第38話 上谷萌々の夢
上谷萌々
私は幼い頃から、父の影響で経済や投資の本ばかり読んでいた。
同年代が恋や友達の話題で盛り上がる頃、
私だけは四季報やIR資料のページをめくっていた。
──だから、友達はいなかった。
高校へ入学して間もない頃の休憩時間。
いつものように本を読んでいる
「上谷さんも、その本読むんだ?」
横を見上げると、春風が私に王子様を運んでいた。
キラキラした笑顔に吸い込まれ
凝視できず、うつむきながら答えた。
「うん、こんな本…。空谷君も持ってるの?」
「こんな本って。
大丈夫だよ。何も変じゃないよ。
ウチもお父さんが外資系の仕事しててさ…。」
まさか、女子高生が読みそうにない、この一冊が運命を引き寄せた…
この日から私は彼と話すようになり、時間が歪むくらい、凄いスピードで彼に惹かれていった。
毎日野球に全力で打ち込む彼を、私は離れて見守っていた。
いつも手が触れそうで、触れない距離で下校し、尽きることのないオレンジ色の会話はゆっくりと夜空に吸い込まれていく。
家に帰ってからも彼は海斗君に野球を教えていて、終わってからはスマホの文字でお互いの気持ちをまじ合わせていた。
夏疾風が私の髪を揺らす。
夕陽が窓ガラスを赤く焦がす校舎を背に、門の影で彼を待っていた。
いつもの時間になっても彼の姿が見えない。
グラウンドの方を覗いても誰もいない。
遠くの方で聞こえるサイレンが近づいてきて、その音が私の横を通り過ぎ、学校の中へ入っていった。
私は震える足を前に出し、車を追いかけた。
しばらくして、校舎から陸斗君が運ばれてきた。
彼の鞄と、私がいつも渡すお弁当袋も…
思わず身を乗り出し、救急車へ乗り込んだ。
サイレンの音と車の振動が、不安を積もらせ、身体を震わせる。
救急隊員の人の呼びかけに、薄く答える彼の握った手の温度が、少しだけ弱っていた。
その弱さが、怖かった。
病院に着くと、彼と引き離された私は長い廊下を彷徨う。
澄み渡る空に千切れる雲が私を飲み込んだ。
——気づけば、自分の部屋のベッドで、
その雲と同じ模様の天井を見つめていた。
どうやって帰ってきたのかもわからない…
慌ててスマホの画面に目をやるも陸斗君からのメッセージはない。
翌日。
学校を休み、朝から彼の見舞いへ行った
病室で両親と陸斗君は笑っていた。
けれどその笑顔は、どこか薄い膜の向こうにあるように見えた。
お母さんの気遣いで二人きりになった。
私の口が開きそうになった時、
彼の口が動いた。
彼は棚橋君をかばいながら、事故の経緯を話してくれた。
でも、その目に嘘はなかった。
そして、彼は窓の外を見つめ
「俺の足…
もう、動かないらしいんだ…。
もう、この先、萌々と並んで歩いて行くことが出
来ないんだ。
萌々の人生の足手まといになると思うんだ。
だからさ…」
言葉がそこで止まった。
止まったまま、窓の外の夕陽を見つめた。
未来から静かに切り離されていくような横顔だった。
言葉の先が見えた…
聞きたくない…
私はとっさに
「イヤだよ…
急に歩けるようになるかもしれないし…。
そうなった時、私は一生後悔する…
だから…。一緒にいさせて…」
涙につまづいた声が漏れた。
「…。ありがとう…。」
数日後
学校に向かう途中でスマホを覗くと、棚橋君と優愛ちゃんの名前が目に映った。
嫌な予感がした。
気づけば足は病院に向かっていく。
急いで病室のドアを開くと、
中は荒れていて、彼はベッドの下で、テレビに背を向け震えていた。
「ぼくのせいだ…」
気がつくと、ベッドの上で遠くを見つめる彼の手を、両手で包んでいた…
ベッドが赤く染まりだす頃、いつものように海斗君が病室の扉を開けた。
陸斗君の顔がいつもの顔に戻った…
安心と裏腹に、自分にはまだその力がないと痛感した…
翌日、本間先生と校長先生の訃報が流れた。
神様は彼から言葉も取り上げた。
それから数週間、両親が来ても、海斗君が来ても言葉を発することはなかった…
赤トンボが私を追い越し、病院へ向かっていく。
いつも通り病室の扉を開けると、笑顔で海斗君が手を振る。
彼が話さない期間、私は海斗君と仲良くなり、いつも他愛のない話をして陸斗君を励まそうとしていた。
待ち望んでいた声が聞こえた。
でも、その言葉を待ってたんじゃなかった…
「うるせーよ!
