第二話 泉田みく その3

「……すごい……」

 感動にため息をつきながらビデオをまわしていると、棚田は背後から声をかけられた。振り返ると、おじっさ、と呼ばれていた、あの老人があからさまに値踏みする視線をぶつけてきている。

「おい」

「は、はい?」

「お前はん、名前なめえはなんちゅうのや?」

「あ、ああ――」

 声音まで不躾に名前を尋ねられた棚田は、慌ててコートのポケットをまさぐった。

「申し遅れました。ええとあの、僕は土井教授の代わりにこちらの取材に来させていただくことになりました、棚田と申しまして……」

 棚田が名刺入れを出そうとあたふたしていると、老人は「そんなもん要らへんわ」とじろりと目を光らせて睨み据え、鋭く言い放った。

「えか、お坊主ぼず、よう聞いとけ。名乗りちゅうもんはなぁ、人と人が顔突きあわして目ぇみてするもんや。紙切れ交換なんぞやあらへんわい」

「申し訳ありません、大変失礼しました」

 棚田は素直に頭を下げた。土地の長老の言い分には素直に耳を貸すべきだ、というのは、これまでの経験から学んでいたことだった。

「僕は土井教授の研究室に所属しておりまして、教授の専門である民俗学を調べるお手伝いをさせていただいております、棚田弘明と申します。この度、土井教授が腰を悪くされて入院治療と安静が必要となりましたので、教授が現場に復帰されるまでのあいだ、代わりにこちらの取材に寄らせていただくことになりました。以後、よろしくお願いします」

「ふん。やろ、思うたら、やれるんやないかい」

 老人は口の端を持ち上げながら、棚田に手を差し出した。

 みくが「おじっさ」と呼んだ老人は、郷田蒔蔵まきぞうと名乗った。頭の先からつま先まで、じっくり嘗めるように睨め付けられた棚田は、何も悪い事などしていないのに、悪童の悪戯の濡れ衣を着せられて叱られる直前の子供のような心持ちになり、落ち着かなくなる。

 鼻を鳴らして蒔蔵が立ち去ると、棚田は心底ほっとした。同時に、みくに寄り、こっそり耳打ちする。

「みくさん、『おじっさ』というのはどういう意味なんですか?」

「う~ん、お爺さん、って意味かな?」

 ――おお、そのものズバリ。

 仰け反っていると、含み笑いをしつつ、みくは続けた。

「ただね、村の中で『おじっさ』とか『じっさ』って呼ばれる人は、ごく限られてるの」

「それは、どうしてですか?」

「おじっさやじっさ、って呼ばれる人はね、村の生き字引、みたいな感じの人っていうか? 昔ながらの知恵を継承してってる、お偉~い人しか呼ばれないの」

「ということは、こちらの郷田さんにかかれば何でも全部、分かってしまう、という事なんですね? すごい!」

「そう、ご立派なもんやあらへんが、ま、そういうことになるわな」

「わっ!?」

 ふうっ、と耳元に呼吸音を感じて、またもや棚田は仰け反った。いつの間にか戻ってきていた蒔蔵は、内緒話しにしれっと参加して、しかも素知らぬ顔である。

 ――どうやら、蒔蔵さんは地獄耳らしい。

 しかし、否定しつつも持ち上げられていい気分になったのを隠そうとしていない。こういう、年寄りの素直な自慢げな素振りは空気を和ませる。

 こんな時には、思わぬ話を聞けたりするものだ、と棚田はポケットに忍ばせているボイスレコーダーのスイッチが入っているかどうかを確かめようとしたとき、竹を組んでいた人垣のなかから、少しハゲ上がった頭で小太りの六十代くらいの男性が、こちらに小走りにやってきた。

「蒔蔵さおじっさ。たけはんじっさな、足が悪うて来られへんとよ」

「ほうか、ま、仕方あらへんな」

 これまで機嫌良く笑っていたのに、武はんじっさが来ない、と告げられただけで、蒔蔵は、たちまちのうちに不機嫌の塊となってしまった。岩石のようにムッツリしてしまった蒔蔵に代わり、竹を組み終えた村人たちがわらわらと棚田のもとに集まりだした。

