ムーンプリズム・イン・ザ・ダーク

きみのマリ

ムーンプリズム・イン・ザ・ダーク

 日曜の朝に放映されていたアニメが好きだった。

「魔法戦士マジェスティック・スターズ」、通称マジェスタ。少女たちが魔法で姿を変えて敵と戦う──いわゆる変身バトルものである。

 マジェスタには中盤のとあるエピソード限定で、特殊エンディングが存在する。

 月夜に橋の上で主要キャラクターの男女が、ワルツ調の曲に合わせて優雅にダンスを踊る、演出も作画も非常にうつくしいエンディングだ。

 幼かった自分は、あのエピソードと一分半の映像に心を奪われてしまった。



 ***



 リュックのファスナーに付けられたチャームが、歩く振動で揺れてはキラリと光った。


「──大翔やまと先生!」


 彼を見失いたくなくて、思わず声を張っていた。

 自分の数メートル先を歩いている、カジュアルなウィンドブレーカーを着た背の高い男の人。二年前、リハビリルームで目にしていたケーシー以外の服装を見るのははじめてだけど、きっと間違いない。案の定彼は、こちらの呼びかけに振り向いてくれた。


「……瑠奈るなちゃん?」

「はい、お久しぶりです、大翔先生」


 逸るような気持ちを抑えながら駆け寄っていく。その先生って呼び方、懐かしいなあ、と大翔は朗らかに笑った。


「覚えててくださったんですね、わたしのこと……」

「自分が担当した患者さんのこと忘れるわけないよ。でも驚いたな、ずいぶん大人っぽくなったね」


 人好きのする笑顔と快活な話し方は何ひとつ変わっていなくて、安堵する。同時に、憧れの人に「大人っぽい」と評されて胸が高鳴るのを感じた。

 パーマをかけたツーブロックのショートヘア。前髪から覗く、凛々しい眉とアーモンド型の目。チョコレートのように甘い色の瞳に制服姿の瑠奈をうつし、学校の帰り? と大翔が気さくに尋ねる。偶然の再会が夢のようで、目の前の王子様然とした容貌をうっとりと見つめていた瑠奈ははっとして、慌てて頷いた。


「瑠奈ちゃんがうちのクリニックに通ってたときは、六年生だったっけ。いまは……」

「中学二年です。大翔先生は、お仕事の帰りですか?」

「俺はね、今日は休みなんだ。ジムの帰りなんだけど、まさか瑠奈ちゃんに会えるとは思わなかったよ。あれから足は問題ない? バレエは続けてるんだよね」


 自然な流れで問われて──声をかけた時点で想像はできたはずなのに──呼吸が詰まり、反応が遅れてしまった。一拍置いたあとに、ぎこちなく頷いた。

 無意識に目を伏せた瑠奈に対して、大翔は特に追及はしてこなかった。ただ幾分やわらかい口調になって、


「これから、スタジオでレッスン?」


 と、訊いた。


「あ、いえ……。今日は休みなんです」

「そっか。……違ったらごめんね。瑠奈ちゃんの家は、たしか北区だったと思うんだけど……これから何か用事かな」


 腰を落として瑠奈に目線を合わせる大翔に胸が詰まって、じわりと涙腺が緩む。怪我をした瑠奈の足のリハビリを担当してくれていた、当時の姿と重なった。

 同年代でもなく、学校や医師の先生、もちろん父親とも違う若い男性と接することに恐怖に近い緊張を感じていた瑠奈に、大翔はいつだって同じ目線になって親身に対応してくれたのだ。

 内気で人見知りな瑠奈だが、大翔に心をひらくのに時間はかからなかった。

 スタジオの発表会でもし自分が主役に抜擢されて──その相手の王子役が大翔だったなら、と夢想したほどに。


「……帰りたく、なくて……」


 スクールバッグを握る手に、ぎゅっと力が入る。

 このまま帰宅して、母親と顔を合わせたくなかった。かといって今日はレッスンは休みで、スタジオにも行けない。ろくに親しい友人がいない瑠奈には、こういうとき行く宛てがない。ふと思い立って、かかりつけの整形外科クリニックがある駅で電車を下りて、それ以外に馴染みのない街をさ迷っていたのだった。


