​第1話:完璧な仮面の下で

翌朝、九時。

 大会議室の空気は、昨夜の雨が嘘のように乾燥しきっていた。

 プロジェクターの駆動音。タイピングの音。咳払い。

 

 僕は末席に座り、スクリーンの前に立つ人物をじっと見つめていた。

​「――以上が、今期の営業利益の推移です。Cチームの数字が未達ですが、これについては来週までにリカバリープランを提出させます」

​ 佐伯玲子部長の声は、よく響く。

 低く、落ち着いていて、一切の感情を挟まない。

 純白のブラウスに、ネイビーのタイトスカート。髪は一筋の後れ毛もなくまとめ上げられ、その横顔は彫刻のように美しい。

 

 完璧だ。

 どこからどう見ても、誰もが恐れる「鉄の女」。

 隣に座る同期の佐藤が、小声で僕に囁いた。

「相変わらずキレッキレだな、佐伯部長。昨日の深夜まで残ってたらしいぜ。タフすぎて引くわ、マジで」

​ 僕は曖昧に頷きながら、手元のボールペンを強く握りしめた。

 ……違う。佐藤、お前は何も知らない。

​ あの完璧なブラウスの下、左の鎖骨のくぼみに、赤紫色の鬱血痕が残っていることを。

 今、スクリーンを指し示しているその人差し指が、昨夜は僕の背中に爪を立て、震えていたことを。

 そして、「リカバリープランを」と言い放つその唇が、昨夜は言葉にならない声で、何度も僕の名前を呼んでいたことを。

​(……やばいな)

​ フラッシュバックする映像と、鼓膜に残る彼女の吐息。

 下腹部が熱くなるのを感じて、僕は慌てて冷たいミネラルウォーターを口に含んだ。

 罪悪感? いや、違う。

 胸に広がるこの暗い情熱は、もっと歪なものだ。

​ 優越感だ。

 この広いオフィスの中で、百人の社員がいるこのフロアで、あの氷の女王を「溶かす」方法を知っているのは、世界で僕一人だけだという事実。

​「高村」

​ 不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。

 顔を上げると、演台に立つ玲子さんと目が合った。

 冷徹な視線。そこに甘さや照れなど微塵もない。

​「資料の三十ページ、グラフの数値に誤りがあるわ。すぐに訂正して再送して」

「……! はい、申し訳ありません」

「ミスは誰にでもあるけれど、確認不足は怠慢よ。気をつけて」

​ 冷たい言葉が突き刺さる。周囲の同僚たちが「あーあ、睨まれた」という目で僕を見る。

 けれど。

 僕は見逃さなかった。

 彼女が視線を外して次のスライドへ移る一瞬の間。

 彼女が演台の下で、足をわずかに組み替え、自身のスカートの裾をギュッと握りしめたのを。

​ その耳たぶが、遠目に見てもわかるほど赤く染まっているのを。

​ ――ああ、あなたも思い出しているんですね。

 僕と同じ光景を。

​ 叱責されたばかりだというのに、僕の口元には微かな笑みが浮かんでしまったかもしれない。

 これは、僕たちだけの秘密のゲームだ。

 業務命令(オーダー)と情事(ロマンス)が交錯する、出口のない迷宮。

​ 時計の針はまだ午前九時十五分。

 夜(23時)が来るまで、あと十四時間もある。

 僕はネクタイを少しだけ緩め、深く息を吐いた。長い一日になりそうだ。

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