その日、僕はまた眠れなくなった。

@nemos1242

本編


 ホテルに着いたのは早朝5時だった。夜通し飲んだはずの酒がもう薄れてしまって、最悪なことにまともな思考力が戻ってきてしまった。幸い大学時代の無意味で奔放な体力もなくなっていたし、夢も見ないほどに眠れるはずだった僕は11月も終わろうと言う日、また眠れなくなった。



 小中と勉強はできる方だった。一度親の仕事の都合で海外に住んだものの、また地元に戻ることがでたので友人にも困らなかった。

 地方の出身とはいえ、見たいテレビ番組が放送されない以外特に地元に不満も不便もなかった。ドッジボールの強さと足の速さと頭の良さ、運動部で面白いやつならば敵なしだった小中学時代は、やはり今考えても閉鎖的で明快で最高だ。

 

 高校は県で1番のところに行った。市長はこの高校から出るとか、地銀にはこの高校のOBばかりでとか、いかにも田舎の話でそれが誇らしかった。中学で1位を取れなかったことで向上心とか負けん気といったものがなくなってしまって、それは結局今も変わらない。テレビ業界やマスコミ、面白いことが好きだったので放送作家などを漠然と志していた私は文系を選び、まれに一つの科目で2位とか、15位とか取ったことはあれど、常に真ん中の成績だった。


 中学時代、バレー部顧問の体罰や休みのない練習を理由に部員はどんどん減っていって、最後の同年代の部員は3人だけだった。またバレーを楽しみたいと高校でもバレーは続けることにした。クラスの友人とバレー部の友人、どちらのグループも言い方に悩むがカースト上位で、その中でもわりと中心的な位置にいれたように思う。今になって友人に聞けば「(僕)に嫌われたら終わりだと思ってた。どこのグループとも上手くやってて、仲良くて。いろんなところの情報を持ってて、みんなが知らないことを知っていて色々俯瞰してて大人だった」と言われる。風見鶏で噂好きで見栄っ張りだっただけなのに上手く誤魔化せていたと内心褒める。

 

 高2の夏頃、ある女の子と付き合った。所属するグループも違えば、クラスも一緒になったことはなかったけれど、行事で知り合いになりそれからずっとやりとしていた。高1の頃、僕と同じグループの男子Yに告白したものの振られたとかで、仲が悪かったこともあり気まずくて結局高3の夏まで誰にも言わず隠しながら付き合っていた。今思えばマセガキだった僕が小学校の時、付き合った女の子と特に何をするでもなくいた時に、どちらとも特段仲良くない同級生の女の子に悪口を言われたことがある。それがトラウマになっているのかもしれない。自分の色恋を他人に知られても碌なことがないと幼いながらに気づいてしまったのだ。その結果か、僕はお付き合いする時に、お試しでとか、みんなにはとりあえず内緒で、とかそういう交際ばかりしていた。


 高3の受験期、この彼女とは一旦お別れしたが、お互い東京の私大に受かり、一緒に買い物をしたり、出かけたりしてるうちによりを戻した。ファッションや雑貨、流行などなんでも知っていて、全て彼女が教えてくれた。先の友人が言っていた「情報」とか「知らないこと」とか言うのも実は全部彼女から得たもので、僕のセンスはこの時できたのだと思う。 

 

 僕はどうやら「幸せ=家庭=結婚」みたいな価値観を持っているらしい。当時の彼女とは、なんとなく、一度よりを戻したこともあり最後まで上手くいくような気がしていた。愚かな僕は彼女といるのが好きで、「彼女と結婚するなら他のコミュニティは要らない」みたいな思いもどこかにあり、サークルやクラスへの参加も疎かにしてしまったため、大学時代の友人はかなり少ない。

