと、無惨にも転覆した船の残骸が海中から姿を現した。

今はまだかろうじて浮かんでいるものの、このままでは完全に沈没するのも時間の問題だろう。

惨劇を目の当たりにしたレメクは居ても立ってもいられず家へと走る。

窓から顔を覗かせていたノイは、ただならぬ様子で出戻った父に戸惑いを隠せない。


「父さんどうしたの!?」


「漁船が沈没して大勢が海に投げ出された。助けに行かないと!」


ロープの準備をして再び外に出ようとするレメクの前にすかさず立ち塞がるノイ。


「私も行く!」


「だめだ!危険すぎる」


「私は溺れないから大丈夫だよ!」


「それを知られるのが危険なんだ!」


今まで見たことのない父の剣幕に気圧され、ノイは何も言い返せなくなる。


「お前は特別な子だ。もしそれが高地の連中にまで知れ渡ったら、奴らは気味悪がって殺そうとしたり、利用しようと近付いてくる。だから普通の人間と同じように振る舞わなきゃ駄目なんだ」


「………」


レメクは落ち込んだ様子の娘を強く抱き締める。


「…もし父さんが戻らなかったら、その時は陸から離れて海で暮らしなさい」


名残り惜しげに飛び出す父の後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。

ノイは言いしれぬ不安に苛まれながら、独りその場に立ち尽くしていた。






同時刻。

漁船が沈没したとの報告を受け、高地の町の中で一人の男が立ち上がった。


「…何?俺の船が沈んだだと!?」


低地の民とは真逆の真っ白な肌で、顎の下に無精髭を蓄えたその男は、不愉快な知らせに思わず眉間に強く皺を寄せる。

大柄な肉体を重厚な鎧で纏ったこの男こそ、高地を占領する集団の王、カインである。

カインは大勢の兵士達が待機する大部屋の扉を荒々しく開けたかと思うと、おもむろに腰から大鉈を引き抜いてそれを彼らに向ける。


「お前ら行くぞ。沈んだ分の食料は、他の漁師どもから奪い尽くせ!」


武装した兵士達はそんな王の意思に呼応するかの如く槍やボウガンなどを掲げ、血走った瞳をギラリと輝かせた。

轟く雷鳴と、武器を抜いた野蛮な男達の怒号が交わり、高地一帯をビリビリと震わせる。

空から降り注ぐ無数の雨粒が、激しい嵐の訪れを知らせた。

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