鳳鉄流 ― 無刀の王者 ―
氷室 常硯
無刀の王者
葉桐 港(はぎり みなと)は、今日も慎ましく生きていた。
高校二年。クラスでの位置づけは「悪くも良くもない普通」より、さらに一歩奥にひっこんだ存在。教師から当てられれば声は裏返り、体育では球技を避け、昼休みは図書室か空き教室の隅でパンを齧る。
それでも、本人は満足していた。
――平穏。
――争いなし。
――目立たず静かに一日が終わる。
この三つさえ守れれば、港にとって人生は合格だった。
けれど、彼には一つだけ「普通ではない」家系の事情があった。
古流剣術・鳳鉄流(ほうてつりゅう)。
戦国の世から続くと噂される流派で、かつては免許皆伝の門弟が藩主の護衛についたとか、対軍戦法を研究していたとか、物騒な伝説が山ほどある。
家の床の間には「鳳鉄流・刀法目録」なんて代物まで飾ってあった。
だが当代――葉桐 港はというと。
才能ゼロ。
熱意ゼロ。
戦いの精神、ゼロ以下。
幼少のころ、祖父に竹刀を持たされた瞬間に泣き出した記憶がある。
以来、家族は「まあ無理にやらんでもよかろう」と放任し、港は完全に一般人として生きていた。
だからこそ――平穏が、なにより大切だった。
しかしこの日の放課後、運命は港の慎ましい希望を粉々に砕く。
校舎裏へ向かう途中。
自動販売機で水を買おうとしただけなのに。
「おい、葉桐。ちょっと来いよ」
声をかけてきたのは、学校でちょっと名の知られた不良グループだった。三人組で、いつも誰かに因縁をつけては停学寸前のトラブルを起こしている。
港は即座に悟った。
――あ、今日、死ぬかも。
「え、えっと……ぼ、僕に何か……?」
「カバン見せろや。オマエ、なんか隠してんだろ?」
「隠してません! なにも! なにも……!」
声が震え、足も震えた。
逃げられない。純粋に怖い。
不良Aが港の肩を掴んだ瞬間――
港は、極度の緊張で足のつま先が絡まり、その場で思い切り前のめりに転倒した。
「うわっ!」
バランスを崩した港は、咄嗟に目の前の不良Aのズボンにしがみつくような形で倒れた。そして、不良Aを巻き込み、ドミノ倒しのように三人組の真ん中へと崩れ落ちる。
不良たちは倒れ込み、お互いの頭や脛がぶつかり、**「ゴッ!」「イテッ!」**と情けない声を上げた。
不良Aは、倒れた拍子に自販機の角に肘を強打し、呻いた。
不良Bは、不良Cが放り投げた自分のカバンが顔面に直撃した。
港本人は、ただ顔を地面に押し付け、小さく震えているだけ。
しかし、その場に響いたのは、彼らが自ら生み出した**「ゴッ!」「イテッ!」**という情けない音だけだった。
不良たちの目には、こう映った。
(((ま、待て……アイツ、転んだんじゃねぇ……自爆を誘発した?)))
「い、いてぇ……やべぇよ、こいつ……」
「……葉桐って、鳳鉄流の家系じゃなかったか……?」
「嘘だろ……刀も抜かずに、俺らの力を利用して、俺たちを潰しやがった……!」
港は死にたくて縮こまっているだけ。
だが不良たちは勝手に震え出した。
そして逃げた。
全力で。
「わあああああ! やべえやべえやべえ!!」
蜂の子を散らすとはこのことだった。
「え? え? ちょっ……なんで逃げるんですか!?」
港の困惑の声は誰にも届かず。
「……見たぞ、港!」
歴史的瞬間(?)を背後から見ていた男が一人。
親友の 泰山 北斗(たいざん ほくと) である。
剣道部所属。豪快さと妄想力が売り。
だが成績も実力もそこそこ、港とは気の合う仲だ。
「な、なんだよ北斗……今の、ただの事故で……」
「違う! 俺は見た! 『鳳鉄流・連環の崩し――自滅誘発(じめつゆうはつ)』!!」
「そんな型は存在しない!!ただの転倒だ!!」
「存在する! 今名付けた!」
「勝手に名付けるな!!」
北斗は興奮で顔を真っ赤にしながら、港の肩をガシッと掴んだ。
「葉桐港……お前が自らの体を犠牲にし、相手の心の隙と物理法則を利用して敵を殲滅した瞬間を初めて見た……!」
「自ら体は張ってない!勝手に転んだだけ!」
「その**”不可抗力”**こそ奥義だ!!」
「なんでそうなるの!?」
北斗の解釈はいつもスケールアウトしている。
その暴走気質が、ここで最悪の方向に働いた。
「よし……俺が広める! 今日の**“伝説”**を!」
「やめろおおおおお!!」
港の叫びを背に、北斗はすでに走り出していた。
翌日。
教室に入った瞬間、港は異様な視線を感じた。
クラスメイトたちがざわつく。
彼の背後から、ひそひそ話が次々と聞こえてくる。
「……あれが鳳鉄流の継承者……」
「昨日、不良三人を体当たりでボコボコにしたらしい」
「**『刀を抜かずに斬る』**とは、ああいうことか……」
港は理解した。
(北斗ーーーーーー!!)