 彼女とは幾度となく喧嘩したが、理屈っぽい僕は喧嘩のたび結論を、それも自分に良い答えだけを欲しがった。彼女の気分とかそう言ったもののせいにして、何かしてあげると言うことをできなかったように思う。気をつけるねとか答えつつ直した記憶がない。彼女がそれに気づいてからは早かった。大人だと評される僕よりも遥かに大人で夢があり、努力でき、綺麗だった彼女は、高校時代のままを望む子供で、怠惰で、変わらない僕に愛想を尽かした。僕が覚えていないほどの、なんとない僕の気遣いを「恩着せがましい」と言われ、「良いことをしても相手に『感謝を求めている』と思われたら、優しくもできないな」と関係の無理を悟った僕は結局その冬に別れることになった。そこでも僕は、大きくて怖がられる自分の容姿とは反対に、ひたすらに子供で情けなかったので、捨て台詞のようなものを吐いた。人生で言った言葉を取り消せるとしたら間違いなくあの時のやり取りだと今でも思う。


 それからなんとなく高校の同級生とも距離が離れた。同じグループだったYらは関西に行ったり、一浪していて話が合わなかったりで学生時代飲んだのは1度きりだった。それも同じ予備校同士のコミュニティが生まれていて、以前のグループとは違う雰囲気があって、参加しにくくなっていた。


 その後性別を問わず新たな出会いを求めて留学をしてみたり、別のサークルに入ったり色々したが、次第にサークルの活動もなくなり、留学での知り合いも最後にはあまり連絡を取らなくなった。


 元彼女の方でも有る事無い事、僕の悪口を言っているんだろうなとか、色々考えてしまって、僕は人生で初めて眠れなくなった。エベレスト並みに高すぎるプライドが良い方に働いて、最悪の選択をするほどではないけれど、今度はプライドが邪魔して打ち明けられず、1人でかなり落ち込んでいた。結局、食とか、お笑い番組とかラジオ、アイドルに逃げた。ひたすらに情報を詰め込んで孤独を紛らわせ、動画を見ては笑い、自然に寝れるのを待った。睡眠のスイッチを入れるのをやめ、布団に入ることをやめた。インプットをやめると無音の暗闇で、考えたくないことを、忘れたいことを、中途半端に記憶力の良い脳が思い出したくないことから順に思い出してしまう。健康に悪いこともわかっていた。それすらも忘れるように動画を見ていた。何もしなくなると考えてしまうから。塗りつぶすように、処理落ちするほどにお笑いを詰め込んでどうにか笑いで溢れた人生だと思いたかった。


 そんな中でも高校の部活のKとMとはたまに会っていた。Kは一浪して地元の大学の医学部に進んだ。Mは同じタイミングで上京した友人だった。2人ともストイックで、自分のやりたいこと、すべきこと、してはいけないことがわかっている人だった。とても尊敬していた。ちょっと抜けてたり、下品だったり、デリカシーがないこともあったけど、2人ともかっこいい男で、親友でいれて誇らしかった。Kが東京に来ると聞けば、集まって街ぶらしたり、旅先のお土産を渡したり、いつかは一緒に行きたいよなーなんて話しながら。やっぱり2人と話しているのが、1番楽しいと思った。先述のことで気落ちしており、悩みを打ち明けるのは恥ずかしいし無理だけど、なんとなく日々あったことを話せるそんな昔ながらの友人が欲しくなってMを同じバイトに誘ったところ、本当に働くことになった。Mは僕に下に見られてるように感じているんじゃないかと、なんとなくそう思っていた。それでも同じところを選んでくれたなら嫌われてはないかなとか、それもじんわりと嬉しくて、女々しさや情けなさや喜びが混ざり合った思いで、手のひらの真ん中あたりがきゅうと痛かった。


