第16話 式神符
◆
「……おう、戻ったか」
楢崎よろず探偵事務所に出勤すると、いかにも「今起きました」という風なしゃがれ声が出迎えてくれた。
「遅えぞ、龍彦ォ」
鉄夜だった。
刀を抱き枕のようにして、ソファで眠っていたようだ。ボサボサの髪を直すでもなく、むくりと起き上がってくる。
「おはよう、鉄夜くん。留守番ありがとう」
「はっ、こんなシミったれた事務所を狙って空き巣に入るようなトンマはいねぇだろうけど」
「ひどいな。意外と貴重なものもあるんだ。ほら、これとか。エシレのクッキー缶」
「エシレ!」
貴重だ。それは、とても貴重だ。
高級で上等なバターをたっぷり使ったエシレのクッキー……潰れた会社のお局お姉様が話していたのを思い出す。
かなりの行列になるため、おいそれとは買えない憧れのクッキー缶。
「あやめ君、興味あるかい?」
「え、あ、すみません。私、物欲しそうな顔してましたか……」
あやめの返事に、鉄夜が堪えきれずに吹き出した。
「ひひひ、どの口が抜かしやがる。尻尾が踊ってるぜ」
「ご、ごめんなさいっ」
恥ずかしい。
カクリヨの人たちは、人よりも長い月日を生きてきたからか、みんなとても大らかだ。
だからだろうか。龍彦の仕事を手伝ううちに、心の内側が柔らかくなってしまった。近頃は、こうやって無意識に色々な感情が漏れ出てくる。今までずっと自分を押し殺して控えめであろうとしてきたはずなのに――。
「あはは。お気になさらず。でも、分けてあげたい気持ちは山々なんだけれど……」
ぱかん、と龍彦がクッキー缶の蓋をあける。
缶の中は、空っぽだった。
それを見た鉄夜が、白けた表情でソファに沈む。
「おいおい。ゴミをとっていて何になるんだよ」
「うん。まだ匂いがするからさ……ほら」
ほら、と。龍彦は整った鼻筋をクッキー缶の中に突っ込んだ。
スンスンと、バターと砂糖の残り香を堪能しはじめた。
「ふふ、ふふふ……いい匂いだな……」
「え、ちょっと、龍彦さん」
うっとりと呟く龍彦。
この人、やっぱりちょっと変わっているなと、あやめは覆った。
黙って佇んでいたら、文句のつけようのない美形でハンサムな男なのに。
「だっはは! おい、龍彦。嬢ちゃんがドン引きしてるぞ!」
「っ! あ、ごめん。あやめ君……エシレの思い出に浸ってて」
「大丈夫です……」
龍彦は万事こんな調子で、どこかフワフワした人なのだ。
あやめがここで働き始めて、しばらく経っている。さすがに、そろそろ慣れてきた。
「つーか、そのクッキーも近所のガキにほとんど分けちまっただろ。ほんっっっとに救いようのないお人好しだな」
「だって、子どもたちに見つかってしまったんだよ? 鉄夜くんだって、子どもたちのあの目で見つめられたら、独り占めなんてできないはずだよ?」
「知るか。それに、俺は辛党だ」
「僕は甘党なんだって」
あ、そうだ……と龍彦が、あやめの持ってきた買い物袋をガサゴソと探る。
コンビニ菓子の袋の取り出して、にこりと破顔した。
「よかった。これ、持ち歩きたかったんだ」
「おやつですか?」
「僕じゃなくて、探している迷子のね」
龍彦は、こういう男だ。
いつも自分よりも他人のことを考えている。
それでいて、少しも辛そうにしていない。穏やかで、いつも微笑んでいる。
きっと、この人は家族に愛されて育ってきたのだろうな──と、そう思わせるオーラを纏っている。
「さて、一休みしたし、また調査に行ってくるよ」
「あ、私も行きます!」
「本当かい、あやめ君。助かるよ。じゃあ……よければ、鉄夜君と一緒に行動してくれる?」
「あ? なんで俺が」
鉄夜が小さく舌打ちをする。
ユキさんの一件で、ちょっといい人なのかも……と思ったものの、普通にガラが悪い男である。
「あやめ君一人じゃ危ないからね」
「んだよ、留守番だっていうから引き受けたんだぞ」
「留守番は、式神符に任せよう」
式神符は、複雑な模様が書かれたハガキ大のカードだった。
龍彦が文箱から取り出した式神符に息を吹きかける。
すると──。
「え、ええ! 龍彦さんが、二人!?」
龍彦にそっくりの男が、もう一人現れた。
そっくり、どころではない。
背丈から表情から、目元のほくろまで、龍彦と式神はまったく同じ姿をしている。
目を丸くするあやめに、鉄夜がククッと低く笑う。
「騒ぐんじゃねーよ。ただの式神だ」
「彼が留守番をしてくれるよ。難しいことはできないけれど、なんとなく感覚を共有できるんだ」
「すごい……! 符って、色んなことができるんですね!」
目くらましの符。
火起こしの符。
それから、式神符。
祓魔師として、幼い頃から色々なこの世ならざる術を見聞きしてきたあやめであるが、カクリヨで目にするものは、どれも新鮮だった。
現世とはまったく違うテクノロジーを基盤にして、カクリヨの人々は生活を営んでいる。
(……今まで、人間に害をなす怖いモノだとばかり思っていたけれど……それだけじゃ、ないのね)
妖たちにも生活がある。
あやめにとって、とても大切な気づきだった。
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