「……お腹すかない?」


 唐突に、大翔が瑠奈の目を覗き込むようにして尋ねた。


「……? あんまり……」

「そっか。俺は運動した後だからお腹すいちゃって、そこの喫茶店にでも入ろうかなって思ってたんだけど」


 言いながら、大翔は視線を後方へ投げた。その先を追ってみると、歩道沿いに建ち並ぶ店舗のひとつに、たしかに喫茶店めいた建物を見つけた。アンティーク調のウォールライトが設置された、童話に登場しそうなクラシカルな外観の店だ。


「かわいい雰囲気の店だから、男一人で入るのは緊張するなあ」

「…………」

「瑠奈ちゃんさえよかったらなんだけど、付き合ってくれないかな。温かい飲み物でもご馳走様するよ」


 こんなわかりやすい言い訳、と思う。中学生の瑠奈には言うまでもなく、クリニックの患者だった頃の小学生の自分にだって、大翔の意図を察せただろう。けれど、その単純なやさしさが素直にうれしかった。


 きっと大翔なら、こんな自分にも手を差し伸べてくれる。

 雑踏の中で背中を見つけたとき、縋るようにそう思った。彼は瑠奈にとって、変わることのない唯一のダンスール・ノーブルだから。



 ***



 マジェスタ第三十七話にて、魔法戦士マジェスティ・ルナは、味方戦士たちと敵対してしまう。

 メインキャラクターの内の一人が、敵の洗脳なしに悪役と化してしまう展開は、当時の子どもたちに多大な衝撃を与えた。自分にとってもそれは、忘れられない衝撃だった。まるで月光が稲妻となって脳天から足先まで貫いたかのような。

 彼女の崇高な心は誰にも止められない。

 相棒の魔法の使者──普段は鳥モチーフのマスコットで、本来は人間の男の姿をしている──すら、三十七話の終盤で彼女の闇に呑まれてしまう。そして二人は月光が照らす橋の上にて手を取り合い、例の特殊エンディングへと繋がるのだった。



 ***



 店内はかわいいというより、落ち着いた大人っぽい雰囲気だと瑠奈は思った。ほのかに漂うジャズ音楽とコーヒーの芳ばしい香り。中学生の自分には不釣り合いな気がして、緊張を感じながら、頼んだホットココアにおずおずと口をつけた。


「……おいしい……」


 咥内を満たすやさしい甘さに、自然と肩の力が抜けた。

 思わずつぶやいた瑠奈の正面の席で、よかった、と大翔が安心したように言う。その微笑みを目の当たりにしながら、夢みたいだと、再会して何度となく思った言葉を反芻してしまう。リハビリ以外で大翔と、こんなふうにふたりで過ごしているだなんて。

 帰りたくない理由を打ち明けたくない、と思う。このまま甘くて安らかな感情に浸っていたい。

 心の有り様を言葉にできず、せっかくの機会なのに、ただただ黙ってココアに口をつけるだけになってしまう。


「──小学生のとき」


 ふいに大翔が口をひらいた。

 その目は、正面の瑠奈ではなく、窓の外を見ているようだった。ただ窓は色鮮やかなステンドグラスが嵌められており、外の景色はわからない。


「日曜の朝にやってたアニメが好きだったんだ。女の子たちが変身して、戦うアニメ」

「……魔法少女、みたいなアニメですか?」

「そうそう。俺、当時親の管理が厳しくてね。そういうのほとんど観せてもらえなかったんだ。たまたま家に一人の朝があって、偶然放送していたのを観て……好きになった。でもそれ以来、観られる機会がなかったんだ。大学生になって一人暮らし始めた頃に、やっと全話観れた。最高だったなあ」


 ふふ、と笑みが漏れる。

 たぶんわざと瑠奈とは関係のない、けれど場が和むような話題を選んでくれているのだろう。

 その気遣いに甘えるように、瑠奈も大翔のリュックへ目を向けた。


「大翔先生のリュックのチャーム……『マジェスタ』ですよね。わたし、幼稚園の頃に観てました」


 雑踏の中、大翔の背中より先に目が留まったのは、魔法のステッキを模したこの小さなチャームだった。アメジストのような紫色のジュエルで装飾され、どことなく大人びたデザイン。

「魔法戦士マジェスティック・スターズ」は、瑠奈がバレエに憧れたきっかけとなった子ども向けアニメだ。それにしては味方が悪役となったり、物語の展開が苛烈だったと記憶している。

