2・春の暴言
紅華帝国の皇宮は、常に重苦しい空気で満ちていた。まるで悠久の歴史の合間で、権力者たちの影が溶けこんでいるかのように。
白藤綾乃は背筋を伸ばし、冷えきった皇宮の廊下を進んでいた。少し遅れて、綾乃の執事がその背を追う。
敷かれた血のように紅い絨毯が、二人の足音を吸い込んでいく。綾乃の纏う藤色の小袖が擦れる音が静謐に混ざり、緊張感を掻き立てていくようだった。
綾乃は、目当ての部屋へと辿り着いた。
鷹を模した重厚な彫りの黒檀の扉。皇太子の執務室である。
綾乃は皇太子――
彼から用件は明かされていない。
予測は、残念ながら、出来てしまっていたのだが。
執務室の扉の左右には、軍服姿の雪哉の
しかし、綾乃がそれを問いただすより早く、執務室から大きな声が響いてくる。
「兄上! お願いだ!」
彼の声だ。
許嫁である、紅華帝国第二皇子、雅臣。
苛立ちの混ざった、必死さの滲む声音だった。
綾乃は目の前の扉が僅かに開いていることに気がついた。そのせいだろう、声は筒抜けだ。
綾乃は無表情のまま、扉の前で立ち竦んだ。
侍衛たちは焦ったように口を動かしていたが、時はすでに、遅い。
「彼女以外なら誰でもいい! 俺は……」
彼女、というのが己を指すのだと、綾乃は直感した。
もともと凍てついているはずの心。
そこに、亀裂が入っていく感覚。
指先が冷えていく。
温めたくなって、柔く手を握りしめた。
「落ち着きなさい、雅臣」
雪哉の冷静な声が聞こえる。どうやら弟である雅臣を宥めているらしい。
「婚約を考え直してください、どうか」
「駄目だよ。彼女より相応しい相手は他にない。何度も言っただろう」
なおも追い縋る雅臣に、雪哉は優しく、それでも決して揺るがない声で答えていた。
自嘲が漏れる。
綾乃はそのため息を、どうしても抑えられなかった。
第二皇子と、四華族のひとつ、白藤家の娘との婚姻。
古くから決められていた誓いを、今更駄々をこねて変えられるはずもない。
雅臣に避けられていることなんて、とっくに気がついていた。
この歳まで色々と理由をつけ、彼は綾乃との面会を拒否し続けてきたのだ。
「でも!」
「話は終わりだ。別の話がしたかったのだが、その様子では無理だろうね。帰って休みなさい」
突き放す皇太子の言葉に、雅臣は二の句を継げなくなったようだった。
けたたましい足音が近づいてきたかと思うと、荒々しく執務室の扉が開かれる。
すぐに、雅臣がそこから飛び出してきた。
綾乃と雅臣の視線が絡む。
雅臣が金髪の中に隠れる紅い瞳を丸くしていくのが、ありありと分かった。
「っ! ……あ……」
雅臣の口元が、まごついた。
綾乃は彼の様子に気が付かないふりをして、表情を動かさないよう細心の注意を払いながら、淑女の礼を
綾乃の礼に雅臣は面食らったのか、すぐさま彼は唇の端を噛む。
去り際、最後まで深い悲しみを湛えた瞳で綾乃を見つめていたのは、きっと気のせいではないだろう。
――鈍痛。
まただ。彼の炎のような瞳を見ると、仄暗い痛みが頭を覆う。……何かを思い出す、気配だけが甦るのだ。
綾乃は雅臣の背を見送ってから、一つ深い呼吸をした。
彼に、嫌われている。そして綾乃も、雅臣が得意ではない。
いつも身分を感じさせない、悪く言えば軽薄な言動を取る彼の周囲に人は絶えない。それだけなら、いい。
だが、許嫁はそっちのけで数多の令嬢と浮き名まで流す彼のことを、どうやって好印象に思えば良いのか。
綾乃はそれでも理解している。
それと婚姻とは別の話だ。
この婚姻は政治、華族の義務、仕事なのだ。
綾乃は侍衛たちに会釈した後、力を込めて黒檀の扉を開いた。
背後に控えていた執事の寛太が、深い礼をして綾乃の姿を見送る。
「失礼いたします」
綾乃は、皇太子の執務室へと足を踏み入れた。
大きな部屋だ。壁一面の本棚にぎっしりと、歴史書や調書が詰め込まれている。天井から吊られたシャンデリアが、水晶の光を控えめに乱反射させていた。
部屋の奥では雪哉が困り果てた表情のまま、それでも優雅に椅子に腰掛けている。
「ああ。来ていたんだね。……もしかして、聞いていた?」
「……はい」
小さな綾乃の肯定に、雪哉は眉を下げた。
白く
「婚約式の話をしたかったんだが、どうもそんな空気ではなくなってしまったね。すまない」
「皇太子殿下が謝るようなことでは」
雪哉の顔色は白く、長い執務が刻んだ疲労が隠しきれていない。
それでも彼は気品を崩さず、静かに綾乃に微笑んだ。優しい威圧感が、綾乃を包む。
「どうか雅臣を頼むよ。あれはまだ、幼いんだ」
「……はい」
彼が幼い、と言われれば、そうなのだろう。
しかし、ただ単純に未熟な感情だけが先行しているわけではない。きっとそうだと雅臣を
綾乃はそのまま、執務室を退室した。
またしばらくして、雅臣の感情が落ち着いたら、皇宮に参上することになるだろう。
再び冷気で満ちた廊下を進んでいると、人気が無くなった頃に、背後から肩をふるわせる気配がした。
「お嬢様に、なんと無礼な……」
執事の
気がついて、思わず綾乃は振り返る。
普段は冷静でまるで兄のように優しい男なのに、今は野犬のような凶暴さを黒い瞳に宿していた。
先ほどの雅臣の発言は、当然寛太にも聞こえていたのだろう。
執事の
「大丈夫よ寛太。このくらいのこと」
綾乃はかすかに笑んで、寛太をたしなめた。
そう、大したことではない。
心を裂かれた傷は、もう塞がっている。
……塞がっていなければ、いけないのだ。
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