目を泳がせながら席につくと、さらに厄介な人物が近づいてきた。
鵬程 万里(ほうてい ばんり)。
薄い眼鏡をかけた小柄な女子で、いつも日記のようなメモを取っているクラスメイト。
万里は無言で港の前に立つと、いきなり深々と頭を下げた。
「葉桐先輩。……どうか、弟子にしてください」
「えええええええええええ!?」
「昨日の**“崩しの奥義”**……震えました。あれは凡人には出せません」
「ただの恐怖による転倒なんだが!?」
港の否定など、万里には一切届かない。
むしろ、否定すればするほど目を輝かせる。
「謙虚なところも、また……! この**『鳳鉄流・観察手記』**を完成させます!」
「違う! ガチで違う!!」
そして午前の授業が終わるころには、もう学校中に噂が広まっていた。
――葉桐港、鳳鉄流の現代継承者。
――刀を抜かずに相手を屠る**“無刀の王”**。
――昨日、不良を沈黙させたのは**『連環の崩し・自滅誘発』**。
(存在しねぇよそんな技ーーー!!)
港の心の悲鳴とは裏腹に、誤解は爆発的に拡散していった。
昼休み、購買前。
パンを買うために並んでいた港を、突然、別のクラスの男子が呼び止めた。
「おい葉桐! 勝負だ!」
「いやだ!!」
「卑怯な逃げかたは通用しねぇ! 俺は剣道三段だぞ!」
「本気で嫌だって言ってるんだけど!?」
男子は腕まくりし、睨みつけてきた。
港は本能のまま逃げた。
購買の裏手に回り込み、必死に走る――が、その瞬間、男子が突然腹を押さえて蹲った。
「ぐああああ……! お、お腹が……!」
「え、えっ!? なに? 救急車……?」
パニックの港。
だが、周囲の生徒たちは驚愕の目で彼を見ていた。
「葉桐先輩……“気迫”だけで相手の内臓にダメージを……!」
「無刀の**“内破”**……!」
「ただ逃げただけなんだけど!!!」
こうして、さらに伝説は強化される。
港が戦いを避けようとするほど、周囲は**「闘う前に決着をつける流派の極意」**と解釈した。
本人は逃げれば逃げるほど、周囲の評価は恐ろしく跳ね上がる。
放課後、下駄箱へ向かう港。
平穏な帰宅ルート――のはずが。
「葉桐先輩! 今日のご予定はいかがですか!」
「葉桐先輩! 稽古を見学させてください!」
「葉桐先輩の“静の構え”を解説してほしいです!」
(な、なんでこんなに増えてるんだよおおお!?)
