第一話・祇園花街・化粧を落とせない舞妓(二)

障子一枚が、座敷と外の廊下を隔てている。灯りは障子紙を透かし、木の床の上に、柔らかな黄色の帯を広げていた。


 片づけを終えたばかりの卓には、まだ醤油と酒の匂いがかすかに残り、畳のい草の香りと混ざり合って、「ここなら気を抜いて座っていい」とでも言いたげな空気をつくっている。


 部屋の隅の小さな卓の上には、ささやかだが、手の込んだ夜食が並んでいた。


 ひときわ目を引くのは、濃い色の陶皿に整然と並べられた出汁巻き玉子である。厚く巻かれた玉子が幾重にも重なり、その一層一層の隙間に、透き通るような出汁がうっすらと挟まっている。表面には、ほんのり焼き目がつき、焦げる手前のきつね色が、灯の下でつやつやと光っていた。箸を入れれば、柔らかすぎず、固すぎず、絶妙の弾力が返ってくる。


 その横には、味噌で炊いた鯖の小鍋。


 煮汁はきゅっと煮詰められて、ほとんど黒に近い深い色をしているが、表面には薄い油の膜が張り、灯りを鏡のように跳ね返している。鯖の身は一口大に切り分けられ、端のほうはほろりと崩れかけている。


 小鉢には、揚げ出し豆腐。


 衣は黄金色に揚がっているが、出汁をかけられたあとでも四隅にかすかな「カリッ」とした線が残り、箸を入れると、中から熱い湯気が立ちのぼる。醤油、鰹節、生姜の香りが、ふわっと鼻に抜ける。


 さらに、京風おばんざいの小皿が二つ。


 甘辛く炊いた牛蒡と油揚げ、大根の炊き合わせ。見た目は地味だが、十分に煮含められていて、大根の芯までしっかり味が染みている。


 卓の端には、小さな徳利が一つ。


 掌に載せると、ちょうどいいぬくもりが伝わる温度。注ぎたての酒は、うすい黄金色を帯び、そっと揺らすと、ほのかな米の香りが立ち上る。


 その卓に向かい合って座っているのが、劉立澄だった。


 やせ形だが、背筋はきれいに伸び、座り方は妙にきちんとしている。飲み屋の客というよりも、机に向かうことに慣れた学者のようにも見えた。黒髪は後ろで簡単に束ねられ、前髪が少しだけ目元にかかっている。その半分隠れた眼差しのせいで、彼の表情は、見ようによっては静かに、見ようによっては読みにくくもある。


 今、彼はただ、出汁巻きを一切れ口に運んでいた。


 箸先で持ち上げると、幾重にも巻かれた層がふんわりとほどけ、その間から、少しばかりの出汁がじわりとにじむ。


 口に入れた瞬間、熱すぎない温度で、玉子の甘みと出汁の旨味が、ほろりと舌の上に広がった。それは、主張の強い華やかな味ではなく、静かに全体を支え上げるような、柔らかい「支え」だった。


 彼は、感嘆の声を上げるでもなく、ただ目線を少し落とし、黙々と咀嚼している。その様子は、まるで「この玉子が、きちんと生き切ったかどうか」確かめてやっているようでもある。


「珍しいなあ」


 酒をついでいた女将が、しばらく黙って見ていたが、ついに堪えきれず笑い出した。


「そんな陰気そうな顔してはるのに、食べるときだけは、誰よりも真剣やわ」


 女将の名は、西木屋綾女。


 高く結い上げた髪は、決して高価には見えない簪で留められている。耳のあたりには、わざとらしくない程度に鬢の毛が垂れ、和服は、深い赤と墨色の柄を合わせた、落ち着いた色味のもの。帯の位置は、わずかに低めに締められており、歩くたびに、腰の線が柔らかく揺れる。灯りは斜め上から彼女の肩を照らし、その下の鎖骨を、少しばかり白く浮かび上がらせていた。あくまで礼の範囲内におさめられた、「大人の色気」である。


 酒を注ぐ手の角度も、たいそう美しい。徳利から杯に細い流れが落ち、杯の中の酒面が、花見小路の水たまりのように、かすかに震える。


「祇園の人間は、笑いながら生きるのが仕事やろ」


 劉立澄は箸を置き、杯を受け取って、淡々と言った。


「俺は、あんたらより、ちょっとだけ正直なだけや」


「あら、きついこと言わはる」


 綾女は、わざと肩をすくめてみせる。「うちは、お客さんに楽しい思いしてもらう商売やのに。そんな顔で座られたら、半分は冷めてまうわ」


 口ではそう言いながら、その目は笑っている。彼女の視線は、さりげなく彼の指先と箸の運び方を見ていた。


「でもね」


 もう一切れ玉子を皿から取り、彼の前にそっと寄せる。


 「食べるときのあんた見てると、『ああ、この人は、ちゃんと今生きてる』って気がするんよ。……出汁巻き一つで言うのも変やけど」


「もう一皿頼んだら、値段上げるやろ」


 劉立澄は、杯を鼻先に近づけて、香りを確かめるように一息吸い込んだ。「この店、幽霊からも金取るんちゃうか」


「なに言うてんの」


 綾女は、くすくす笑いながら、軽く彼の肩を叩く。「うちみたいな小さい店が、幽霊からまでお代取ってたら、あんたみたいなんには、特別割引つけなあかんわ」


「『みたいなん』?」


「そらそうよ」


 綾女は、さりげなく彼を上から下まで眺めた。


 黒髪、黒い瞳。日に焼けた形跡のない、少し青白い肌。深い色のシャツにカーディガン、その上に灰色のコートという、どこにでもいそうな服装。ぱっと見れば、京都の大学に通う留学生にも見える。ただ――ときおりふっと冷たくなる視線だけが、普通の青年とは違っていた。


