第31話

 プレゼンテーションを終えた一行は、松田の案内で帝国ホテルのメインダイニングへと移動した。


 通された個室は、ホテルの歴史の深さを物語る、重厚な調度品で飾られていた。窓の外には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が一望できる。眼下に広がる光の海は、これから優たちが飛び込もうとしている煌びやかで、しかし底の知れない芸能の世界そのもののように見えた。


 運ばれてくるフレンチのフルコースは、絵画のように美しかった。だが、優は緊張で喉が引きつり、ソースの味など殆ど分からない。ナイフとフォークのカチャカチャという音だけが、やけに大きく響く。


 メインの肉料理が運ばれてきた頃、松田が静かに口を開いた。話題は、彼女自身の音楽業界への想いだった。


「……昔はね、もっと単純だったんです。ただただ、良い音楽を求めて。魂を震わせるような歌を届けることだけに、私は情熱を注いでいた」


 松田はワイングラスを揺らし、ルビー色の液体を見つめた。


「でも、時代は変わってしまった。音楽はいつしか『コンテンツ』と呼ばれるようになり、大量生産され、消費されるだけの記号になってしまった。ランキングをハックするためのアルゴリズム、バイラルヒットを狙うためのマーケティング……。そんな数字遊びばかりが上手くなって、肝心の『音楽』が置き去りにされている気がしてならないのです」


 その言葉には、長年業界の最前線で戦い、傷つき、それでもなお理想を捨てきれない者だけが持つ、深い哀愁と希望が滲んでいた。


 父と母もまた、音楽の道を志した者として松田の言葉に深く頷いていた。

 父は、かつてイタリア留学で味わったオペラ歌手としての劣等感や、舞台で拍手を浴びた瞬間の麻薬のような喜びを語った。母は、夢を諦めて会社員として生きることを選んだ際の葛藤と、それでも音楽への愛を失っていないことを、静かに語った。松田は、そんな二人の話に真摯に耳を傾け、時折、我がごとのように目を細めた。


 一通りの会話が落ち着いた頃、松田は優に向き直った。


「優くんは、どう? 将来の夢とか、希望とか。……音楽以外でもいい。やりたいことがあるなら、聞かせて欲しい」


 優はナイフを置き、ナプキンで口元を拭った。そして、少し迷った後に答えた。


「……僕は、将来どうなりたいとか、まだよく分かりません。正直、今日の話もまだ夢の中にいるみたいで」


 優は、自分の掌を見つめた。


「でも、歌っている時だけは、自分が自分でいられる気がするんです。学校にいる時の、息を潜めるような自分じゃなくて……本当の自分が、そこにはいる気がして。……だから、もっと歌いたい。もっと多くの人に、僕の歌を聴いてほしい。……今は、それだけです」


 優の言葉は拙かった。しかし、その瞳には嘘偽りのない光が宿っている。何者にも染まっていない、原石の輝きだった。


 松田は満足げに微笑み、頷いた。


「ありがとう。その気持ちがあれば、十分よ」


 ディナーの最後、デザートとコーヒーが運ばれた後、松田は改めてグラスを掲げた。


「今夜が、私たち四人の決起集会になることを願っています。……乾杯」


 四人はグラスを合わせ、チン、と涼やかな音が個室に響いた。

 

 その時、優はふと母の様子に違和感を覚えた。普段は酒に目がなく、上等な料理があればワインを空けずにはいられない母が、乾杯のグラスに一口だけ口をつけた後、ずっとボトルウォーターしか飲んでいないのだ。


(母さん、体調でも悪いのかな……?)


