外伝:戦場は、祈りの音を食う

 ――ここでは、祈りの音が最初に死ぬ。


 陽炎の向こうで、あの“赤い塔”がまた一つ、崩れ落ちた。


 塔……と呼ぶにはあまりにも醜い。


 巨大生物の脊椎を無理に立てたような、肉の光沢が剥き出しのまま蠢いている。


 世界を喰う“敵”──統一呼称:アバドン。


 私たちは十数年、ただそれに耐えているだけだ。


 上空のセンサーが悲鳴を上げ、隊長が叫んだ。


「再生速度、また上がってる! クソッ、補給も間に合わねぇ!」


 誰も返事をしない。


 体力でも精神でもなく、“絶望の反復”に声を奪われて久しい。


 私──ミナト少尉は、震える指でスコープを覗いた。


 目の前の肉壁が、まるで呼吸するみたいに膨らんでいる。


 スナイパーライフルの反動すら、いまの身体には過剰だ。


 それでも撃つ。


 撃つしかない。


 ――撃っても無意味だとわかっていても。


 照準の奥で、アバドンの表皮がじわりと再生し始める。


 熱が逃げ、煙が流れ、希望が消えていく。


 射撃音が薄れた頃、仲間の誰かがぽつりと呟いた。


「……あとどれくらい持つんだろうな、この前線」


「一週間、いや三日だ。主戦線はもっと酷いと聞く」


「じゃあ……俺たち、帰れるのか?」


「帰れるわけねぇだろ。夢を見るな」


 夢を見るな──か。


 この世界では、それが挨拶と同じ意味になった。


 そのとき。


 後方指令から通信が入る。


 ざらついたノイズ越しに、誰かが震える声で読み上げていた。


「……異世界間召喚ゲート、次回稼働まで残り六日」


「候補者の再選考を開始。対アバドン適性者を優先」


「……なお、前回召喚者は……未帰還」


 隊の空気が一瞬だけ凍った。


 未帰還。


 それは死を意味しない。


 “帰れる状態ではない”という意味だ。


 アバドン領域に呑まれた者は、モノにならない。


 救出する価値も、情報も、遺体の回収すら見込めない。


 私はひそかに拳を握った。


(どうして……毎回、異世界の英雄を待つしかないんだ)


 実戦部隊の中でさえ、召喚士の計画は多くを語られない。


 ただ一つだけ確かなのは──


 毎週一度だけ、“向こう側”から誰かが来る。


 そしてその誰かは、例外なく前線へ送られ、やがて帰らなくなる。


 たった一週間で成果を求められ、


 たった一週間で死と支配の境界に触れ、


 たった一週間で“物語の主人公”でいられなくなる。


 残された私たちは、その残骸の上で戦う。


 隊長がぼそりと呟いた。


「……次はマシなのを頼むぜ、召喚士さんよ」


 皮肉でも怒りでもない。


 それは、祈りと諦念のちょうど中間だった。


 その瞬間、アバドンの背に刺していたタワーが悲鳴を上げた。


 塔の内部から白い光が溢れ、空を撕き裂く。


「っ、来るぞ! 第三種、防御布陣!」


 地面が割れ、空気がねじれ、視界が紫に染まる。


 何が起きるのか、誰も説明できない。


 長年戦ってきた私たちでさえ、理解しきれない。


 ただ一つだけわかることがある。


 これは、世界が滅びる前兆だ。


 私は銃を構え、奥歯を噛み締めた。


(……神なんていない。英雄もいない。


 でも──ほんの一瞬でも、誰かが来てくれれば……)


 照準の奥で、アバドンの肉塊が脈動し、


 まるでこの世界の絶望を喜ぶように震えていた。


 私は息を吸い、吐いた。


「……どうか、来るなら強い奴であってくれ」


 祈りでも願望でもなく。


 ただ、今夜死ぬ理由が少し減ればいい──


 それだけの、小さな希望だった。

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