第1話【異形の少女】
それから十五年後。
焼けつくような日射しが空から降り注ぎ、カラカラに干からびてしまいそうなほど空気が乾燥していても、ひとたび海に潜れば心地よい冷たさが肌に染み渡る。
波は穏やかで、濁りもなく、澄んだ青の世界がどこまでも広がっていた。
何日かぶりに分厚い雲から顔を出した太陽が、波の揺らめきに合わせてキラキラと反射し、海中を神秘的に照らす。
こんなに綺麗な海は久しぶりだった。
だが透き通った海中に浮かび上がるのは、美しいサンゴ礁などではない。
多くの家々が連なる街である。
厳密に言えばつい数年前まで陸に存在し、人々が暮らしていた“街だったもの“。
海面の上昇により波に飲み込まれ、今となっては誰も住むことのできない海底遺跡に他ならない。
そんな場所に、赤と黒の縞模様を描いた細長い紐のようなものがゆらゆらと漂っていた。
明らかに自らの意思を持ち、波に逆らって泳ぐそれは、よく見ると一匹の蛇である。
足もヒレも持たぬ異様な形状に似つかわしくないほど器用な動きをしながら、蛇はあらゆるものを横目に海中を突き進む。
色鮮やかなイソギンチャク、せかせかと動き回る蟹、波に合わせて踊る海草、じっと息を潜める人間…
次の瞬間。
蛇の首元に五本の指が素早く絡みついた。
どれだけぐねぐね身をよじろうとも強固な力が込められた手指はびくともせず、そのまま蛇を海面へと押し上げる。
バシャッ、と勢いよく突き出た小麦色の腕が、水しぶきを放ちながら太陽に照らし出された。
続けざまにスラリとしたTシャツ姿の上半身が海から飛び出し、くるりと身を翻す。
「父さん見て!捕ったよ」
海水をたっぷり含んだショートヘアの毛先から滴る雫が、長いまつげの横を伝って落ちる。
濡れた無地のシャツが微かに膨らんだ胸元にピタリと密着し、小柄ながらも引き締まった身体のラインを強調していた。
明るく透き通ったその声の持ち主は、美しい褐色の少女だった。
「どれどれ…って、毒蛇じゃないか!」
少女の隣でプカプカ浮いていた中年の男が、彼女の手に握られた生き物を見るなり慌ててのけぞる。
父さんと呼ばれたその男は、少女と同じく日焼けした褐色肌で筋肉質な体型をしているものの、どこか痩せ気味で不健康そうな印象を抱かせる。
背中には鋭利なモリを携えており、単なる海水浴を楽しむ人間ではないことが見て取れた。
かつての面影こそ失ってしまったものの、彼は内戦で妻を失い、赤子を連れて町から逃げた軍人レメクであった。
「毒蛇?それって…食べれるの?」
「きちんと調理すれば食べれるが、今日はもうたくさん魚が捕れたからその蛇は逃がしてあげなさい。食べ切れないほどの命をむやみに狩るべきじゃない」
「はーい…」
せっかく捕まえたのにその苦労が無駄だったと知り、しょんぼりと肩を落とす少女。
「そう落ち込むな、ノイ。素手で海蛇を掴むなんて大したもんだ」
「…それじゃあ、もとの場所に逃がしてくるね」
「ああ、でもこのロープは絶対に解くなよ。今日は珍しく海が穏やかだが、またいつ荒れてもおかしくないんだから」
そう言ってレメクは、彼女の腰に巻き付けているロープを握ってみせる。
陸地から伸びるこの異様に長いロープは、彼女が沖に行きすぎないよう行動範囲を制限する命綱だ。
「心配いらないよ父さん、私は溺れたりしないんだから」
ノイと呼ばれた少女はいたずらっぽく笑うと、止める間もなく再び海の中に潜った。
海中に消えていくそんな娘の後ろ姿を見送りながら、レメクは頭をボリボリ掻いて、やれやれと溜め息を一つこぼした。
ノイは両手で蛇を掴んだまま、海の底を目指す。
腰から伸びるロープを揺らめかせ、脚の動きだけですいすいと華麗に泳ぐそのさまは、彼女自身もまた巨大な蛇のようであった。
水の抵抗をまるで感じさせず、ものの数秒で海底遺跡へと舞い戻ったノイは、父の言いつけどおり慎重に指の力を緩めて蛇を逃がしてやる。
彼女の手からするりと抜け出した蛇は、凝り固まった身体を一度大きくくねらせると、スイスイと沖に向かって泳ぎ出した。
(変な泳ぎ方…)
魚とも、イカやタコとも違う独特な泳ぎ方が面白くて、ノイは動きを真似しながらそのあとを追うことにした。
赤と黒の縞模様を道しるべに、広大な青い街を進んでいくノイ。
まるで空のように果てしない、美しくも恐ろしい世界。
そこは本来、人間が存在することを許さない死の空間に他ならないが、彼女にとっては違う。
首元に発現したエラのような器官のおかげで一切の息継ぎを必要とせず、水中で呼吸ができる特異体質。
神のいたずらか、はたまた遺伝子の気まぐれか。
いずれにせよ確かなのは、彼女はこの世界でただ一人、海に愛された人間だということだ。
(…あれは)