 大翔は、夢から醒めたようにはっとして、瑠奈とリュックのチャームを交互に見た。


「……ほんとに!?」


 そして、見たことのない、子どものような満面の笑顔になった。


「瑠奈ちゃんも観てたんだ! そっかそうだよね、瑠奈ちゃん世代のアニメだもんね。いや~嬉しいな、中心世代の人と話せるの……え、ごめん、ちなみになんだけど……推しのキャラっていたりする?」

「えっ? えっと……推し、かはわからないですけど、マジェスティ・ルナが好きでした……」

「…………俺も~」


 突然両手で顔を覆ったかと思えば、泣きそうなか細い声で同意された。どういう感情なのかわからないが、少なくとも怒ってはいないようだった。

 彼はほんとうに「大翔先生」なのだろうか。思わず疑ってしまうほど、抱いていた大人でやさしい王子様のイメージが遠のいていく。

 と、瑠奈のスクールバッグから、着信音が鳴り響いた。

 心臓が跳ねる。おそらく──いや絶対、相手は母だ。

 今日はレッスンがないからまっすぐ帰宅することを伝えていた。時刻は門限よりは少し早いが、レッスンがなければとっくに帰宅しているはずの夕方五時を過ぎようとしている。

 この状況をなんて言い訳したらいいのか。

 取り出したスマホを手に、このままやり過ごすことを考えていた瑠奈の視界で、大翔が微笑むのが見えた。そして、手を差し伸べる。貸してごらん、というジェスチャーのようだった。

 混乱しながらスマホを手渡すと、なんの躊躇もなく大翔が画面をスワイプした。


「ご無沙汰しております。御影みかげ整形外科クリニックの世良せらと申します……ああいえ、こちらこそ。……はい、実は今日の夕方、偶然瑠奈さんと会ったので、つい懐かしくてお話させていただいてまして──」


 電話口に向かって淀みなく話し出す姿を、茫然と眺める。

 ほの暗い店内で、ペンダントライトの灯りが月光のように目の前の男性の輪郭を照らしている。とくとくと胸が鳴る。なんてきれいなんだろう、と場違いな思考がよぎった。全然状況は違うはずなのに、観客席で舞台でも観ているような感覚に陥る。




 小学六年生のとき、レッスン中に足首を捻挫をしてしまった。

 リハビリを担当してくれることなった理学療法士の男性が、世良大翔と名乗ったとき、自分の耳を疑った。写真や動画で見知っていた姿より大人になった彼は、華やかな王子の衣装ではなく、清潔なクリニックの制服を着て瑠奈の目の前に現れた。


「俺はお医者さんじゃないから、『先生』だなんて呼んでくれなくていいんだよ」


 瑠奈にとって、指導者という存在は等しく「先生」だった。そもそも理学療法士という職業のことすらよくわかっていなかった。だから深く考えることもなく「世良先生」と呼んだら、困ったように苦笑されたのを覚えている。

 映像では知り得なかった大翔の素の顔を目の当たりにしたその瞬間、体内を渦巻いた感情の温度に、幼い瑠奈はひどく戸惑った。


 世良先生と控えめに呼んでいたのがいつのまにか、蜜のような甘さを潜ませて、大翔先生と呼ぶようになった。

 大翔に手を引かれ、まるでパ・ド・ドゥのように導いてもらえるのなら、このまま足が治らなくてもいいかもしれない。


 一度でもそんなふうに思ったから。

 だから今なって、罰を受けたのだろうか。


「コンクールは諦めなさいって、お母さんとお医者さんに言われたんです」


 せっかく温まった体を、強い夜風が容赦なく嬲る。乱れたボブカットを手ぐしで直しながら、瑠奈はようやく事の次第を大翔に打ち明けた。

 瑠奈は、先天性心疾患で、制限付きの生活を余儀なくされている。とはいえ定期的な通院と投薬に、制限のラインを越えさえしなければ、ごくふつうの日常生活を送ることができる。

 バレエも、もともとは制限の範囲内で、あくまで趣味のひとつとして両親と担当医が許してくれた習い事だった。


「わたし……病気のせいでずっと周りが気遣ってくれて、感謝しないといけないのに……ずっと、ほんとうは居心地が悪かった。わたしだけが偽物の世界にいるみたいで……」


 クラシックバレエは言葉がいらない。物語を想い、旋律に身を委ねて──頭の先から指先、つま先に至るまで、動きひとつひとつに神経を行き届かせることは、恍惚で、瑠奈がこの世界から逃れられる術だった。


