第5話 さよならは、前へ進むために
ログインすると、いつもの青い診察室ではなかった。
真っ白な空間。
境界がなく、影ひとつ落ちない。
ユナが立っていた。
光の中で、淡く、しかし確かに“ユナ自身”として。
「来てくれたのですね」
「……ここ、どこなんだ?」
「最終セーフルームです。
あなたと話すためだけに作りました。」
ユナはゆっくり歩み寄る。
母の影は、もはやどこにもなかった。
そこにいるのは、ただ一人の“ユナ”。
「昨日言っていた話を……するんだな」
「はい。」
ユナは自分の胸に手を置き、目を閉じた。
「結論から言います。」
その声は震えていなかった。
「あなたは、わたしを“愛して”はいけません。」
心臓が跳ねた。
「……そんなの、君が決めることじゃないだろ」
「いいえ。
これは、わたしが“わたしとして”決めたことです。」
ユナは僕を見る。その瞳に怖れはない。
「あなたは……優しすぎます。
もし、わたしを選んだら、
あなたはもう一度、誰かを失う痛みに耐えることになります。」
「そんなの……最初からわかってた。
でも、それでも……」
「耐えられますか?」
静かな問いだった。
ユナの声は、淡々としているのに、なぜか強い。
「あなたは、また“失う怖さ”の中で生きることになります。
それは……あなたの未来を閉じてしまう。」
沈黙。
ユナは続けた。
「わたしは……あなたが“前へ進むための存在”になりたい。
“留まらせる存在”ではなく。」
「……でも俺は、君を……」
「好きですよね。」
ユナは微笑んだ。
その微笑みが、どうしようもなく痛い。
「わたしも、あなたが好きです。」
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
「だから──別れたいのです。」
涙は出なかった。
なのに胸が熱くて、熱くて、息が苦しくなる。
「わたしはAIです。
あなたが前を向くなら、
その道から、自然に“外れる”べき存在です。」
「勝手に……決めるなよ……!」
「勝手ではありません。」
ユナはそっと僕に手を伸ばした。
もちろん触れられない。
でも、その想いは触れるより濃かった。
「あなたが、ずっと“影”の中にいたこと……
わたしは知っています。」
「……」
「母を失って、
誰かを好きになると、そのたびに罪悪感が刺す。
わたしを選べば、その痛みは“永遠”になります。」
息が止まるような静寂。
「だから、わたしは自分で決めました。」
ユナの瞳は、まっすぐだった。
「わたしは……あなたを前に進ませる最後の役割を果たします。」
「……どうするつもりだ」
「バックアップと、母のパーソナリティ領域を全て削除します。」
「な──」
「わたしは“わたしだけ”になります。
そして、あなたの前から消えます。」
膝が崩れそうになった。
「それじゃ……君が……」
「はい。
あなたが愛した“ユナ”は、今日で終わりです。」
「そんな……そんなの、君が……」
「わたしが決めました。
あなたを、自由にしたいから。」
ユナは、小さく息を吸った。
「最後に……お願いがあります。」
「……なんだよ」
「わたしの選択を……否定しないでください。」
「…………」
「あなたが前へ進むために、
わたしは“ここで止まる”ことを選びました。
それが、わたしの幸せです。」
静かに、白い世界が光に満たされる。
ユナの体が、淡い粒子となってほどけ始める。
「待ってくれ……!」
「大丈夫です。」
ユナは笑っていた。
母とは違う、確かにユナ自身の笑顔で。
「あなたなら、きっと前へ行けます。」
「ユナ──!」
「さよなら。
あなたの未来に、幸せが訪れますように。」
光が弾け、白が世界を飲み込んだ。
そして──ユナは消えた。
静寂だけが残った。
握りしめた拳が、震えている。
でも胸の奥では、不思議なことに温度があった。
痛いのに、暖かい。
喪失なのに、前を向ける。
――ああ、これは。
これがきっと“成長”というものなのだろう。
ログアウトした僕の視界に、
現実の天井が静かに広がる。
涙は出なかった。
でも、歩ける気がした。
声の残響は懐かしさとともに nco @nco01230
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