第13話
十六
十二月に入り、第一週目の土曜日のことである。椿は祖父の車に乗り、隣町へと出掛けていた。というのも、先月に彼から話に聞いていた古本市に向かっていたのだ。
椿は本読むのは下より好きであったが、今回の目的は読むというよりも、観賞用の画集にあった。祖父である匠吾は、彫金師という仕事の都合で、様々な画集や見本帳を所持しており、そういったものをこの古本市で買っているというのだ。絵を描くのも観るのも好きな椿としては、そのような場所に行かない理由がなかった。
市場に着くと、辺りにはパイプテントが立ち並び、そこで様々な人々が古書を売り買いしているのが見えた。その光景だけで、椿は興奮を覚えた。見れば、テントだけではなく、路上に茣蓙を敷き、そこで本を売っている人々の姿も確認できる。既に多くの来客が来ているようで、市場は冬の寒さを物ともしない賑わいを見せていた。すれ違う来客達は中年以上の人が多いように見えたが、中には若者の姿もあった。
行きかう人々の隙間を抜けて、椿は匠吾はと共に市場を巡った。店頭に立ち並ぶ古書の数々のそのどれもが、彼女の瞳には魅力的に映った。ある程度そうして店を回った後、二人は別々に行動することにした。互いに自由に見て回った方が楽しめるだろうと、匠吾が気を利かせてくれたのだ。十二時前に、市場の真ん中にあるベンチで集合することにし、二人はそこで別れた。
とはいえ、少し見て回っただけでは、どこにどんな本があるか解らなかったので、椿は一先ず目に付いた店へと向かった。そこには画集の類はあまり置かれていないようだったが、それでも椿の目を引くには十分な古書の数々が店頭には並んでいた。その中の一冊を彼女は手に取り、ぱらぱらと頁を捲った。その本はどうやら、大正時代の学徒達の手によって書かれた同人誌の類のようだった。文体にはどこか拙さを残しながらも、現代の小説ではあまり見られない言い回しや当時の社会に対する風刺が、読む者の心を惹きつける。
椿が店主に値段を問うと、二束三文の売値を言い渡された。もう少し高い値を付けても良いものをとも思ったが、無名のアマチュア作家達の同人誌、それも古本ともなれば、妥当な値なのかもしれない。
椿はそれならばと思い、その古書を買う事にした。店主はまるで「物好きがいたもんだ」とでも言いたげな視線を椿に送りながらも、特に文句も言わず、それを売り払った。
同人誌を受け取った後、彼女は市場をふらふらと歩き、目に付いた適当な店へと赴く。そこには、既に絶版になっているであろう古い文庫や新書、漫画、レコードの類が立ち並んでいた。ぼうっと、暫く本棚を見ていた椿だったが、そこには特に彼女の目を引くようなものはなかったため、彼女は店を後にした。
次に彼女が向かったのは、茣蓙の胡坐を掻いて座っている老人の店であった。ダンボールの中に押し込められた本を幾つか手に取り、ぱらぱらと頁を捲る。そんなことを何度か繰り返す。
そうしている内に、彼女は一冊の詩集を見つけた。これまた何時の物かも分からないような、古い本であった。日焼けした紙を破らないようにゆっくりと捲っていく。
椿は読書が趣味とは言えど、詩に関してはそこまで詳しくはなかった。無論、詩の善し悪しなど分からない。それでも何故だか、頁を捲る手は止まらず。そこに書かれた文字が、すっと自分の中に入り込んでくる事が分かった。
そこで彼女はまたしてもその本を買う事にした。値段は先ほど買った本よりも、こちらの本の方がやや高かった。
本を買い終え、ほくほくとした表情で店を後にしたところで、彼女は自分の目的を忘れている事に気が付いた。今日彼女がここに来た理由は、絵草子や画集、見本帳の類を買うためであった。それが思わず、我を忘れ、目的にない本を買っていた。これでは本当に欲しい本を見つけた際に、金が足りないなんてことになりかねない。彼女は柄にもなく浮かれている自分を自嘲し、今度こそ目的の本を見つけるために市場を歩き始めた。