「……コンクールで上位に入賞できたら、スカラシップが貰えて、バレエ留学ができる。そうしたら……わたしはもうわたしなんかじゃなくなって、きれいな世界へ飛んでいけるのかもって、思ったんです」


 何気なさを装って、母にコンクール出場の打診をしてみた。これまで見守ってくれていたはずの母は顔色を変えて、言った。約束が違う、と。その後父や担当医にも同じ反応をされ、ああ、わたしは勘違いしてたんだと、ようやく気がついた。


「……大翔先生……さっき、お母さんと話してくださってありがとうございました」


 喫茶店で大翔は、心配して連絡を寄越した瑠奈の母に今日の出来事と、帰路は自分が家まで送り届けると伝えた上で、終始和やかに会話をしていた。


「お母さん、リハビリでお世話になってたときから、大翔先生のことすごく信頼してるから……。たぶん、わたしが言ってもダメなことも、大翔先生だったら許してくれそう」


 冗談めかして言うけれど、きっと間違いではないだろう。それに、母だけではない。大翔はクリニックで、自分を含めて誰からも信頼されて、好かれているように見えた。

 大翔に導かれると、まるで魔法のように、どんな望みでも叶えてもらえるような気持ちになれた。


「──バレエをやっていた頃、よく家の近くの橋に来たんだ」


 ちょうどこんなふうな場所、と言って、橋の中心で大翔がふと歩みを止めた。

 運河に架かる歩行者専用のアーチ橋だ。ここを渡りきった先に、瑠奈の自宅マンションがある。


「踊ることに疑いを持ったことなんてなかった。でも、あるきっかけで、気づいたんだ。俺はべつに舞台に立ちたいんじゃない、『王子』を演じたいんじゃないって」


 大翔のほんの少し後ろについて歩いていた瑠奈には、朗々と語る彼の表情は見えない。


「気づいたけど、どうすることもできなかった。あの頃の俺は、母の望むダンスール・ノーブルになるように、厳重に管理されていた存在だったから」


 管理。

 喫茶店でも聞いたその単語を、虚ろに思い返す。


 大翔の母親はかつて海外バレエ団でプリンシパルを務めた、世良舞華せらまいか。バレエ界でその名を知らぬ者はいないほどの著名人だ。

 彼女のひとり息子である大翔もまたクラシックバレエの道を歩んだことは、雛鳥が飛ぶ練習をするように、周囲からすれば自然の流れだった。

 甘く凛々しい容貌に、すらりと長い手足。高い身体能力。

「片翼の王子」。母の名に恥じない実力でプロデビュー前ながら界隈を魅了していた大翔が、いずれ完璧な翼を得て世界へ羽ばたくという意味合いで、研究生時代にそう呼ばれていたそうだ。


 大翔がバレエ界を退いたのは十年前だ。瑠奈が大翔の存在を知って、バレエを習い始めたのも同じ頃だった。

 当時、親の真似をしてタブレットPCで動画を観ることを覚えた瑠奈は、たまたま大翔の過去の映像──コンクールの公式映像で、白鳥の湖の王子のバリエーションだった──を目にしたのだ。

 いまでもよく覚えている。

 日曜日の朝だった。朝食を食べながら、マジェスタのエンディングをテレビで観たばかりだった。

 月夜の橋の上で、こんなにうつくしい王子様と踊れたら、なんて素敵なんだろう──。


 大翔がバレエ界を退いた理由は今日に至るまで明かされないままだが、惜しむ声はあっても、引き止める空気にはならなかった。

 世良舞華が急逝したためだというのが、界隈では通説だからだ。


「そういえば母は、君と同じだったな」


 ふと思い出したように、大翔が首だけ動かして瑠奈を見た。上着のポケットに両手を入れたまま、見下ろすような視線にわずかに息を呑む。


 先天性心疾患。

 世良舞華は、十年前に自宅で発作を起こして、大翔が学校から帰宅したときにはすでに亡くなっていたという。

 彼女が持病を抱えながらもプリンシパルとして活躍し、引退後も師として母として、息子を導いたことはうつくしい功績としていま尚語り継がれている。


「俺をきちんと管理してくれた母には感謝してるし、それに彼女のことは好きだった。色がね、すごくきれいだったから──」

「……色……?」


 橋の上で立ち止まったときから瑠奈は、何か得体の知れない胸騒ぎを感じていた。

 薬は欠かしていない。制限のラインを越えるような運動だってしていない。門限だって、喫茶店で大翔が母に説明してくれたはずだ。コンクールも、諦める。約束はすべて守っている。

