第36話

 天音アカリのライブでの「主役食い」から一夜明け、Vtuber "You" の名は、デジタルの海を超えて現実世界をも侵食していた。


 動画投稿サイトの再生回数カウンターは、壊れたスピードメーターのように回転を止めない。デビュー曲「Rebirth」は瞬く間に数百万再生を突破し、音楽急上昇ランクの1位に君臨し続けている。ネットニュースのトップには連日 "You" の文字が踊り、ワイドショーですら「正体不明の歌姫ならぬ歌王子」「令和のネット界に現れた超新星」と、その特異な存在を取り上げた。街を歩けば、ショップの店頭から、すれ違う若者のイヤフォンから、あの扇情的なハイトーンボイスが漏れ聞こえてくる。


 それはまさに、松田冴子が描いた青写真通りの、熱狂的なブレイクだった。


 ステラ・プロモーションのオフィスは、戦場と化している。電話は鳴り止むことを忘れ、メールボックスには秒単位で新規問い合わせが雪崩れ込む。そのすべてが、"You" を求める声だった。


「大手飲料メーカーからCMタイアップの打診です! 金額は……新人に対する提示額じゃありません!」

「次期アニメのオープニングテーマに起用したいと、製作委員会からオファーが来ています!」

「民放の音楽特番、出演依頼です! アバター出演のための技術協力も惜しまないと!」


 デスクたちは悲鳴に近い歓喜の声を上げながら、次々と案件を松田のデスクへと運んでくる。積み上げられていくのは、膨大な利潤の山だった。涎を垂らして飛びつきたくなる、甘い蜜の数々。


 しかし松田は、淡々とそれらを切り捨てていった。


「飲料メーカー、お断りして。イメージ消費されるだけのCMには出さない」

「音楽特番も時期尚早。生放送のプレッシャーに、まだ彼は耐えられない。丁重にお断りして」

「バラエティ番組の『話題の人』枠? 論外ね。うちは見世物小屋じゃないわ」


 松田の判断基準は明確だった。優の母と、交わした契約。「本人が望まない活動はさせない」「音楽以外の仕事は受けない」。部下たちは、「勿体無い」「稼げる時に稼ぐべきだ」と不満げな視線を向けてくる。確かに、短期的な収益だけを見れば、松田の判断は愚かに見えるだろう。ただのお人好しが、保護者の顔色を伺ってビジネスチャンスをドブに捨てている、と。松田は、熱いコーヒーを啜りながら自問する。

 

  ――私は、ただのお人好しなのだろうか。あの繊細な少年と、その母親との約束を律儀に守るだけの、愚かな善人なのだろうか。


 否、と松田の中の「プロデューサー」が答える。これは、長期戦略なのだ。"You" を安売りしてはならない。令和の時勢、タレントの消費速度は速い。安易なメディア露出は「飽き」を招く。露出は極限まで絞り、音楽のみを世間との接点として、永続的な希少性を創るのだ。


 そして何より、松田には見えていた。このプロジェクトの終着点。今はVtuberとして、デジタルの身体を通じて歌う。だが、いつの日か、彼が自分自身を受け入れ、生身の身体で歌う勇気を持てた時。それは、優自身の願いでもある。その時、優は自らの意思で、生身の体でステージに立つだろう。悲劇的な運命を背負い、天使の声を持つ美しい青年。その彼が、蛹から脱皮するかのようにデジタルの身体を脱ぎ捨て、『ありのまま』の生身で歌う。そのナラティブと奇跡の歌声に、世界は真の意味で熱狂するだろう。


 その唯一無二の存在を創り上げることこそが、このプロジェクトの最終到達点であり、最大のマネタイズなのだ。

 オフィスを騒がすこの熱狂は、そのための助走に過ぎない。


 松田はふと、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。そこにあるのは、あの傷つきやすい少年を守り育てたいという、母性にも似た慈愛の表情か。それとも、稀代の才能を利用して巨万の富を築こうとする、冷徹な商売人の目か。その2つはマーブル模様に混ざり合い、松田自身にも判別がつかなかった。