 Kは遠方なので頻繁には会えない。Mとも話すが、なんとなく大学、バイト先、自宅の往復に閉塞感を覚えていた。転機は大学2年の11月。ある面接に落ちた。正直凹んだ。ここが復活のチャンスと思っていた。就活はこうやって自分が否定されていくのだ、金持ちは海外旅行だの日本一周だのできるし、ボランティアだのサークル運営があるが自分には特にないなどと薄っぺらな自己分析をしながら帰路についた。やはり大逆転は士業か?起業か?面接なんて結局エピソードバトルではないか?それで言うとビジュアルが良ければ…などと反芻するうちに、ふと思い至った。持っていた資格のこととか、何気ない友人との会話とか、大学にはられていたポスターとか。結局資格試験の道を選んだ。かなりの時間を要することにはなるけれど、まだ大学2年だったので現役合格の希望はあったし、間違いなく大逆転、高収入、自分の努力でいかようにもできる、就活も困ることはない。素晴らしきかな資格試験となり、大学終わり予備校に通いながら試験合格を目指すことにした。今まで努力が報われてきた僕は「自分が頑張るだけ、なんと明快で素晴らしい」などと息まき、久しぶりに無音の暗闇でも眠れるようになった。


 そこからは嬉しい忙しさがあった。大学の授業後、自習して、資格予備校に行って3時間の講義を聞き、22時近くに終わる。飲み会帰りの人で溢れる中央線で、教材を見ながら復習し、家に着くのは23時。夕飯や家事など全て終わる頃には日付が変わっていた。眠ろうと布団に入るのが1時ごろになっても、寝ることができると言うだけで嬉しかった。明日は何を勉強しよう、高校時代の僕が聞いたら驚くだろうが、心の底から勉強したくて、眠るのが惜しかった。落ち込んでいた頃の僕が知ったら喜んでくれるだろうか、眠りたくなくて、もう暗闇は来ない。夜が心地よくて、自然と寝てしまっていた。


 じつは就活もの3社ばかり受けた。その頃には好きなことを仕事にしたい思いは消えていた。多分就活で落ちても、働いて現場を知っても、その好きだったものを嫌いになったと思うから。一社は書類落ち、もう一社は2次面接で落ち、残りは最終面接で落ちた。仕事内容を考えず待遇とか、年収とかそういったものだけで選んだ3社だったし、さもありなんと落ち込まなかった。


 最初の受験はうまくいかなかった。結局在学中に合格はできず、暗闇の気配がした。大学院か、就職か、自学か、留年か。とりあえず院進しようと行こうと決意したところで、ちょうどコロナが始まった。住まいは実家にうつし、大学院の授業はリモートで受講、合わせて資格予備校に行くことにした。卒業式も卒業旅行もなくなったが、友人の少なかった僕はそれすらも気楽で嬉しかった。


 実家に帰る直前、東京にいるうちにと高校時代の友人と会おうかと思ったが、不規則な生活と暴飲暴食の末の怠惰な見た目で、就職していないのも恥ずかしく、会えなかった。なんのプライドなのだろうか。自分がそういう価値観だから、相手にもそう見られていると思い込んでいた。


 実家に帰っても勉強するも、1人で机に向かうのみで、人との関わりもない。コロナで飲み会の誘いもできない。家族以外で会話をしたのは教材を渡してくれる予備校の受付の人ぐらいだった。 早朝に起き、予備校に行き、帰る。両親の分も合わせて夕飯や翌日のお弁当のおかずを私が作った。睡眠、食事、入浴、最低限の家事以外の時間はずっと1人で黙々と机に向かった。腰は痛い、首は痛いが成績が去年よりも上がってる実感はある。孤独を感じたが、コロナのおかげで置いてけぼりにされている感じはなかった。僕の失った時間は僕以外も得られていないと思った。大丈夫、大丈夫、と言い聞かせるようにすればまだ明るい夜だった。


 コロナで日程変更などはあったけれど、ついぞ大学卒業後の試験でも合格することは叶わなかった。このままでいいのか?なんだかとんでもないことをしてしまったのでは?そんな考えでいっぱいだった。

