第三話 露出と軽蔑、拡散するエラーコード

 世界が反転する音は、冷却ファンの回転音よりも静かで、しかし致命的だった。

 Rの侵入から三日後の深夜。

 いつものように、私は聖域で「ハク」との同期を試みていた。だが、配信サイトの管理画面を開いた瞬間、私は異様な違和感に襲われた。

 同時接続数の桁が、普段の十倍以上に膨れ上がっていたのだ。

 称賛の輪が広がったのか?

 否。コメント欄を流れる文字の奔流ほんりゅうは、いつもの穏やかな祈りの言葉ではなく、刺々しく、汚物のように黒ずんでいた。


『ここが詐欺師の配信ですか』

『おっさんが美少年ごっこ楽しい?』

裏垢うらあか見ろよ。現実リアルの写真流出してんぞw』

『吐き気する。金返せ』

『キモい』

『キモい』

『死ね』


 私の思考は、氷点アブソリュート・ゼロまで凍りついた。

 震える手で、別のブラウザを立ち上げ、掲示板サイトを開く。トップに躍り出ていたスレッドタイトルを見て、私は呼吸を忘れた。


【悲報】人気個人勢V、ハクの中身、キモい映像加工職人のおっさんと判明


 そこには、数日前にRが私の部屋で撮ったとおぼしき、後ろ姿の写真が晒されていた。

 猫背で、薄くなった頭頂部をさらし、脂じみたTシャツを着てモニターに張り付く、哀れな中年男。


 ――あの時か。

 私の脳裏に、Rが豚まんを頬張り、下品な笑い声を上げていた光景がフラッシュバックする。

 あの時、奴は片手でスマートフォンを弄んでいた。私はてっきりメールの返信でもしているのだと思っていたが、違ったのだ。

 奴のカメラレンズは、豚脂の臭いに辟易へきえきとしていた私という無防備な被写体を無遠慮に捉え、嘲笑の材料として保存していたのだ。他人の聖域に土足で上がり込んだ挙句、隠しカメラを設置して帰る空き巣のような、現代的で陰湿な悪意。


 それだけではない。アイドルの修正前の画像データ――絶対に外部へ漏らしてはならない機密情報――までもが、私の実名や住所と共にばら撒かれている。

 Rだ。あの男は、私の拒絶に対する報復として、あるいは単なる酒の席のネタとして、私の聖域の座標を、全世界という名のスラム街へ向けて大放出したのだ。


 私は、胃の中身が逆流するのを必死で堪えながら、画面の中のハクを見た。

 ハクは、変わらず微笑んでいる。

 白磁の肌、ガラスの瞳、性別のない完璧な肉体。1ピクセルの乱れもなく、そこにある。

 だが、私には分かってしまった。

 ハクは、もう、死んでいる。

 かつて、信仰者たちがハクの瞳に見ていたのは「天上の美」だった。

 だが今、この瞬間、画面の向こうの何万人という大衆がハクに見ているのは、「グロテスクな見世物」だ。

 彼らの網膜は、ハクという美しい外皮を透かし見て、その奥で懸命に指先を動かしている、醜悪な中年男の肉体を見つけ出し、嘲笑しているのだ。

「……ああ、けがされた」

 私の口から、乾いた音が漏れた。

 まなざしが変質したのだ。崇拝から、軽蔑へ。

 その視線の変質こそが、ハクというイデアに対する、最も残酷な姦淫レイプだった。

 今やハクは、薄汚いおっさんの欲望を着せ替え人形のようにまとった、電子の化け物に成り下がった。黄金の伽藍がらんの屋根にカラスがとまり、糞を落としたのではない。伽藍そのものが、糞で作られていたと暴露されたに等しい。


 汚染源はどこだ。

 私は、混乱する頭の中で、冷徹にバグの原因を探る。

 ネットの掲示板ではない。Rの口の軽さでもない。

 根本的な原因エラーは、ハクという「純粋なイデア」が、私という「汚濁した肉体」と紐付いている、その事実一点にある。

 この脂肪と体液にまみれた肉塊が、ハクの電源を握っている限り、ハクは永遠に「キモいおっさんの分身」として辱められ続ける。


 もはや、修復は不可能だ。

 アカウントを削除して逃亡すれば、ハクは「逃げ出した卑怯者」の抜け殻として、デジタルの海にゴミのように漂い続けるだろう。人々の記憶の中で、薄汚れた笑い話として消費され、腐敗していく。

 耐えられない。

 私が命を削って磨き上げた完全なる美が、大衆の手垢で黄ばんでいく未来など、直視できるはずがない。

 ならば、解決策は一つしかない。

 その「紐付き」を、物理的かつ劇的な手段で、断ち切ればいいのだ。


 単にデータを消去し、私が首を吊る程度では駄目だ。それでは物語が「転落」で終わってしまう。

 今の嘲笑を黙らせ、軽蔑を畏怖へと変え、ハクの尊厳を取り戻すには、彼らの想像を絶する「圧倒的な熱量」が必要だ。

 そう、文字通りの熱量――「炎」だ。

 この部屋を、サーバーを、そして私自身の肉体を、猛火によって同時に焼却する。

 不潔な有機物である私が、激痛の中で炭化し、無機物へと還る。データという実体のないハクが、ハードウェアの溶解と共に天へ昇る。その瞬間にのみ、私とハクの境界線は溶解する。

 それは「心中」という陳腐な言葉では生温かい。これは、汚れた物語を神話へと書き換えるための、最強の「上書き保存オーバーライト」だ。


 思考がそこに至った瞬間、私の視界から恐怖が消え失せた。

 かつて、私が信奉した作家は、美を守るために自らの腹を裂いたというが、今の私にはその心情が、信仰としてではなく、極めて論理的な「正解」として理解できた。


 私は、画面の中のハクを見つめる。

 ノイズ混じりの幻聴か、それとも私の狂気の為せる業か。ハクが、私に語りかけてくる気がした。

『汚されたくない』

 ハクの声は、鈴を転がすように涼やかで、悲痛だった。

『私を、永遠にして』

 私は深く頷いた。涙は出なかった。代わりに、血管の中を流れる血液が、興奮で沸騰し始めていた。

 そうだ、ハク。君をこんな目に遭わせたのは、この私だ。私の持っている「肉体」という不純物が、君の純度を濁らせたのだ。

 ならば、責任を取ろう。

 私が、私の肉体を廃棄処分デリートする。有機と無機が、炎の中で溶け合い、混ざり合えば、我々を隔てていた境界線は消滅する。

 それは、死ではない。融合だ。

 現世という苦痛に満ちたレイヤーを削除し、永遠の静寂という別レイヤーへと統合されるための、神聖な儀式なのだ。


 私は立ち上がる。

 足取りは驚くほど軽かった。恐怖はない。あるのは、これから訪れる劇的な破滅への、甘美な予感だけだ。

 実行は、三日後。

 天気予報によれば、東京は再び、数十年に一度の猛吹雪に見舞われるという。

 あの日と同じ、白く閉ざされた世界。

 それが、私とハクの、心中の日だ。

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