毎日、毎日くだらない話してんじゃねーよ!
もう…放っておいてくれよ!」
その声は怒っているのに、何処か怯えて、今にも
泣き出しそうな声だった。
時間が止まった…
海斗君は目に涙を滲ませながら
「…。
何で、そういう事言うの?」
「嫌なら、来るんじゃねーよ。」
その言葉に耐えきれなかった海斗君は病室を飛び出した。
私はすぐに海斗君を追いかけた。
病院をでた所で見失った時、前から中邑君と柴田君が歩いてきた。
「中邑君。柴田君。
久しぶり。
今、この辺りで小学生の男の子見なかった?」
2人は首をかしげ
「見てないよ。どうしたの?」
と心配そうに返してくれた。
「大丈夫。ありがとう。
新しい学校はどう?
野球は頑張ってる?」
2人は背番号を握りしめたユニフォームを私に掲げ、
「この通り。頑張ってるよ。
今から陸斗に見せに行くんだ。
上谷はもう帰るのか?」
「うん。今日はもう…
ありがとう…。
じゃあね。」
私は2人に手を振り、海斗君を探した。
薄暗くなり、街灯が灯りだした。
震える手で眼鏡を外して汗を拭う。
ふと、目の前の公園を覗くと海斗君がブランコで揺れていた。
「海斗君!心配したよ!」
海斗君がブランコを降りて私の方に歩いて来た。
「萌々ちゃん…。
お兄ちゃん、怖かったよ。」
「そうだね。
お兄ちゃんは今、すごく辛い所にいてね、抜け出そうと頑張ってるの。
私もそれに気づいてあげれなかったの。
2人で謝りに行こっか。
でもその前に、沢山走ったからお腹空いたね。
お兄ちゃんの分のハンバーガーも買って謝りにいこうね。」
海斗君は満面の笑みで答えてくれた。
2人で病院に戻り、病室の扉をそっと開けて、カーテンを覗いた。
「萌々。海斗。
さっきはゴメン…。
言い過ぎた…」
神様が彼に声を返してくれた。
「いいよ…。私も何も分かってあげれなくてごめんね…。」
涙がまつ毛をつたい、眼鏡を濡らした。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
私は心の中で中邑君達に感謝した。
3人は同じ味のハンバーガーを食べた。
その日から私達3人は毎日楽しい時間を過ごしたのも束の間…
年が明け、あの事件が起こった。
陸斗君を救ってくれた2人が事故で亡くなり、チームメイト全員が自らこの世を去った。
でも、陸斗君はこの運命を受け止めて、私に言った。
「萌々、お願いがあるんだ。」
陸斗君は、次の日曜日、外出許可をとり、私と出掛けることを望んだ。
日曜日
私は沢山の花が入った袋を車椅子の手摺に掛け、陸斗君を押していた。
交番の前で花を3つ供え、2人で手を合わせた時、後悔の声が聞こえた。
「萌々…
ごめん…
辛いのは俺だけじゃなかったな…
萌々も優愛ちゃんと仲良かったもんな…。
本当にごめん…
ありがとう…。」
合わせた手で涙を拭きながら
「…。2人で乗り越えようね。
じゃあ、次行くね。」
そう言った後、車椅子に手を掛け、私は陸斗君の足になり、学校へ向かった。
学校で2つ花を供え、海で11個。
最後に歪んだガードレールの下に最後の2つを供えた。
手を合わせながら彼は寂しそうに記憶を辿り、呟いた。
「前に俺が萌々と海斗に怒った時にさ…」
言葉が詰まった彼は辛そうだった。
「知ってるよ。
病院の前で2人に会ったよ。
私は2人に感謝してるよ。
今も… これからも… ずっと…。」
「やっぱり、萌々は凄いな。」
「それも知ってるよ。」
2人が出した白い息は、淡く重なり、冷たい風が暖かく運んで行った…
2人で毎年、花を供えた。
数ヶ月後、陸斗君は退院して家へ帰った。
彼のお母さんは私に気を使わせないように、毎日ご飯を作ってくれていて、いつの間にか家族のようになっていた。
高校を卒業した私は大学へ進学し、両親の了解を得て彼の家に住むようになった。