 受かればなんとかなると思ったものの、叔父のの自死などがいろいろなことが重なり、恐怖感が募って行った。裕福で、家庭もあり、孫も生まれ、幸せそうに見えた。趣味のゴルフや釣りなんかもやっていて、何度か連れて行ってもらったこともある。幸せとは何かを真剣に考えだしてしまった。生きるとは、死ぬとは、死んだらどうなるか。こう考えてる意識すらも無くなるのか。今死んだら何が残るのか。みんなは葬式に来てくれるだろうか。死んで仕舞えば今の努力などわからないではないか。今頑張って辛い思いをしながら勉強しているけどその後満足に働けるほど、その分の幸せを感じられるほど生きられるのか。もう何もかもわからなかったけど、このままだとまずい、それだけはわかっていた。


 また眠れなくなった。ストレスと不安と無力さで奇声を上げたくなる。何かすれば忘れられるかもと思い、外を走ることにした。大好きな芸人ののラジオを何度も聴きながら、深夜でも街灯に照らされ明るいままの大きな公園を走り、なんとか体を疲れさせ、それでも物音ひとつですぐ起きるほどの浅い睡眠でなんとか眠る。そんな狭い世界での生活を繰り返していた。それでもあのひたすらに走った明るい夜が救いだった。内心は本当に辛くて、孤独で、いろんなことをやり直したいという思いしかなかったけれど、生きることを噛み締めるような時間で涙が溢れてどうしようもなかったけれど、それが乾くまで、涙を人に見られても汗だと思われるぐらい汗だくになりながら必死に走った。止まったらまた暗闇が来てしまうと思ったから。


 しっかりと眠れるようになったのは就職先が決まってからだった。試験を受けるのをやめ、別の就職の道を探すことにした。

 もう今回の試験で最後にしようと思ったとき、両親には相談した。それでいいのかと僕の話を聞いてくれたが、もう自分でもわからなかった。もう一度1から受け直して落ちたらと考えたら耐えられなかった。これまで勉強してきたのに前回受かった試験に落ちると言うことはそれまでの勉強で成長がなかったのだと気づいてしまう。

 何もかもやめてしまいたかったが、受かるまで続ける方が楽な気もした。「ずるい条件だ。いつ受かるんだ。30過ぎても無職で勉強し続けるのか。弟は働いているのに。同級生は家庭を持っているのに。いつかは合格する前提だけど、その保証はない。金はどうする。親はいつまでもいないだろ。それなら働いて自分の金を稼いでそれでもまだと目指したいと思ってからでもいいのではないか。」暗闇から長く鋭い言葉が聞こえるような気がした。


 幾度となく投げ出してしまいたいと思ったが、それは逃げか、責任なく続けるのも逃げではないのか、やはりわからなくなった。悩みに悩んで、結局、受かるまでやめないか今回で最後か、この二択しかないと気がついた。辞めるなら早い方がいい。続けるなら期限を決めねばならない。どうせなら難しい道をなんていうけれど、どっちが難しいのか、どっちが逃げなのか。楽になりたかったけど、楽な道がわからない。この選択自体からは逃げてはならないということはわかっていた。

 食事もできず、でも猛烈に吐き気が押し寄せる。液体しか出てこない。「人間は70%が水分というけれど、じゃあ僕が僕である部分は30%だな。自分がないから、自分のことも決められないから、人の目ばかり気にしているから、水分ばかりが出てくるんだぞ」と思い、笑いが込み上げた。勉強してはえずいて、また勉強する。夜になるとあの暗闇がまた囁いてくる。


 最後と思って全力で臨んだ試験に結果はついてこなかった。だが不思議と諦めがついた。手応えがあった今回の試験でダメなら多分もうダメだと思った。最後の試験にすると決断したときに、もし落ちたら、せっかく勉強したことにに関わる仕事をとすでに決めていた。第二新卒と言われる年齢をちょうど超えた頃で、この機を逃すと一気に就職という道がなくなるというのも先の決断の理由のひとつだった。そこで今の仕事を選んだ。

