狼になった部下を、上司が飼っているだけの話
百合 一弘 ーゆり かずひろー
プロローグ
「ねえ、君」
その大きく聞こえるのに、妙に温かい声が自分に向けたものだと認識するのに数秒かかった。
逃げなければ……存在してはいけない狼がここにいる。
日本にいるはずのない狼が人間に姿を見せてしまった。
いくら走り出そうとしても、狼になりたての体に力は入らない。
月光が皮膚を刺し続ける。
動くことができないまま、少しずつ匂い、呼吸音、気配が強くなる。近づいてくる。
逃げないと待つのは死。
なのに、体は動かない。足音が近づいているのに、夜風が狼の体温を奪っていくだけ。
……匂いが、限界まで濃くなる。
今から殺される。切羽詰まった状況だというのに、柔らかい花のにおいが鼻腔を撫でる。
気にかけてくれる、憧れの存在。
……大好きな人の匂い。
最後に嗅ぐ匂いがこれなら……いっか。
狼は覚悟を決め、視界を閉ざす。
人間がしゃがんだ音がする。そうか、心臓を突いておわりか。
狼は自身の死を悟った____
……だが、刃は狼へと向けられることはない。
いくら待てど、刃物が風を切る音はしない。
違う__狼が刃物だと思っていたのは傘だった。
そして、傘の音の代わりに、狼の鋭くなった聴覚が聞き取ったのは言葉だった。
「君、こんなところいたら死んじゃうよ?」
皮膚を刺していた月光の感覚が消えていく。
必要以上に研ぎ澄まされた耳が、大好きな声を聞きとる。
ただの人間、そう思っていた。だが、狼の目の前にいたのは憧れの存在だった。ただ見ることしかできない存在。
そんな彼女が今、明らかに怪しい獣に手を差し伸べている。
人間ですらない、犬でもない。ここ、日本には存在するはずのない狼なのに。
彼女は__狼の憧れの存在は、優しい笑みを浮かべてすぐそこにいる。
あまりにも暖かい遠い存在の彼女に狼は一歩、おぼつかない足で近づいた。
狼になったばかりで、まともに動かないはずの足で。
その一歩、たったの小さな一歩。それが後に戻ることができない一本道への切符だということをまだ知らずに____
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