「で、今日はなんで呼び止められたと思ってる?」


 杯の酒を一口飲み、彼は静かに尋ねる。


「うちの料理の原価、見せるためとちゃうやろ」


 綾女は、少し真顔になった。


「もちろん違うわ」


 彼の隣に、自然な動きで膝をついて座る。さっきまで客の前で見せていた「女将の顔」から、一枚だけ仮面を外したような声色で言った。


「……小春のことや」


 劉立澄の指が、杯の縁でわずかに止まった。


「さっき見てたでしょ?」


 綾女は、半ば閉めた障子の向こうに目を向ける。すでに静けさを取り戻した座敷を見やりながら言う。


「客はみんな、『完璧や』『将来が楽しみや』って喜んでる。でもね、見れば見るほど、あの子の笑いが、あの子自身のもんとちゃう気がしてくるんよ」


「祇園の笑いで、『自分のもん』なんて、どれだけ残る?」


「アンタは外の人やから、そう言えるんよ」


 綾女は、ふっと目を細める。


「うちらにはわかる。――『人のために演じてる笑い』と、『自分ごとまとめて売ってしまった笑い』の違いぐらいは」


 彼女は指先で自分の膝を軽くたたき、一呼吸置いてから言葉を継いだ。


「ここ数日、小春、化粧が落としきれへんのよ」


「どういう意味で?」


 劉立澄の視線が、初めて真正面から彼女に向く。


「ほんまに粉が落ちひんわけやない」


 綾女はゆっくりと首を振る。


「顔はちゃんと拭けてる。でも、鏡の中は、いつまでも舞妓のままなんやて。化粧係さんは、『疲れてるんやろ』って言うたけど、あの子、疲れたら所作は乱れても、嘘だけはつかへん」


 彼女は声を落とす。


「さっき、化粧部屋、ちらっと覗いてきた。……確かに、鏡ん中の白さのほうが、ちょっとだけ濃かったわ」


 短い沈黙が、ふたりの間を通り抜けていく。味噌と出汁の匂いだけが、静かに上へと昇っていった。


「落ちへんのは化粧やなくて――」


 劉立澄は、鯖を一切れ箸で割り、噛みながら、こともなげに言った。


「『落としたくない顔』のほうやろな」


「ほんま、嫌な言い方するわね」


 綾女は、ため息混じりに笑った。


「でも、否定はされへん。最近の客、みんな『祇園の未来の花や』って、あの子を持ち上げるんよ。あの子は家も普通やし、後ろ盾もない。ここにおるには、人より余計に頑張らなあかん。頑張れへんかったら、置いて行かれるんやって、いつも怯えてる」


「だから、自分で自分にかけた『失敗したら終わり』の呪いが、顔の形になった」


 彼は、独り言のように呟く。


「長く続ければ続けるほど、その顔のほうが、自分より前に立ちたがる」


 綾女は、まっすぐ彼を見た。


 その目には、諦めと、期待と、頼みごとの色が混ざっている。


「アンタが京都に来てから、いろいろ見てきたんやろ」


 彼女は、少し照れたように笑った。


「うちは、アンタのこと、変な占い師とか、怪しい拝み屋みたいに言いたない。でも――今日は、初めてお願いするわ。小春のこと、見てやってくれる?」


「鏡から出て来られへんのが怖いんか」


 劉立澄は、杯を置きながら訊く。


「それとも――出てきた時には、もう小春やなくなってることのほうが怖いんか」


 綾女は、その問いを否定しなかった。


「そうなる前に、止めたいだけ」


 軽く笑い、彼の前の料理を、もう一歩分近づける。


「今夜は帰らんといて。これは西木屋からの夜食のご馳走ってことで。……おまけに『怪異鑑定サービス』付き。どう?」


 劉立澄は、半分ほど減った料理に目を落とし、次に綾女を見た。


 灯りが、彼女の瞳の中で揺れる。柔らかな睫毛の影が、目尻に長く伸びる。帯の合間から覗く鎖骨のラインまでもが、この交渉の一部であるかのようだった。


「怪異の話は、腹が落ち着いてからのほうがいい」


 彼は、最後の出汁巻きを箸でつまみながら、ぼそりと言った。


「豆腐も、もう少し欲しい」


「……素直やなあ、中華道士さん」


 綾女は声を立てて笑った。


「そういう話なら、なんぼでも引き留めちゃる」

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