京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食
柳澈涵
第一話・祇園花街・化粧を落とせない舞妓(一)
夜はすっかり更けていたが、祇園・花見小路には、まだうっすらと温度が残っていた。
石畳は、さっきまで降っていた細かな雨に磨かれたように光り、吊り下げられた提灯の赤い灯が、その上で揺れる水面みたいに伸びたり縮んだりしている。昼間、観光客が残していった無数の足跡は、夜風と水気に撫でられてぼやけ、いまやほとんど消えかけていた。ただ、いくつかの茶屋から、障子越しに三味線の余韻と笑い声だけが、薄く漏れ出している。
「西木屋」と墨書きされた古い紙灯籠が、一軒の店の軒先にぶら下がっていた。墨はところどころ褪せているが、その古びた具合がかえって祇園の老舗らしい味を出している。最後の客が、さっきふらつく足取りのまま戸口を出て行ったところで、笑い声と酒気だけが、湿った夜気の中に置き去りにされた。
座敷では、ちょうど一曲が終わったところだった。
まだ年若い舞妓・小春が畳の上にきちんと跪き、ゆっくりと頭を下げる。きめ細かな白粉の乗った顔は、灯の下できれいに浮かび上がり、朱を引いた唇が、教えられたとおりの完璧な弧を描いた。笑みは多すぎもせず、少なすぎもしない。へりくだりすぎず、冷たくもならない、その「ちょうど客が気持ちよくなる」地点でぴたりと止まっている。
「今日もご苦労さんや、小春ちゃん。ほんま、ようなってきたなあ」
酔いの回った客のひとりが、上機嫌でそう褒める。
「いえ、皆さんにええようにしていただいてるだけどす」
小春は柔らかな声で返し、所作通りに膝を引き、袖をさばく。その一つ一つの動きが、何度も何度も稽古場で繰り返された線そのままに、自然に流れていく。
客を送り出し、履き物を揃え、戸口で見送る。戻ってきて杯と皿を片づけるのは、年長の芸妓や女将の役目だ。小春は着物の裾を指でつまみ、廊下をすべるように歩いて、奥の化粧部屋へ向かった。きつく締められた帯が、胸のあたりを浅く圧迫している。耳の奥には、さっきまでの座敷の笑い声が、まだかすかに残っていた。
化粧部屋の灯りは、外よりひときわ明るい。
大きな鏡の前に置かれた低い卓には、瓶や壺がぎっしり並び、パフ、ブラシ、油、卸し用のローションが雑然と混ざっている。空気には、油脂と白粉と香の匂いが、複雑に折り重なっていた。壁際のハンガーには、干したばかりの着物がいくつか下がっていて、布越しにうっすら樟脳の匂いが漂う。
顔を担当している中年の化粧係が、すでに待っていた。彼女は小春の姿を見ると、にこっと笑って手招きした。
「今日もお疲れさん。さっきのお客さん、よう褒めてはったえ。もう立派な顔や言うて」
「滅相もおへん」
小春は素直に鏡前に座り、笑みをまだ完全には引っ込めきれないまま答えた。「皆さんに、よろしゅう見てもらおうと頑張ってるだけどす」
温めたタオルが、そっと顔に当てられる。化粧係は、白粉の上から丁寧に押さえ、額から頬へとやさしく拭っていく。雪のような白が、少しずつ褪せていき、黄味のある健康な素肌が現れる。太く引かれていた眉は、元の細い曲線に戻り、汗で貼りついた前髪が、額に何本か張り付いている。舞台の上の「絵」よりずっと、人間らしい顔。
「最近、あんたうちの看板みたいやわ」
化粧係は世間話を続けながら、手を動かす。「隣の店なんか、もう引き抜きの話、しとるらしいで」
「そんな」
小春は目を閉じたまま、苦笑いを洩らす。「ここにおれるだけで、うちには十分、もったいないことどす」
タオルが顔から離れた瞬間、小春はいつもの癖で、鏡をのぞき込んだ。
鏡の中で、豪華な着物をまとった少女が、まだ一枚の舞妓化粧をそっくり残したまま、座っていた。
現実の小春は、すでに半顔ほど白粉が落ち、うっすら赤くなった目尻と、タオルの跡がついた鼻先が露わになっているのに、鏡の中の「彼女」は、一点の崩れもない。白すぎるほど白い肌、丸く整えられた目尻、計算通りの紅――さっきまで座敷で使っていた「作られた上品な笑み」が、そのまま貼り付いていた。
