第五章 薩摩武士の影
伊集院 忠棟(ただむね)は、荒れた浜に静かに立っていた。
潮の香りよりも、血と腐臭のほうが濃い。
かつて本土で三千を数えた薩摩藩の軍勢は、今では影のように痩せ細り、わずか百を割った。
敗因はただひとつ――銃が通じぬ“歩く死”との遭遇。
火縄銃は撃つ間を与えられず、装填の隙に列を食い破られ、鉄砲足軽は構えたまま噛み千切られた。
槍も通じず、甲冑も無意味。
武士たちは銃を捨て、最後には裸の刃だけを手にして逃げ惑うしかなかった。
生き残った者の顔つきは、武人のそれではない。
地獄から這い戻った死人のようだった。
「殿、前路(ぜんろ)は開けております」
**外園 直清(なおきよ)**が背後から声を掛ける。
その声も震えている。恐怖を隠し切れてはいない。
忠棟は小さく頷いた。
薩摩軍が受けた屈辱を挽回する道はひとつ。
この島を手に入れ、立て直すこと。
敗走に敗走を重ねた末に残った、最後の拠りどころだった。
*
村の外れで、一人の娘が行軍の前に立った。
名は知らない。ただ、細い身体を震わせ、それでも道を塞ぐように両手を広げていた。
「ここは……通さないで下さい」
直清は言葉を返さない。
刃を抜いた音が、風に溶けるように響いた。
振り下ろされた太刀が、娘の身体を折る。
白砂に散る鮮血。
娘の名は真里。
その光景を、茂みから平 舜賢が息を呑んで見ていた。
「……真里」
声は震え、喉の奥で潰れた。
隣で、越中 義典が拳を固く握りしめていた。
「舜賢。ここは我らの道だ……行くぞ」
声は静かだったが、背中から伝わる怒りの熱は隠しようがなかった。
*
松林へ入った直清を、義典が迎え撃つ。
義典は腰の**釵(さい)**を抜いた。
この日のために、一度も人前で抜いたことのない武具。
直清の太刀が唸り、義典は釵で受け、絡め、滑らせ、弾き返した。
火花が散り、二人の影が林の中で閃く。
「貴様……どこでそんな技を……!」
直清が吠える。
義典は応えない。
釵で直清の刃を絡め落とし、柄で顎を打ち抜いた。
しかし、倒れ込みながらも直清は本能で太刀を走らせ、
義典の脇腹に深い裂け目を刻んだ。
ほぼ同時に、二人は砂の上へ崩れ落ちる。
血と土が混ざり、甘い匂いが林に満ちた。
*
その時――
森が揺れた。
湿った風。
草を踏み砕く無数の足音。
うめき声。
“歩く死”が、闇の波となって押し寄せてきた。
後方で忠棟の怒号が轟く。
「退け! 全員退けい!!」
義典は裂けた脇腹を押さえながら身を起こした。
倒れた直清の身体を抱え、群れの前へ歩き出す。
「義典師範!」
舜賢の叫びが林に響く。
義典は振り返り、釵を軽く掲げた。
「舜賢……持っていけ。これは……お前が使え」
釵が弧を描いて飛び、舜賢の胸に落ちる。
冷たい金属が、手のひらにずしりと重い。
「師範! 一緒に戻りましょう!」
義典は微笑んだ。
その笑みには覚悟と、静かな別れが宿っていた。
そして直清の胸倉を掴み、群れへと踏み込んだ。
次の瞬間、黒い波が二人を飲み込む。
骨の砕ける音、肉を裂く音。
すべてが闇へと沈んでいった。
*
舜賢は釵を握り締めたまま、膝をつく。
倒れた真里のほうへ視線を向ける。
返ってくる声はない。
戻る命もない。
ただひとつ、義典の言葉だけが胸に残った。
――守れ。
舜賢はゆっくり立ち上がり、釵を腰に差した。
その眼差しから迷いは消えていた。
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