校内のいたるところで、港の姿を見つけた生徒が「師匠!」と駆け寄ってくる。
教室の前、廊下の端、体育館前……どこに行っても同じだった。
そして、信者(という名の誤解者)たちの中心にいるのは――
「港ォ! 今日もオーラが隠しきれてねぇぞ!」
親友の 泰山北斗。
「お前が隠すほど滲み出ちまうんだよ……その“生まれつきの気迫”が……!」
「俺はただの引っ込み思案だよ!?」
「その引きの姿勢こそ鳳鉄流の“無刀の間合い”!!」
「無刀の間合いって何!? 初耳だよ!?」
港がどんなに否定しても、北斗と信者たちは“深読み”をやめない。
「はぁ……もう帰りたい……」
うなだれる港に、そっと肩を叩く人物がいた。
温厚篤実(おんこう とくじつ)。
幼馴染の女子でクラスメイト。どこか達観した性格をしており、唯一、港の“本当の姿”を理解している人物だ。
「港、今日も大人気ね」
「助けて……」
「いやぁ、頑張って否定してる姿、面白いよ?」
「お前もグルかぁぁぁ!!」
篤実は笑うだけだった。
彼女は、港の苦悩を完全にエンタメとして楽しんでいる。
そんな港の苦悩に、もう一人近づいてきた影がある。
新聞部の 真実一路(しんじつ いちろ)。
妙に鋭い目つきの一年生で、常にカメラとボイスレコーダーを持ち歩いている。
「葉桐先輩……」
「な、なに……?」
「昨日の“不良沈黙事件”と、今日の“内破事件”について……取材させていただけますか?」
「内破って言うな!!」
一路は冷静にノートを開き、淡々と質問を続ける。
「事実として、不良三名があなたの前で逃走。さらに本日、剣道三段の生徒があなたと対峙し、急な腹痛で倒れている。」
「だから! 俺は何もして……!」
「……していない、ということにしておきたい……?」
「違う! 本当に違う!」
一瞬の沈黙。
一路は、じっと港の目を見つめた。
その眼差しは――なぜか、尊敬のようにも見える。
「……なるほど。先輩の流派は“技を隠す”のが極意なんですね」
「違うっつってんだろ!!」
「隠そうとすればするほど深まる……本物の匂い……これはスクープですよ……!」
「だから違うんだってばぁぁ!!」
港の悲鳴と同時に、一路はパシャッと写真を撮った。
「“真実の姿を隠す達人”――これは面白い記事になりそうです」
「最悪だああああ!!!」
翌日、新聞部は特別号を発行した。
――――――――――
《特集》
“無刀の王者・葉桐 港”その正体に迫る!
・不良沈黙事件の真相
・視線一つで崩れ落ちた強者
・語られざる鳳鉄流の秘技とは?
――――――――――
港は新聞を開きながら震えていた。
「なんでこんなかっこよく書くんだよぉぉぉぉ!」
「俺の写真、光背が差してるんだけど!? 加工じゃないの!?」
隣で北斗は満足げに頷く。
「よしよし、いい記事だ……これで港の伝説は不動のものになったな!」
「不動にするな! 崩したいんだよ俺は!」
「ほら、お前の“謙虚さ”がまた読者の心を掴む……!」
「やめてくれぇぇぇ!」
そして信者2号・万里は、記事のコピーを大量に印刷して校内に配布し始めた。
「葉桐先輩の『零距離の静』が語られている……!この一文だけでご飯三杯食べられます……!」
「食べるなあああぁぁ!!!!」
誤解が極限まで膨らんだころ。
学外にまで噂が漏れ始めた。
――無刀の王者。
――鳳鉄流の正統後継。
――視線だけで敵を屠る鬼才。
その噂を聞きつけた人物が、一人、港の前に現れる。
「お前が……葉桐 港か?」
鋭い眼光。筋骨隆々の体格。制服を着ているが、どこか“場違いな迫力”を放つ男。
英雄豪傑(えいゆう ごうけつ)。
異名は【賊鎖流(ぞくさりゅう)】の若き天才。自らの剣技に絶対の自信を持つ、まぎれもない“本物”。
豪傑は一歩、港に近づく。
「お前の噂――本当なのか?」
「ち、違います!! 本当に違います!!」
「……そうか」
豪傑の目が細められる。
その双眸はただの否定だとは受け取らない。
(((“実力を隠す者”の目……)))
豪傑は勝手に震えた。
「噂以上の“底”を隠しているな……葉桐 港……!」
「そんな底ねぇよおおお!?」
「いずれ勝負する。俺の賊鎖流を以て、お前の“無刀”を打ち破れるか……試してみたくなった」
「いや来るなぁぁぁ!!」
こうして、港はついに“本物の剣士”に目を付けられてしまう。
逃げても逃げても、誤解は増殖し続けた。
――もはや後戻りできないところまで。