月日が流れ大学4年の夏
朝御飯を食べ、彼の車椅子を押して部屋へ戻った。
蝉の歌が心地よく聞こえ、エアコンの風がカーテンを揺らす。
彼は思いつめた声で囁いた。
「萌々…
卒業したらどうするの?」
「えっ、まだ何も決めてないよ。
決めてるとしたら陸斗君とずっと居る事くらいかな?」
「…。
本当に?」
「本当だよ。」
「…。
こんな身体だけど、萌々が良かったら、俺と結婚してくれないか?」
「えっ?」
時間が止まった。
さっきまで聞こえていた蝉の声も、エアコンの風も感じなくなった。
「これ、受け取ってくれないか?」
薄い緑の箱の中に、指輪が入っていった。
「俺の身体が不自由な事を忘れさせるくらい、幸せにするから…。」
時間や季節が分からなくなるほど頭が真っ白になった。
薄い緑の箱は私の掌で深い温もりをくれた。
中には、未来へと続く光を放ったリングが…
彼はそれを、そっと取り出し私の薬指にはめた。
ただ彼を守りたいと、毎日普通にとっていた行動が、私を幸せに導いた。
今でも、充分幸せなのに…
生きてて良かった…
私が大学を卒業するまでは誰にも言わず、今から2人で準備をしていく。
軽い足取りは皆を幸せにした。
皆で夕飯を食べている時、海斗君が最初で最後の、お願いをしてきた。
「萌々ちゃん。今度の日曜日にさ、兄ちゃんと3人で甲子園の決勝戦見に行こうよ。
これは、嫌味じゃないよ。
もし、僕が野球続けていたらあの舞台に立ってたかもしれないって思うんだ。
だから、せめて、観戦だけでもしたいなーって。」
「日曜日か…
うん。いいよ。何も予定ないし。
じゃあ、お弁当も作るね。」
決勝戦当日
鳥たちが目覚める少し前に、
お母さんが玄関で大きく手を振り見送ってくれた。
熱が滲むグラウンドでの攻防は
大歓声に包まれ、3人に新たな熱を与え、幕を閉じた。
帰り道ーー
「萌々ちゃん。
ごめん。
次のサービスエリア入ってよ。
トイレに行きたい。」
「いいよ。」
サービスエリアに入り、後ろで眠る陸斗に話かけたけど、眠っていて返事がなかった。
海斗君と2人で降りた。
トイレから出てきた2人は、陸斗に内緒で3人お揃いのキーホルダーを買い、車に戻ろうとした。
「海斗君だから言っちゃうんだけど、実は私達、結婚するんだ。」
私は薬指を見せた。
「えっ?!本当に?
おめでとう!」
ハンバーガーを買ってあげた時よりも、満面の笑みだった。
「まだ、誰にも言っちゃダメだよ。」
車を見ると、目を覚ました陸斗が手を振っていた。
私達も手を振り返し、車を確認した後、横断歩道を渡った…
斜め前の車の運転手が反対側を見て、こっちを見ずに発進してきた。
私は無意識のうちに海斗君を抱き寄せた。
"ドンッ'
衝撃が全身を駆け回り、陸斗が回転しながら視界から消えていった…
急に降り出した雨に視界を奪われそうになった。
それでも、私は陸斗を探した。
後ろのドアが開き、彼が崩れ落ちながら出てきた。
動かない足は、まるで十字架のよう…
彼は雨に濡れながら、足を引きずり、腕の力だけで、私達の方へ来る。
凄く叫んでるけど、微かにしか聞こえない…
何を言ってるの?
私達はどうなったの?
胸の中で温かさを感じる…
海斗君の血…
どうして?
海斗君は目を開けない…
どうしたの?
私達ってはねられたの?
ねぇ、私達になにがあったの?
陸斗… 教えて…
目を閉じてしまいそう…
もう少し…
陸斗… どうして泣いてるの…?
雨が暖かい…
あっ… 陸斗の手の方が…
あったかい…
どうして…だきしめるの…
キーホルダー…
わたせない…
からだが… うごかない…
りくと…
第39話へ続く
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