『23時以降は、部下の僕が「上司」です。』
さんたな
プロローグ:雨音と、午前二時の共犯者
空調が切れる音が、これほど重いものだとは知らなかった。
ブウン、という低い唸りが途絶えた瞬間、東京・大手町の地上三十五階は、耳が痛くなるほどの静寂に支配された。残された音と言えば、分厚いガラス窓を叩きつける十月の冷たい雨音と、僕のデスクで回るPCのファンの音だけ。
時刻は午前二時を回ろうとしていた。
広いフロアには、二人の人間しか残っていない。
僕、高村湊(たかむら みなと)と。
僕の視線の先、フロアの最奥にある「島」で、一人黙々と書類にペンを走らせている営業部長――佐伯玲子(さえき れいこ)だ。
「……高村」
静寂を裂いて、凛としたアルトの声が響いた。
僕はビクリと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。パーテーション越しに見える彼女の背中は、まるで針金が入っているかのように伸びている。
「はい」
「いつまでそこにいるの。君の担当分の決算資料は、もう承認したはずよ」
「あ、いえ。来期の予算案、どうしても気になるところがあって……」
「明日でいいと言ったはずよ」
「僕が、今やりたいんです。家に帰っても、どうせ雨の音がうるさくて眠れませんから」
嘘だ。本当は、帰りたくなかっただけだ。
あるいは、この張り詰めた、酸素の薄い深海のような時間を、貴女と共有したかっただけかもしれない。
カツ、カツ、カツ。
硬質なヒールの音が近づいてくる。心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
僕のデスクの横で足音が止まる。ふわりと、高価な香水と、印刷インクの匂いが混ざり合った、彼女独特の香りが鼻をくすぐった。
見上げると、そこにはいつも通りの「鉄の女」がいた。
三十六歳にして部長職に就いた才女。一糸乱れぬ巻き髪、隙のないメイク、冷徹な瞳。社内の誰もが恐れ、そして密かに憧れる氷の女王。
だが、僕は見てしまった。
至近距離で見る彼女の瞳が、充血し、微かに揺れているのを。
そして、デスクの縁に手を突いたその指先が、白くなるほど強く机を掴んでいるのを。
「……バカね、あんたも」
彼女はふぅ、と長く重い息を吐いた。それはため息というより、魂の一部が漏れ出したような音だった。
彼女の手が、自身の首元へ伸びる。
第一ボタンを外す音が、静寂の中で不自然なほど大きく響いた。
「部長?」
「疲れたわ」
独り言のように彼女は呟いた。
アルコールなど一滴も入っていない。あるのは、連日の激務による極限の疲労と、深夜という魔物がもたらす真空状態だけ。
彼女はふらりと体勢を崩し、僕の回転椅子のアームレストに腰を預けた。僕の顔のすぐ横に、彼女の腰がある。
「高村。……私、そんなに怖い顔してる?」
「え?」
「さっき鏡を見たら、ひどい顔をしてた。鬼みたいな、能面みたいな……誰も寄り付かないはずよね」
自嘲気味に笑う彼女の横顔は、今まで見たどんな表情よりも無防備で、そして脆かった。
普段なら「そんなことありません」と社交辞令を言って距離を取るべきだ。それが部下としての正しい振る舞いだ。
けれど、僕の中の何かが、プツリと音を立てて切れた。
「……綺麗ですよ」
口をついて出たのは、そんな陳腐で、不謹慎な言葉だった。
玲子さんが驚いたようにこちらを見る。その目が合った瞬間、僕たちの間にあった透明な壁――「上司と部下」という境界線――が消失した。
どちらから手を伸ばしたのかは、わからない。
気づけば僕は立ち上がり、彼女の細い腰を引き寄せていた。彼女の冷たい手が、僕の頬に触れる。
雨音が激しさを増す。
重なった唇は、熱く、そして乾いていた。
それはロマンスなんて甘いものではなく、互いの存在を確かめ合うような、切実な「衝突」だった。
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