英雄豪傑に「いずれ勝負する」と宣言されてから数日。
港は胃が痛い毎日を送っていた。
「やめろって言っても、英雄豪傑は絶対に来るぞ……あいつ、本気だ……」
「本物」との対峙は、今までの「誤解」とはわけが違う。
放課後の図書室。いつもの隅の席で、港は顔を覆った。
「俺は弱い。ただの高校生なんだ。戦ったら、本当にボコボコにされる……」
そんな港の隣で、温厚篤実が文庫本を読んでいた。彼女はチラリと港を見やる。
「勝負するの、そんなに嫌?」
「嫌に決まってるだろ!命がかかってるんだぞ!」
「ふーん。でもさ、港の**『運』**って、本当にすごいよね」
篤実は本を閉じ、静かに言った。
「不良との一件、腹痛の一件。全部、港が意図しない**『不可抗力』で片付いた。鳳鉄流の『刀を抜かずに斬る』って、もしかしたら『戦う必要すらなくしてしまう』**ってことなんじゃない?」
「な、なんだよそれ……」
「つまり、英雄豪傑との勝負も、戦う前に何かしらの天変地異で流れるんじゃないかな」
篤実の言葉は楽観的すぎた。だが、港の心にわずかな希望を灯す。
「そ、そんな奇跡がまた起きるか……?」
「起こるよ。だって、あなたは葉桐 港なんだから。みんなが無敗の王者と信じて疑わないんだから。その**『信奉の力』**が、現実を歪めているのかもね」
篤実の言葉を聞いた瞬間、図書室の扉が勢いよく開いた。
「港ァァァ!! 緊急事態だ!」
泰山北斗が血相を変えて飛び込んできた。
「どうした、北斗」
「どうしたじゃない! 英雄豪傑が、明日、勝負を申し込んできた! 校内演武という名目で、全校生徒の前でだ!」
港の顔から血の気が引く。
「ま、まさか……逃げ場がない!?」
北斗は興奮で肩を震わせた。
「逃げるな! これはお前の**『無刀の境地』を全校生徒に披露する最高の機会だ! 鵬程万里が勝手にチケットを配って、既に満員御礼**だぞ!」
「万里ーーーーーーー!!」
港は絶望の淵に立たされた。篤実は横でニヤニヤと笑っている。
「ほらね、天変地異は起きなかった。代わりに人為的な災害が起きたよ」
港は机に額を押し付けたまま叫んだ。
「俺の人生、なんでこんなことにーーーー!!」
北斗は、そんな港の肩をがしっと掴む。
「覚悟決めろ港!明日、全校生徒が! 町の連中が!お前の“無刀の境地”を目撃するんだ!!」
「だから俺は弱いって言ってるだろーーーーー!!」
篤実が呟く。
「大丈夫。……たぶん」
その“たぶん”が、港には一番怖かった。
夜。
港は布団の中で丸まり、眠れないまま天井を見つめていた。
携帯には「頑張れ港先輩!」という迷惑な応援メッセージが数十件。
その中に混じって、鵬程万里からの一言。
【チケット完売!立ち見も出そうです!】
「……俺明日死ぬな」
布団に顔を埋めた瞬間、通知がもう一つ飛ぶ。
送り主:真実 一路
【明日の決戦、特集記事にします】
【明日こそ、本当のあなたの姿を暴きます】
「暴かないでいいよ! 明日が終わったら俺もう高校生活ないのに!!」
港の叫びが、夜の部屋にむなしく響いた。
そのころ、英雄豪傑もまた、静かな道場で一人稽古をしていた。
「葉桐 港……ついに決着の時が来た。あの静謐な眼差し……あれは真の剣士の目だ。手加減はしない。俺も全力で挑む」
完全なる誤解である。
世界はますます、港の望まない方向へ転がっていった。
演武会の特設ステージ。
体育館は満員の観客で埋まり、真実一路率いる新聞部がカメラを構えていた。
港は舞台袖で、過呼吸気味に酸素を吸い込んでいた。
「む、無理だ……俺は無理なんだ……」
泰山北斗が背中を叩きまくる。
「落ち着け港!お前は鳳鉄流の十四代目!俺が強さを保証する!」
「お前の保証は信用ならねえ!!」
温厚篤実はニヤニヤしている。
「がんばれ、港。……最高のエンタメになりそうだし」
「お前も楽しむなーーー!!」
そしてついにアナウンスが響く。
『これより――【賊鎖流】英雄豪傑 VS 【鳳鉄流】葉桐港!校内演武を開始します!』
港は震える足で、ゆっくりと舞台へと歩き出した。
演武の舞台中央。
竹刀を構えた英雄豪傑と、両手を伸ばして必死に拒む葉桐 港が対峙する。
豪傑が構える。
港は――両手を伸ばし、必死で拒む。
「む、無理無理無理!!絶対無理!! ケンカとかできないから!!」
涙目で後ずさる港。
――その姿が、豪傑には**「見切りの極意」**と映った。
「お、おま……!!