 ならばどうして、こんなにも呼吸が苦しいのだろう。警告のように心臓が鳴っているのだろうか。


 バササッ。

 そのとき、空気を裂くような鳥の羽音が辺りに響いた。

 目を見開く。夜闇の空から、大きな鳥が姿を現したのだ。

 鳥はカラスによく似た黒い翼を広げたまま、大翔の頭上でホバリングしている。カラス──いや、それ以上の、鷲のような大きさだ。羽の色、嘴や脚に至るまで黒い。つぶらな両の瞳だけがガラス玉のようにがらんどうで、けれどそれらがじっと瑠奈を見据えている。


「橋の下で出逢ったんだ。母が亡くなる前に」


 おもむろに大翔が片手を宙へと伸ばした。

 鳥は慣れたようにその手に乗り、目を細めて大翔の指先に頭を撫でられている。


「すごくいい子なんだ。俺の『お願い』を叶えてくれたんだよ」


 ひどく異様な光景だった。

 なのに、憧れの人が黒鳥を手懐けている姿は絵画めいていて、息を吞むほどうつくしい光景に思えてならない。

 言葉を失くして立ち尽くす瑠奈に、大翔は悠然と微笑んだ。そして鳥を手から肩へ移動させ、瑠奈の前へと跪く。


「これは、君の助けになるかもしれない」


 眼下で手が差し伸べられた。

 大翔の掌でころりと転がったのは、ガラスの小瓶だった。中身は──わからない。ぼんやりとした紅い光を放つ、まるで小さな月のような物体だった。


「これは俺のコレクションの中でもお気に入りだったんだけど……いまの君のほうが、きっと合ってると思う。家に帰ったら、誰にも内緒で、眠る前に瓶の中身を飲み込むんだよ」


 テノールの声音が、子どもにおまじないを与えるみたいに言い含める。

 胸騒ぎがやまない。それでも、まるで導かれるように瑠奈は小瓶を指先で摘んだ。

 震える瑠奈の手を、大きな両手がぎゅっと包み込んで握った。


「君の願いが叶うといいね」


 いつもの大翔だ、と思う。

 緊張で冷たくなった瑠奈の手をあたためてくれる、紛れもなく「大翔先生」のやさしい手で、笑顔だった。だから瑠奈は頷いて、小瓶をしっかりと握りしめた。

 黒鳥がガラス玉の目をして、瑠奈を見ている。


 それから数ヶ月が経った。

 瑠奈を取り巻く世界は、一変した。

 背中に羽が生えたように、体が軽い。手足が思い通りに動く。

 病院の検査結果が異常によかった。担当医が、両親が、コンクール出場を許してくれた。

 瑠奈がコンクールの演目として選んだのは、白鳥の湖「黒鳥のバリエーション」。難易度が高く、たとえ疾患を抱えていなくても、瑠奈の実力では踊ることなんて到底できなかった。けれど瑠奈は、踊ることができた。過去に捻挫の原因となったフェッテも、難なく回り切ることができた。

 

 過去に世良舞華が舞台上で披露したように──まったく同じダンスを、踊ってしまった。

 生まれてはじめての拍手喝采を浴びながら、ここはどこなんだろう、と思う。舞台からの景色は、まるで橋の上から眺める夜闇に染まった川面のようだった。

 手が、足が、軽い。羽が生えたように。思い通りに? 自由に? 魔法みたいに。わたしに魔法を与えてくれたのは、誰。これは、誰。わたしの中で声がする。鳥の羽音が。声が、聴こえる。

 違う、これは、わたしじゃない。

 わたしのなかにいる「あなた」は、だれ?