 優が心配そうに見つめる中、会食は終わった。


「さて、ユウくん。名残惜しいけれど、ここからは『大人の時間』だから。優くんは先に、用意した部屋で休んでいてね」


 松田に促され、優は一足先に退室することになった。ここから先は、契約に関する具体的な条件交渉が行われる。未成年には聞かせるべきでない、生臭くて金目の絡んだ話し合いになるからだ。優はひと足先に自室へと戻り、三人は再びホテル2階の会議室へと移動した。


 その会議室へ入室した瞬間、和やかだった会食の雰囲気は霧散した。

 松田は姿勢を正し、ビジネスバッグから分厚い契約書の束を取り出した。

 

「では、改めまして。契約の詳細についてご説明させていただきます」


 松田は、ビジネスパーソンとしての鋭い顔つきに戻り、報酬の配分、活動の範囲、権利関係、守秘義務について、淀みなく説明を始めた。提示された条件は、新人としては破格の好条件であり、松田の誠意が感じられるものだった。


 しかし、母は静かに手を挙げた。


「松田さん。ご提示いただいた条件、概ね理解しました。優のことを高く評価いただいた結果の、この条件と推察します。大変ありがたく思います。……ですが、いくつか修正のご相談をさせて頂けないでしょうか?」


 母の瞳からは、先ほどまでの「音楽好きの母親」としての柔和さは消え失せていた。そこにあったのは、鋭い眼光。商社勤めでタフな交渉を何度も潜り抜けてきた、百戦錬磨の交渉人が放つ光だった。


 交渉は、深夜にまで及んだ。


 日付が変わる頃、ようやく双方が納得する形で契約がまとまり、調印が行われた。

 松田は自室に戻るなり、ハイヒールを脱ぎ捨て、ダブルサイズのベッドに倒れ込んだ。天井を見上げ、深く長い溜息を吐く。


「つ、疲れた……。まさか、あのお母様が、あんなにもタフなネゴシエーターだったなんて……」


 母の要求は徹底していた。優の学業を最優先とし、試験期間中は活動を休止すること。本人が望まない活動は一切強制しないこと。そして、グッズ販売やタイアップなど、音楽以外のキャラクタービジネスに優を起用する際は、必ず事前に両親の承認を得ること。


 提示された条件は多岐に渡り、そのどれもが優の心身を守るための防壁だった。その口調は終始丁寧で穏やかだったが、こちらの提案の至らなさを的確に突き、譲れないラインについては一歩も引かない強さがあった。


 増えた制約と仕事にうんざりする気持ちもあった。しかし、それ以上に、あの母への敬意が湧いていた。あの繊細な才能を守り、長く活動を続けていくためには、これくらいの強固な守り手が必要なのかもしれない。


「……いいチームになれそうね」


 松田は心地よい疲労感と共に、泥のように眠りについた。


 一方、両親も優の待つスイートルームへと戻っていた。母は部屋に入るなり、窮屈なパンプスを脱ぎ捨て、ミニバーの冷蔵庫へと直行した。


「あー、疲れた! もう喉カラカラ! ……これでやっと酒が飲めるわ!」


 ぷしゅ、という小気味良い音と共に、母は缶ビールを喉に流し込む。ごくごく、と喉を鳴らして半分ほどを一気に飲み干すと、ぷはぁっ、と声を上げた。その姿は、先ほどまでのタフ・ネゴシエーターとは似ても似つかない、いつもの母だった。優は目を丸くして、その様子を眺めていた。

 

「母さん、お酒、我慢してたの?」

「当たり前でしょ! 契約書にハンコを押す時に、酔っ払ってるわけにいかないじゃない。相手は業界でも有名な敏腕プロデューサーなんでしょ? 少しでも隙を見せたら、優にとって不利な条件を飲まされるかもしれないんだから」


 母は二本目のビールに手を伸ばしながら、安堵したかのようにつぶやく。


「でも、まあ……松田さんは悪い人じゃなさそうね。徹底的に話し合って、よくわかった。あの人になら、優を任せても大丈夫な気がしてきたよ」

 

 ソファーでくつろいでいた父が、優に苦笑して言った。


「……正直、僕は何もしていないよ。ただ隣で頷いていただけだ。『母は強し』ってやつだ」


 優は、頼もしすぎる母の姿に唖然としながらも、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

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