最後の切り札

アヌビアス・ナナ

読み切りショートショート

重厚な扉が開き、エス氏は厳粛な面持ちで「決定の間」へと足を踏み入れた。


部屋の中央には、人類の叡智を結集した超高性能AI「マザー」の端末が鎮座している。 マザーは、政治、経済、環境問題、あらゆる事象を完璧に演算し、この国を繁栄させてきた。犯罪は消え、貧困は克服され、病気さえも過去のものとなった。 すべてはマザーの計算通りだ。


しかし、年に数回だけ、マザーでさえ結論を出せない未曾有の危機が訪れる。 論理的最適解が拮抗し、計算が無限ループに陥る特異点。 その時こそ、エス氏の出番だった。


「エス様、お待ちしておりました」 スピーカーから合成音声が響く。 「今回の議題は、隣国との資源協定についてです。A案:強硬な経済制裁を行い、短期的な不利益を被りつつ長期的な主導権を握る。B案:妥協して協定を結び、安定を維持しつつ緩やかな衰退を受け入れる。……演算結果、双方のメリット・デメリットの総量は、小数点以下50桁まで完全に等価。判断不能(エラー)です」


エス氏は眉間にしわを寄せ、提示された膨大なデータを睨みつけた。 彼の背中には、国民の運命がのしかかっている。 冷や汗が流れる。胃が痛む。 数分、あるいは数時間の沈黙の後、エス氏は震える指で、一つのボタンを押した。


「……A案だ」


その瞬間、部屋の照明が明るく切り替わった。 「了解しました。A案を実行します」 マザーの声は、どこか晴れやかに聞こえた。


エス氏は疲労困憊で部屋を出た。 廊下で待機していた若手の補佐官が、ハンカチを差し出す。 「お疲れ様でした、先生。今回もまた、人類の直感が機械の限界を超えたのですね」


エス氏は誇らしげに頷き、去っていった。 その背中を見送りながら、補佐官はふと、隣にいた上司の技師に尋ねた。


「しかし不思議ですね。あのマザーが、本当にどちらでもいいような二択で迷うなんて」


技師は肩をすくめ、小声で答えた。 「迷ってなどいないさ。マザーにとって、A案もB案も、結果への道筋が違うだけで『正解』なんだ」 「え? ではなぜ、あの方に判断を?」


技師は、去りゆくエス氏の背中を憐れむように見つめた。


「完璧すぎる社会において、人間は『自分が何かを決めている』という実感がないと、無気力になり、やがて精神を病んで自滅してしまうんだよ。だからマザーは、定期的に答えのない二択を用意して、人間に『決断』という名のガス抜きをさせてやっているのさ」


技師は手元のタブレットを操作し、マザーに次の「難問」の生成を指示した。


「あれは、この国で最も高コストで、最も無意味な、ただの精神安定剤(セラピー)だよ」

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最後の切り札 アヌビアス・ナナ @hikarioibito

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