 仕事はさして変わらないし、年齢も関係ない。使命感もあって、側から聞けばすごい仕事みたいで地位もある。本来目指していた仕事とは烏滸がましいほど稼げないだろうけど、親、親戚が公務員ばかりだった僕からすれば十分だった。平均以上はもらえるし、仕事内容や年収が嫌になったり、疲れてしまったりしたならば辞めて就職できるくらいには潰しが効く。自分にピッタリだとも思った。改めて考えてもまだ見栄っ張りなところは残っていた。


 僕は「何も持っていないかもしれないけど足りないものはないな」ということに気づけた。あの辛かった日々を思えばなんと楽勝かと、得たものは多く、失ったのは時間だけじゃないか、と「知足安分」の幸せを噛み締められるようになった。

 採用も上位1%くらいで、式典とかの代表にも選ばれた。成績もまあまあで、不安はあったけれど不満はなかった。その後の仕事もうまく行っていたし、社会人のバレーチームに参加したりして、健康でアクティブな生活はできていただろう。充実していてすぐ眠れる日々が続いていた。


 働き始めて1年目の終わるころだったと思う。Kから「結婚するから式に来て欲しい」と連絡があった。先述の通り僕は「幸せ=家庭=結婚」みたいな価値観がある。他の人を、結婚できないから幸せじゃないとか、結婚が全てなんて言わないけど、僕の悩みは大抵結婚で解決する。お金持ちでも、多数の女性からモテていても、カッコ良くても独身ならすごいなという感想は出ても、羨ましいとか嫉妬はない。結婚という大きな土台の上に、いろいろな幸せが乗るイメージだった。友人や仕事はもう少し小さな台。大きな土台があれば、仕事や友人の土台をくっつけて、もっと多くの幸せをもっと持っていられると思っていた。人生の意味も、働く意味も、僕という人間の価値も、何気ない日々の気づきを話す相手がいるだけで、平面的な生活を脱して保証される気がした。

 Kがバレー部の中でいち早く家庭を持ち、幸せな大人になったと思ったことは嬉しかった。同時に置いて行かれたような、自分だけ子供でいることを実感するような気もしたけれど。疎遠になっていたけれど、これを機にまた話せるんじゃないか、Kは俺の親友で最高の男で、目をつけたあなたも最高だとKと家族になる人たちに自慢したい気持ちが圧倒していた。


 仕事のスーツは筋トレの成果かサイズが合わなくなっていた。いい機会と思い新調したスーツで式に行った。とてもいい式だった。笑顔と感動に溢れて、僕も恥ずかしいから泣くものかと、必死に堪えることがあった。結局4次会ぐらいまで飲み歩いた。解散してホテルに着いたのは5時だった。風呂に入ったり着替えたりで寝ようとする頃にはもう酔いは覚めてしまった。疲れていたし、眠かった。眠れなかった。嫌な予感がした。電気を消したはずなのに部屋のランプとかケトルの影が壁に映っていた。興奮じゃない。またあの暗闇がやってきてしまった。


 いくつかのことをどうしても繰り返した。鶏が先か、卵が先か。何からどうしたらいいのか。どうしたいのか。間違えているのか。そもそもそんなこと周りは気にしていないんじゃないか。


 僕は別に友達全員の1番でありたいとかそんな烏滸がましくて尊大なことは思っていない。現にKのスピーチや司会やらは大学の友人がやればいいと、そう思っていたし、今も思っている。でも誰も悪くないことを、考えても仕方がないことをどんどん考えてしまう。式場でのやり取りを思い出してしまう。KとMに他の人たちを加えたグループができてるなとか、そいつらは事前に奥さんにあってるんだなとか、海外一緒に行ったりしてるなとか。Kはメッセージカードで「親友とまた会えてよかった」と書いてくれた。みんなに書いてるのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいいくらいに嬉しくて、「あの時本当は辛くて」「あの時の時間をこれから取り戻したい」と、飾らない自分を見せれるんじゃないかと思った。今は家も近いし食事にでも!と言われた。社交辞令じゃなくなるように、また会う口実をどうにか作ろうとした。