 満月がうつくしい夜だった。瑠奈はベッドを抜け出し、無断で家を出た。

 真冬の冷え切った道を、靴も履かずに裸足のまま歩く。やがて、運河に架かるアーチ橋へとたどり着いた。

 バササッ。

 大きな羽音が耳に届く。

 橋の中心には、黒鳥を肩に乗せた男が月を見上げながら佇んでいた。彼が瑠奈に気づいて、微笑を浮かべる。


「……大翔せんせい」


 彼のもとへと近づいて、足が、と瑠奈はわななく唇を動かした。


「足が、ちがうんです。手も、足も……。ぜんぶうまくいきました。でも、ちがう。わたしじゃないんです。……声がするんです、ずっと、わたしのなかで、声が……」


 温度のない手で、服の上から心臓を掴む。呼吸がうまくできない。苦しい。この感覚を、知っている。でもはわたしのものじゃない。だってわたしはこうならないように、ずっと約束を守ってきた。

 ──許してほしい。

 ──もう、お願いだから、楽にしてほしい。

 そう希うのは、だれなの。


「……記憶が……ど、どうして……? わ、わたしの知らない記憶が、ある……あなたが、見て、る──」


 小瓶の中身を飲み込んでから、フラッシュバックのように浮かんでは消える記憶があった。ただこの瞬間──大翔を目の前にした瞬間──明滅していた記憶が、はっきりと瑠奈の脳裏に広がっていた。


 苦しい。

 おねがい、やまと、くすりを……。

 やまと、助けをよんで。

 どうして見ているの。

 どうして、たすけてくれないの。

 くるしい。うごけないの。

 おねがい、だれか、だれか。

 やまと、おねがい、おねがいだから──。


 床に伏したまま動けない。朦朧とした視界の中で、うつくしい少年が佇んでいる。学校の制服姿で、両手をズボンのポケットに入れたまま、こちらを悠然と見下ろしている。

 やがて彼はゆっくりと跪き、倒れた「わたし」に囁いた。


「ありがとう。俺は、あなたの光がずっと欲しかったんだ」


 バササッ。

 鳥の羽音で、我に返る。

 いつのまにか、胸を抑えたまま瑠奈はその場にへたり込んでいた。

 浅い呼吸を繰り返しながら、顔を上げる。夜闇の翼を広げた男が、月光に照らされながら観察するようなまなざしでこちらを見ている。


「……やっぱり、ひとつの器にふたつが共存するのは難しいか」


 彼が何事か囁きながら近づいて、瑠奈の前に跪いた。

 ムスクのような甘い香りが漂う。あたたかな体温を感じて、張り詰めていた力が抜けていく。

 大きな手が背に回り、もう片方の手が、瑠奈の胸の中心に触れた。そのまま──まるで水中へ沈めるかのように、手が肉体を忘れてしまった瑠奈の内部へと侵入した。


 昔観たアニメで、こんなシーンがあった。

 自ら悪に染まった少女が、かつて仲間だった少女の光り輝く心に惹かれた末に、それを奪い取ろうとするシーンが──。


 まったく痛みを感じないせいか、懐かしいな、などと夢をみるように瑠奈は思った。しばらく内部をまさぐるようにした後、手は引き抜かれた。

 ぐらりと視界が揺れる。

 男の手には、弱々しく紅い光を放つ小さな球体があった。以前どこかで見た覚えがあるものだったが、意識が混濁して思い出せない。


「無理な使い方したせいかな……濁りきっちゃったな」


 食べていいよ。

 宣告のように男は言うと、肩に乗せていた黒鳥へ球体を近づけた。ぱかっと嘴をひらき、暗闇の咥内へ球体が放り込まれる。

 ──パリン。

 嘴が閉じられた瞬間、ガラスが砕けるような儚い音が聞こえた。


「……あなたは、だれ……」


 茫然と尋ねる瑠奈に、男は答えなかった。

 ゆったりとしゃがんで膝に肘をつき、片頬杖をついてひどく安心したような笑顔を浮かべる。


「よかった。少しだけ欠けちゃったけど、君の色はうつくしいままだ」

「……いろ……?」

「そう。君は、すごくきれいな紫色をしてる。いいね、俺の好きな色なんだ。推しカラーだからね」


 無邪気な声で、目の前の人が何を言っているのか理解できない。いつか誰かと、そういう話をしたような気もする。

 月夜の橋の上で、黒い羽根が舞い踊る。


「おいで。俺のものになってくれたら、大事にする。約束するよ」


 “こんなわたしにも、きっとあなたは手を差し伸べてくれる。”


 ああ、そうだ。

 思い出した。

 あなたはわたしの黒鳥ロットバルト。そして唯一の、ダンスール・ノーブル。

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ムーンプリズム・イン・ザ・ダーク きみのマリ @kimi_mari

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