第15話 崩壊と決断

変異アバドンが、音も予兆もなく“存在”をずらした。

動いたわけではない。

ただ、世界の位置情報だけが書き換わるように、輪郭が突然目の前へ現れる。


最初の悲鳴は、風を裂く音だった。


ティリアの高速移動が追いつかない。

自分の足よりも、敵の“結果”が先にある世界。


「――っ!」


避けたはずの一撃が、ティリアの太ももをかすめた。

切れた傷口に雷が滲み込み、彼女の膝がその場で落ちる。


「ちょっ……動け……!」


風の魔力が散り、足が言うことを聞かない。

雷撃の痺れではない。

身体の“予測”が奪われている。


ガランが即座に前に出る。


「ティリア、後退――」


言い終えるより速く、雷走斬がガランを叩きつけた。

盾ごと弾かれ、地面に転がる。


嫌な音がした。

左腕の付け根が、不自然な方向に揺れた。


ティリアが叫ぶ。


「ガラン!!」


ミーナが治癒魔術を展開するが、光が途中で乱れる。

魔力の糸が切られたように震え、治癒が形にならない。


「……だめ……この魔力、乱される……届かない……!」


アバドンは攻撃後、皮膚が一瞬黒く沈み、

次の瞬間には絶縁体へ変質していた。

いかなる反撃も通らない身体へと、自動で切り替わる。


カイが前へ出る。


彼だけが、“理解できない現象”を理解しようとする目をしていた。


「……なるほどな。攻撃のたびに、世界を一回リセットしてやがる」


ティリアが息を荒げながら振り返る。


「カイ……もう無理だって……! 撤退しようよ……!」


ガランも腕を押さえながら言う。


「……撤退……だ。戦線を維持できん……」


ミーナは治癒が回らない指先を震えさせながら、かすれた声を漏らす。


「……カイ……これ以上は……誰も耐えられない……」


カイは、ほんの一拍だけ三人を見た。


ティリアの膝は崩れ、ガランの腕は折れ、ミーナの魔力は乱れている。

誰が見ても、この戦いは続行不能だ。


ただ、ひとつだけ決定的な事実がある。


**――この敵の“追撃”から逃げ切れる速度を持つ者が、三人にはいない。**


カイの表情から皮肉が消え、

そこにあったのは“覚悟”を過剰に言語化しない人間の、静かな目だった。


「おい、ティリア」


ティリアは反射的に顔を上げた。


「なに……?」


「全員連れて逃げろ。命令だ」


空気が揺れた。


ティリアの瞳が、震えを隠せず揺れる。


「……や、やだよ。そんなの……カイ抜きで逃げるとか……」


「お前以外、運べねぇんだよ。ガランは守るだけで手一杯。ミーナは魔力が乱れてる。……走れるのは、お前だけだ」


言葉は冷たい。しかし、声が揺れていたのはティリアのほうだった。


「でも、あんた一人じゃ――生き残れない……!」


「知ってるよ」


一切のごまかしがなく、

ただ事実として言った。


ガランが歯を食いしばる。


「カイ……それは……!」


「止められるのは俺だけだ。……それも長くはねぇ。だから走れ。三人とも、生きて戻れ」


ミーナが小さく首を振った。


「置いていけるわけ……ないよ……カイ……」


カイは珍しく、ミーナに向けて柔らかく笑った。


「お前の治癒は、戦場じゃなくて、生きてる奴のために使え」


ティリアの目から涙が零れた。


「……ふざけんなよ……! なんで……なんでいつも……!」


「いつもじゃねぇよ。今日がそういう日なんだよ」


カイは三人の背を向け、雷をまとい始める。


風が、ようやく吹いた。

嵐の前には無かった風が、

去りゆく仲間の背を押すように、静かに流れる。


ティリアは歯を食いしばり、震える足で立ち上がった。


ガランが彼女を支え、ミーナが魔力の残りを仲間の体へ流す。


カイの声が、最後に背中へ届いた。


「振り返るなよ。振り返ったら、全員死ぬ」


ティリアの喉が詰まる。


ガランは目を閉じ、ミーナは涙を指で拭った。


そして三人は走り出す。


雷鳴が、カイの周囲に集まる。

輪郭が光に溶け、立っているのか、雷そのものなのか判別できなくなる。


カイはただ一人、雷雲の下に残った。


背中越しに、静かに呟く。


「……嫌な日だ。ああ、最悪だ」


その声だけは、仲間に届かない。


届いてはいけない声だった。

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