俺の初動を完全に読んで……!! この距離……!」
「読んでないぃ!! ただ逃げてるだけ!!」
観客席が息を呑む。
泰山北斗が叫ぶ。
「動かない……! 一切無駄のない後退だ……!」
鵬程万里がメモを取る。
「これが“無刀”の至高……“後退の間合い”……!」
(後退してるのは怖いからだよぉぉ!!)
豪傑の目がさらに鋭くなる。その額に汗が滲む。
「葉桐 港……いくぞ!!」
そして豪傑が一歩、静かに踏み込んだ。
豪傑の踏み込みに驚いた港は、反射的に下がる。
その足が――
ステージの照明コードに引っかかった。
「ひぎゃ!!?」
港は盛大に前のめりに転倒。
両手を前に突き出し、身体を丸める**“超防御姿勢”**を取る。
その瞬間――豪傑の足元に転がっていたペットボトルが動いた。
港の手が滑り止めのようにステージに触れた拍子に、勢いよく転がったのだ。
ペットボトルは豪傑の足首の内側に当たり、彼の踏み込みの角度を僅かに狂わせる。
「なっ……!」
豪傑はバランスを崩し、転倒こそしなかったものの、体勢を立て直すのに痛恨の数秒を要した。
――観客の盛大な悲鳴。
真実一路が激写する。
「い、今の見たか!?」
「葉桐先輩……転びながら相手の踏み込みをピンポイントで封じた……!」
「体勢を崩すための**“転身の構え”**……!」
(違う!! ただこけただけ!!)
豪傑は目を見開いた。その呼吸が乱れる。
「……っ!!転倒の動きで……俺の踏み込みを読んで潰した……!?しかも無意識……これが鳳鉄流の**『連環の崩し』**……!!」
「無意識じゃない!! 事故だよ事故!!」
誰も港の声を聞かない。
万里は歓喜の声を上げる。
「さすが葉桐先輩!! 転んでなお勝つ!!」
「勝ってない!! 俺は勝負してない!!」
北斗は感極まって叫ぶ。
「港ォォォ!!! 鳳鉄流の**“斬心”**だぁぁぁ!!!」
「違うぅぅぅぅ!!!」
英雄豪傑は体勢を立て直したが、その顔は青ざめていた。竹刀を構える腕が、微かに震えている。
(((ありえない……! 転んだのが偶然だとすれば、それは運命の力。それを剣士の技と見切ってしまうとは、俺の剣が**『無』**を捉えられていない証拠……!)))
豪傑は、港の**「転倒」を、鳳鉄流の「剣の理合いを遥かに超えた境地」**だと解釈した。彼の持つ【賊鎖流】の教えも、剣士の精神論も、目の前の現実を前にして、音を立てて崩れ去った。
「葉桐 港……!」
豪傑は、全身の力を抜いた。
そして、竹刀を水平に戻し、深々と、腰から頭を垂れた。その姿は、一人の剣士が、自らの存在を賭けた相手に、心からの敬意を表すものだった。
「完敗です。私の『一閃の剣(いっせんのつるぎ)』は、あなたの『無心(むしん)の境地』に、ついに触れることさえできませんでした」
豪傑は竹刀をゆっくりと地面に置いた。
「私の賊鎖流をもってしても、あなたの**『不敗の運命』**を破ることは不可能と悟りました。あなたは……真の師です」
体育館は一瞬の静寂の後、爆発的な歓声に包まれた!
「うおおおおお! やったぞ葉桐先輩!」
「これぞ**『無刀の奥義』**! 神様だ!」
「転倒で勝つなんて、天才にもほどがある!」
真実一路はシャッターを切りまくりながら、涙ぐむ。
「私のカメラはついに、神の技の瞬間を捉えられなかった! 私の追及が間違っていた! 葉桐先輩、私はあなたを疑ったことを心から謝罪します!」
泰山北斗が、ステージに飛び込んできた。
「港ァァァ!! 見たか! これが無刀の王者の力だ!」
そして、港は、極度の安堵と貧血でふらついている状態のまま、北斗と信奉者たちによって高々と胴上げされた。
「や、やめろよ! 胴上げなんて! 俺は何もしてないのに……!」
「謙遜は美徳だぞ、港!」
「違うんだってぇぇぇ!」
温厚篤実は、そんな港の様子を、笑いをこらえながらスマホで動画撮影する。
「うん、知ってる。最高の映像になりそう」
豪傑は去るが、観客の喝采は続いていた。
「すげぇぇぇ!!」
「葉桐先輩……!!」
「最強……!!」
(なんでぇぇぇぇ!!!)