彼女が店を幾つか回った頃、ようやく彼女の御眼鏡にかなう本が見つかった。その本は比較的最近に出版されたようだが、その内容は明治から大正に掛けて活躍した画家の絵を集めた画集のようであった。それまでに巡った店でも画集の類はあったが、それらを見ても、彼女の感性に訴え掛けてくるような物はなかった。しかしここにきて見つけたその本は、正しく彼女の心を射止めるに足る本であった。見つけた彼女は即決でその本を買い取った。それなりに値の張る代物であったが、この本の価値を思えば、安い出費であった。
一度目的の本が見つかると、まるで何かの流れが来ているかのように、面白いほど似たような本が見つかった。結局彼女はその後に三冊もの本を買ってしまった。幸いにして、その後に買った三冊の本は、先に買った本ほどの高値ではなかったため、彼女の懐にはまだ余裕があった。
とはいえ、流石に買い過ぎた自覚はあった。持参した紙袋に目を落とした後、彼女は腕時計へと視線を移す。そろそろ匠吾との待ち合わせ時間も迫っている。椿はこの辺りで買い物を止め、待ち合わせ場所へと戻ることを決めた。古本市は太陽が天頂に近付き始めるに連れて、徐々に来客が増えているようだった。彼女は雑踏中を歩き、待ち合わせ場所へと向かう。そんな中、ふと彼女はある店に目が止まった。
茣蓙を敷き、そこに剥き出しの本を並べているだけの店だ。売られている本の数は良くて二十冊か十数冊程度である。椿は何故だか分からないが、自分の意識がその店に強く引き付けられた。気付けば、彼女は吸い寄せられるようにその店の前に立っていた。
そして、彼女は一冊の本を手に取った。日焼けした表紙には墨によって達筆な文字が掻かれていた。彼女にはその文字を読むことはできず、それだけでは何の本か察することはできなかった。彼女は恐る恐るその古書の適当な頁を開いた。
その本は奇しくも、画集――否、浮世絵の見本帳であった。そこに描かれていた絵を見た瞬間、彼女は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
「あの、これ、幾らですか⁉」
気付いた時には、彼女は大きな声でそう尋ねていた。店主は些か驚いた様子を見せたが、直ぐに気を取り直し、椿の姿をじろじろと値踏みするように眺めた後、ゆっくりと答える。
「……二万円」
その値段を訊き、彼女は目を見開いた。
「……そんな」
喉からかすれたような声が漏れた。その様子を見た店主は呆れたように溜息を吐いた。
「これでも譲歩した方だ。この値段で買えないようなら無理だ。諦めな」
椿は食い下がろうとしたが、直ぐに俯いた。
「……はい。すみません」
そう言い、彼女は手に取った本を茣蓙の上に戻した。
「まあ、これが売れるとも限らん。金を貯めて、次の古本市が開かれる頃にでも、また来ることだ」
「はい。ありがとうございます」
店主に礼を言い、彼女は店を後にした。
待ち合わせ場所に着くと、匠吾はまだ戻っていなかった。椿は一人、ベンチに座りながら匠吾を待った。未だ彼女の中には諦めきれない想いもあったが、いつまでも悔やんでいても仕方がないと自分に言い聞かせ、その思いを断ち切ることにした。
暫くして、匠吾が戻ってきた。
「そっちの買い物はもう終わったか?」
「うん」
椿は頷いて、購入した本の入った紙袋を掲げてみせた。
「そうか。なら、帰ろう」
「うん」
椿は立ち上がると、匠吾の隣に並び、市場を後にした。その際に後ろ髪を引かれる想いをしなかったと言えば、嘘になるだろう。
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