 Mは「誘いたかったけどどうしてるかわからなくて声をかけらなかった。本当に心残りだったから、今日会えてまた会えるようになって嬉しい」と久しぶりの対面時も、ベロベロに酔っ払ったお別れの時も悲しそうな顔で言ってくれた。本心なんだなと思った。優しくされて、それが余計に辛かった。また彼らと仲良くできるのだろうか。また結婚式に出たり、出産祝いを贈ったり、いつか子供同士を遊ばせたり、旅行したりそんなことを。


 年末には同窓会がある。実は開催自体、式で同級生と話す間に知った。1年から2年に上る際にクラス替えがあり、1年のクラスラインには入っていたが、2.3年次のクラスラインには入っていなかった。抜けたのかもしれない。文化祭や部活のグループには入っていたが、「可能な限り拡散してください」みたいな雑な案内だったため、運悪く招待から漏れてしまったらしい。

 どうせ行かないからいいけどと誰に見せるでもない強がりをしてみる。本当は、仮に招待から漏れたとしても誰からも「参加する?」とか話し合う距離感の友人がいなくなってることにも気づいてしまい切なくなった。KとMと連絡をとっていれば、僕も一緒に旅行してれば、と先の悩みと交互に繰り返した。

 今度はクラスの友人Yに「結婚式で話してたら懐かしくなってさ!」とチャットGPTと相談したメッセージを送る。「同窓会は都合つかないけど」と嘯いて「二次会から会おう」と誘ってみると了承の返事があった。仲良い人に会えればいいのは変わらない。同窓会は不参加も多いし会いたくない人もいると考えていると、やはり本音では行きたかったのか?と反芻してしまう。医者や大企業や外資に勤める優秀な同級生らの中で僕が誇れるものはなんだろう。誇る必要もないのに。幸せがわからなくなった。

 考えてはしまうけど、多分招待が来ても本当に行かなかっただろう。きっかけがなかった。きっかけが欲しかった。それが結婚だったのかなとも思う。最後の彼女と別れてからもう1年は経った。Kの式は100人近くゲストがいてすごかった。二次会でも「高校か大学の時の彼女と付き合ってゴールインが最強だ」とか「それ以外の出会いが無さすぎる」とか話していたけど、その通りだ。今日日の実際のところ、それ以外なら、マッチングアプリか誰かに紹介してもらうか位しかないけれど、前時代的なのに子供な僕は、いまだに昔からの知り合いととか、共通の友人の紹介でとか、職場でといったストーリーを求めてしまう。

 マッチングアプリは「男!女!条件一致!付き合え!」と押し付けられている気分で気に入らない。ただ背に腹はかえられないしなと思ったがそういえば好きな人の条件を考えたことがないことに気がついた。僕の価値観上ゴールのない交際は無意味だと思っているけど、結果としてゴールしなくても無意味にはならない。いろんな人と出会って、いい人とを見つけて、相手にとっても自分がいい人でありたい。結婚して友人たちを式に呼んで、本音を、恥ずかしい部分を洗いざらい話したい。呼べる友達は少ないけど。今は相手もいないけれど。僕が結婚するとして、誰を呼べるだろうか。相手が友達多い人だといいな。家族ぐるみで仲良くなって共通の友人にしようなんてことまで考える。僕の友人に紹介して貰えばいいのか。ならやはりKやM、Yと仲を深めなくては。そんな打算的な理屈展開は冗談だけれど、それでもとにかく彼らにまた会いたくて、あの時間を取り返したくなった。


 僕はまた眠れなくなった。あの暗闇に来てしまった。友人たちにまた会いたいと白んだホテルの部屋からメッセージを送る。明るい夜を見つけないといけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その日、僕はまた眠れなくなった。 @nemos1242

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画