化粧係は手を止め、瞬きをした。
「……小春ちゃん?」
「どうかしました?」
小春も、視線を追って鏡を見る。その瞬間、瞳孔がきゅっと縮んだ。
頬の冷たさは、はっきりと感じている。白粉の重みは、拭き取られた部分だけ軽くなっている。それなのに、鏡の中の顔には、粉の厚みも、筆の跡も、まるで崩れていない。あたかも、さっき席を立った瞬間の映像が、そのまま固められてしまったように。
「……うちの目ぇが悪なったんかいな」
化粧係は無理に笑ってみせたが、声にはわずかな震えが混じった。「あんた、ちょっと疲れてるんちゃう?」
小春の喉が、ごくりと動いた。
「……今日は、ちょっと張り切りすぎたかもしれまへん」
彼女は、作り笑いにも似た笑みを引き出して、いつもの調子で言った。「すんまへん、先生。あとは自分でやりますさかい。これ以上お手ぇ煩わせたら、申し訳ないどす」
「遠慮せんでええのに」
それでも化粧係は、心配げに眉をひそめた。「綾女さん、呼んできよか?」
「ほんまに大丈夫どす。明日も早いお席がおすさかい、先生こそ、早よ上がっておくれやす。うちは、ちょっとだけ頭冷やしたいだけどす」
迷いながらも、化粧係はその言葉を信じることにしたらしい。タオルを水盆に放り込み、何度か「無理したらあかんえ」と言い置いて、障子を閉めて出ていった。木枠が小さく鳴り、化粧部屋はひっそりとした静寂に包まれた。
小春の指先が、じわりと冷える。
彼女はもう一度タオルを取り、頬を丁寧に拭き始めた。何度も、何度も。白粉が完全に落ちて、水盆のなかが白く濁るまで、丹念に。素肌が全部露わになったところで、そっと顔を上げる。
鏡の中の少女は、まだ一分の隙もなく舞妓化粧をしたまま、端然と微笑んでいた。
現実の小春の呼吸が、乱れはじめる。
震える手を伸ばし、ゆっくりと鏡面に触れる。
指先に当たったのは、冷たいガラスの感触。鏡の中の少女も、同じように手を伸ばし、その動きは一分の狂いもなく重なった。その一瞬だけは、まだ「普通の鏡」のように見えた。
ただ――次の瞬間。
鏡の中の「彼女」の口元が、ほんのわずか、現実よりも大きく、柔らかく歪んだ。
それは、小春が「いまこの瞬間」には浮かべていない笑みだった。
誰かに好かれるための笑い方。
「失敗しないため」の笑い方。
灯りが、かすかに揺れた気がした。
小春は慌てて立ち上がり、スイッチに手を伸ばす。ぱちんという音とともに、灯りが落ち、部屋は一気に暗くなった。障子の隙間から漏れる、細い光だけが残る。
心臓が早鐘のように鳴っていた。暗闇の中で何度か深呼吸し、彼女はもう一度、壁のスイッチを押す。
光が戻る。水盆には、さっき落とした白粉が浮かんでいる。タオルも、同じ場所にある。ごく当たり前の光景。
小春は、ゆっくりと顔を上げた。
鏡の中の少女は、まだあの完璧な舞妓の顔で微笑んでいた。
さっきよりも、いっそう明るく。
まるで鏡の内側に、もう一つ灯りが灯ったかのように。
その笑みは、やわらかく、完璧で、こう言っているように見えた。
――大丈夫。あとはわたしがやるから、あなたは休んでいて。
鏡枠の一角に、細い暗い線が、すっと下へ伸びていた。何か鋭いものに引っかかれたような痕。光の角度によってしか見えない、灰色の冷たい光を、かすかに返している。
花見小路の突き当たりでは、まだ一つだけ灯りが残っていた。
「西木屋」と書かれた紙灯籠を、かすかな光が照らす。内側から、女将の笑い声と、杯が触れ合うくぐもった音が聞こえている。
その灯籠からそう遠くない路地の角に、ひとりの若い男が、歩を進めていた。
名は劉立澄。中国からやってきた道士である。
この夜、彼が早く寝ることはない。
そして、あの「落ちない化粧」の鏡に――すぐさま巻き込まれていくことになる。
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