光の届かぬ海底に近づき、周囲の青がどんどん深い色になっていったその時、ノイは蛇の進む先にキラリと輝く何かを見つける。
気持ちがはやり一気に進もうと脚をばたつかせた矢先、いきなり腹部にグッと強い圧迫感が生じて動きが止まった。
あと少しというところで、ロープの長さが限界に達したのである。
う~んと悩ましげに視線を泳がせるノイ。
(…まあちょっとくらいなら大丈夫だよね)
決して溺れることのない体質ゆえに生まれる過信。
目の前にあるそれをどうしても諦めきれず、ノイは固く結ばれたロープを解いて突き進んだ。
大きな開放感と少しの罪悪感。
ノイが海底の砂に半分埋もれたそれを拾い上げて見てみると、薄くて、丸くて、手のひらに収まるくらい小さなものだった。
色は黄色に近いが、角度を変えてみると、僅かに届く陽の光を反射してキラキラとまばゆい光沢を放っている。
それはかつてこの地球で富の象徴とされた、金貨と呼ばれるものである。
だが通貨の価値が失われて久しく、物々交換が主流になったこの時代に生きるノイにはそれが何なのか知るよしもない。
(綺麗…)
ノイは美しい輝きを放つ金貨に見惚れ、大事そうに短パンのポケットにしまい込んだ。
しかも辺りを見渡すと、それが一枚だけではないことに気付く。
漁に来たことも、ロープの存在も忘れ、ノイは海底に散らばるそれを夢中で拾い集めた。
たとえ小さくとも輝きを放っているため、見つけるのはそう難しいことではない。
だが問題は、光を反射しているのがそれだけではないということだ。
(あ。あそこにも二つある!)
二つの光に向かって手を伸ばすと、不意にその光がぎょろりとこちらを向いた。
それの正体に気づくや、ノイの顔からサーッと血の気が引く。
その光は無機物のそれとは違い、生々しい艶を放つ生き物の眼球に他ならない。
直後、海底がブワッと隆起したかと思うと、砂の中から巨大魚が姿を現したではないか。
人間を丸呑みできるほど大きな口を開け、巨大魚は凄まじい勢いでノイに襲いかかる。
「〜〜っ!」
ノイはとっさに海底を蹴って回避したものの、急激に吹き上がった砂埃に視界を奪われ、前も後ろも分からなくなった。
巨大魚の姿はおろかロープの場所も見えなくなり、パニックに陥るノイ。
本能がとにかく海面に浮上しろと叫ぶ。
せっかく拾った金貨がポロポロとポケットから落ちようとも意に介さず、無我夢中で上へ上へと泳ぎ続ける。
やがて砂埃から脱出し、揺らめく水面が目の前に広がった。
偶然にもプカプカと仰向けになって浮かんでいる父の後ろ姿を発見し、ノイはホッとすると同時に急いでそこへ向かう。
「父さん大変………!」
だが父にしがみつき、その顔を覗き込んだノイは悲鳴を上げた。
それは父ではなかったからだ。
自分のまったく知らない相手。
しかも、死後何日も経過しているであろう、かろうじて人の形をたもっているだけの腐乱死体である。
血の気が抜けきった真っ白な肌に、体内に溜まった腐敗ガスのせいで目玉は今にも飛び出しそうだった。
触れた部分の肉がポロッと剥がれ、強烈な異臭が鼻の奥まで侵食してくる。
慌てて体を離すと、ノイは死体がそれだけではないことに気が付いた。
付近には何十体という死体が漂流し、波に運ばれてノイに迫ってきていた。
「ひっ…」
ノイが小さく悲鳴を上げると、突然何者かが彼女のことを背後から羽交い締めにしてきた。
「いやっ!!」
「ノイ!落ち着け」
バタバタと水面を叩きながら激しく暴れるノイを、聴き慣れた優しい声がなだめる。
それは父、レメクであった。
「父さん!」
振り向きざまに父へ抱きつき、強く腕に力を込める。
もう二度と離れてしまわぬように。
レメクはノイの腰にロープが無いことに気付きながらも、それ以上何も言わず、娘が落ち着くまで肩に手を添えた。
「…!」
海に浮かんでいる死体を見るのが怖くて父の肩越しに陸地の方を向いたノイは、そこで木の陰に隠れるようにして立つ何者かの存在に気が付いた。
遠目でハッキリとは認識できないものの、それは白い肌をした青年に見えた。
まるでこちらを観察するかのようにじっと視線を送ってくる青年とノイの目が合う。
「父さん、あそこ…」
「…ん?」
ノイの呼びかけに反応したレメクが陸地の方を向くも、そこには誰の姿もない。
あれ?とキョロキョロ辺りを見渡すノイだったが、どれだけ探しても青年は見つからず、風にざわめく木々が生えているだけだった。
「何かあったのか?」
「…ううん、何でもない」
きっと見間違いだったのだろうとノイは首を横に振り、レメクと共に陸地へと泳ぎ出したのであった。
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