真実一路は涙目でカメラを連写する。
「くっ……! 弱い瞬間を撮るはずが、僕のカメラには神々しいオーラしか写らない……!」
「真実を追っていたはずなのに……撮っているのは、真実を隠す葉桐先輩の伝説ばかりだ!」
(なんで全部逆になるんだよ……)
北斗が飛びついてくる。
「港!! 最高だったぞ!! 俺、泣いた!!」
「俺は泣きたいんだよ!!」
万里が震え声で。
「葉桐先輩……今日、惚れ直しました……!」
「惚れなくていい!!」
篤実だけが穏やかに微笑む。
「港、本当に運がいいね?」
「これ運がいいって言う……?」
「少なくとも、死んでない」
「……まぁ、それは……!」
ステージを降りる途中、港は天を仰ぐ。
「……俺の人生、どうしてこうなった……」
横で北斗が胸を張る。
「港、“無敗の王者”確定だ!!」
「やだぁぁぁ!!」
「その謙虚さ! やはり真の強者!」
「違うってばぁぁ!!」
鳴り止まない拍手。歓声。祝福。期待。
全部が港に降り注ぐ。
(お願いだから……誤解……解けて……)
――しかし、誤解が解ける気配は、どこにもなかった。
その日の夜。
港の家。
居間では、父が新聞部の速報記事を読んでいた。
真実一路が書いた見出しが、赤く踊っている。
『文化祭を揺るがす奇跡!
葉桐港先輩、無刀で賊鎖流の英雄豪傑に神々しく圧勝!』
父は静かに呟く。
「……港。お前、本当にやったのか」
「やってないよ!?!」
港は全力で否定する。
しかし父は真剣な眼差しで頷く。
「鳳鉄流の奥義……“刀を抜かずに斬る”。あれを現代で**『転倒の型』**として表現するとは……」
「転んだだけだよ!?!?」
母が紅茶を入れながら微笑む。
「みなと、強くなったわねぇ。明日からプロテイン、買ってくるわ」
「俺は転んで勝っただけなの!!」
家族の誤解まで加速している。
(どこまで行くんだこの誤解……)
翌朝
登校した港を迎えたのは――
「葉桐先輩! 弟子にしてください!」
「今日の昼、“無刀講座”お願いします!」
「英雄豪傑さんが“葉桐先輩は師”って言ってました!」
「サインください!」
「写真も!」
「握手も!」
「助けてぇぇぇぇ!!」
泰山北斗が腕を組んで満足気に頷く。
「港、お前はもう……無刀の王者だ」
「違うよ!! 俺は無能の凡者!!」
「奥ゆかしい……!
その謙遜こそが真の強者!!」
「やめてぇぇぇ!!」
鵬程万里はノートを広げて言う。
「葉桐先輩の**『転倒の型・自滅誘発』**をノートにまとめておきました!」
「だからそんな技ないんだってぇ!!」
真実一路はカメラを構えながら。
「次こそ……弱い瞬間を撮る……!」
(撮れるなら撮ってぇぇ!!)
温厚篤実は笑って言った。
「みなと……今日も頑張って**『無刀の間合い』で**逃げてね?」
「うぅ……誰か助けて……」
誤解は解けない。
港の必死の否定も虚しく、
彼は**“無敗の無刀王者”**として神格化され続ける。
だが――
それでも。
昨日、ステージに立った港の姿は、
確かに少しだけ**「逃げ出さずに最後までそこにいた」という“勇気あるもの”**だった。
誰も知らず、誰も認めない、彼自身にしか分からない形で。
(……はぁ……俺の受難、終わらないんだろうな……)
港は天を仰ぎ、大きく溜息をついた。
「……本当に、どうしてこうなったんだろ……」
北斗の声が後ろから飛んでくる。
「港ォォ!! 昼休みに**『転身の構え』**の演武頼んだぞ!!」
「頼んでないよ!! 勝手に決めないでぇぇ!!」
生徒達の期待、勘違い、誤解、崇拝。
そのすべての中心で――
葉桐港の受難は、今日も、明日も、明後日も、続く。
(完)
鳳鉄流 ― 無刀の王者 ― 氷室 常硯 @shinoyuri
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