 その熱狂の裏側で。


 インターネットの片隅に、どす黒い悪意が生まれ始めていた。放つ光が強ければ強いほど、落ちる影もまた、濃く深くなるのだ。


 発端は、優がその歌声で「喰って」しまった、天音アカリのコアなファンたちだった。彼らにとって、"You"は許し難い存在だ。自分たちが熱狂するはずだった、あのライブ。それを台無しにして、愛する歌姫を噛ませ犬に貶めた。悔しい。嫌いだ。憎い。どす黒い悪意がコアなファンたちの間を駆け巡り、やがて蠱毒のように凝縮されてゆく。


 その毒は、優の最も繊細な過去を抉り出した。


 優が梨花と共に行った、あのライブ配信。優が、震える声で身体の欠損とコンプレックスを語った、あの映像。悪意を原動力にして、彼らはその痕跡をネットの深淵から掘り起こした。誰かが録画していた映像やスクリーンショットを貼り合わせ、悪意ある切り抜き動画として拡散したのだ。


 その動画は、優が魂を削って行なった告白を、残酷に嘲笑した。優の震える声での告白を、面白可笑しく、茶化すように解説する。


『"You" の正体、くっそウケるw 事故でタマ無しになったんだってよ』

『悲劇のヒーロー気取りかよ。いや、ヒロイン気取りか?w 草生えるわ』

『結局はただのお涙頂戴だろ? はいはい、かわいそうでちたねーw』

『オカマ野郎の声は、豚の鳴き声みたいで吐き気がする』


 SNSのタイムラインに、動画のコメント欄に、見るに堪えない誹謗中傷が溢れ出した。それは批判や感想の域を超え、優の尊厳を土足で踏み躙る、暴力そのものだった。


 自室のベッドの上で、優はスマートフォンの画面を凝視していた。指が震え、呼吸が浅くなる。見なければいい。松田からは、きつく釘を刺されていた。決してエゴサーチはするな、と。


「……っ」


 優は画面を伏せ、シーツを握りしめた。

 

 ――ただの悪口だ。これだけバズったのだから、アンチが湧くのは当たり前だ。気にするな。受け流せ。自分には、松田さんがいる。梨花がいる。味方になってくれる人はたくさんいるんだ。


 必死にそう自分に言い聞かせる。だが、胸の奥に刺さった棘は、抜けるどころか深く食い込んでいく。なぜ、こんなにも痛いのか。なぜ、「気にするな」で済ませられないのか。


 それは、彼らが投げつけてくる言葉の数々が――かつて優自身が、自分に向けていた言葉そのものだったからだ。


 ――僕は、男性としての機能を失った、欠陥品なんじゃないか。

 ――男なのに、こんな高い声で話したら、気色悪いと思われるんじゃないか。

 ――男でも女でもない僕には、もう、どこにも居場所は無いんじゃないか。


 思春期の夜、鏡の前で、風呂場で、布団の中で。優が何百回、何千回と自分自身に問いかけ、呪った言葉たち。アンチの言葉は、根も歯もないでたらめではなかった。優が最も恐れ、最も隠したかった、自分自身の暗部を正確に射抜いていたのだ。彼らの嘲笑は、優の内なる自己嫌悪と共鳴し、増幅していく。世界中の人間が指をさして笑っているような幻聴が、耳の奥で鳴り止まない。


「……ちがう、僕は……」


 否定しようとしても、言葉が出てこない。あの梨花とのライブ配信で、自分を受け入れたつもりだった。ありのままの自分で歌うと決めたはずだった。けれど、浴びせられた剥き出しの悪意は、やっと芽生えたばかりの勇気と自信を、容赦無く踏み潰そうとしていた。


 深夜2時。部屋の明かりを消しても、優の目は冴え渡っていた。天井の木目が、嘲笑う人の顔に見えてくる。目を閉じれば、罵倒の言葉が文字となって瞼の裏に浮かんでくる。眠れない。明日も学校があるのに。レコーディングの練習もしなきゃいけないのに。体は鉛のように重いのに、神経だけがすり減った針金のように尖って、安息を許さない。


 孤独な夜が、優をゆっくりと飲み込んでいった。

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