「すまんへんな、学者先生さんよ、蒔蔵さおじっさは気ぃ短うてかなわんでな」

「蒔蔵さおじっさの他にゃ、ほれあそこにおる、辰さおじっさと、まぁ一人ばか、おじっさがおってやな」

「紹介したろ思うとったんやが、あかへんみたいなんや」

「武はんじっさな、秋口に骨折してもてから、外に出てこんくなってまってなぁ」

 すんまへんな、すんまへんな、と寄ってたかってペコペコされる。いいえそんな、と棚田の方が恐縮していると、ひょこ、とみくが首を伸ばしてきた。

寛治かんじおじさん、そんなら清水屋敷の瀬古代表、誰かと交代したの?」

かずさと交代しよったんやと。まあ、清水屋敷はどうせ来年、和さが瀬古代表やしな」

「そう、和成かずなりおじさんと」

「和さ、ほなら、しょんないで、二年続きでやったるわ、言うてなあ、どーんと引き受けてくれたんや」

「ほんまやで、和さ様々やで」

「えれぇ助かったわ」

「さすが、席田様やなあ」

 村人たちは、口々に、助かった、さすがだ、と褒め称えている。みくも、ほっとした様子を見せていた。

 なのに蒔蔵だけは、腹に据えかえているように、むっつりとした態度になっていく。いや、と言うよりは、むしろはっきりと不快感と嫌悪感、そして忌ま忌ましさと苛立ちを表に出している。

 ――何故?

 訳が判らない棚田がおどおどしていると、みくに寛治おじさん、と呼ばれた男が「お? こちらのお人が、例の、学者先生なんかな?」と顔を突き出してきた。

「そうよ、ほら学者先生、こっち来て。こちらね、上田寛治おじさん。北裏瀬古の代表なの」

 あっちこっちで頭を下げ、「よろしくお願いいたします」と言いまくっていた棚田の前に立った上田は、「ふ~ん」と唸ると、不躾な視線を投げつけてきた。どうも、このむらの住人は感情の赴くままに表情を出すきらいがあるようだった。上田はこの年代の人にしては背が高い方で、肥満体と言うよりは恰幅が良いという表現が似合う。

「賢そうな顔しとりよるな」

「そりゃそうよ。おじさんなんかが普段、拝めへんような頭良い大学から、こんな辺鄙な所に態々やって来てるんだもん。偉いお人に決まってるやん?」

 みくの煽るような口調に、棚田は大いに慌てた。

「確かに僕は、教授の代打としてこちらに伺っておりますが、まだ、大学院生の身分ですから。先生とか、そんな、立派なものではないんですよ」

「え~、そんなこと、あらへんよ」

 みくが大仰に身振りを交えて叫ぶようにすると、上田寛治はやっと頬の肉を緩めた。

「手伝いやろうとなんやろうと、大学の教授さん直々に頼まれて出張って来とるんやったら、立派なもんや。謙遜なんぞせんでええ」

「ほやほや、だいたい、大学のその上の学校行ってまで勉強しとるたぁ、そら、たいしたもんや」

「けけっ、わしらなんぞ、高校も行っとらへんしな」

 しかし村の老人たちは、やたらと持ち上げてくれる。普段なら悪い気はしないだろが、ここまで態度が冷ややかな人に睨まれていると、嫌な汗が背筋を流れて仕方ない。何とか話題をかえようとした棚田は、「そうだ」と手を叩いた。

「先ほどから、瀬古、と仰られてますが、どういう意味なのですか?」

「ああ、それはやな」

 突然、寛治はハッとした表情になり、むっつりと黙りこくりだした蒔蔵にさり気なく近寄ると、「おい、おじっさ」と肘で突いた。

「おじっさ、無視こいとらんと教えたれな」

「……おまはんが教えたったらええがな」

「何言うんや、わしではあかん。おじっさしか教えたれんがな」

 寛治に持ち上げられた蒔蔵は途端に相好を崩した。そして態とらしい咳払いをすると、「ほうまで言うなら、仕方あらへんわな」と話しはじめた。

「瀬古、言うんはなあ、今でいうと『班』みたいな意味あいやろかな」

「自治体の地区分けみたいなものと捉えてよろしいでしょうか?」

「ま、そんなところやな。昔、この辺はな、お殿様の狩猟場やったんやな」

 言いながら、寛治は神社のあたりに広がっている田んぼを眺めるように、手をかざしてみせた。

「神社の側なのに、ですか?」

「そんなわけあるかい。もっと、堤防超えた南側の辺りやわい」

「えっ? 堤防の向こうも河間町なんですか?」

「入り組んどるがなあ、幾らかの田んぼは河間町のもんやな」

「なるほど――で、お殿様たちが来られた、ということは、それは、検地を口実に狩りにきた、ということでしょうか?」

「そういうこっちゃろな。お侍さんらにな、獲物の追いこみの手伝いしとった者同士らしいんや」

「なるほど、確かに狩りのときの追いこみ手を、瀬古、と言いますよね」

 由来が、掴めてきた。

「河間町なんは大軒だけやのうて、下田もあるわな」

「大軒? 下田?」

 棚田がきょとんとしていると、「飲み込みの悪いやっちゃな」と説明もしていないのに蒔蔵は小馬鹿にした。

「大軒ゆうのが南側の田んぼの事やがな。ほれ、軒下言うやろが。河間町の範囲内、ちゅう意味合いなんやろな。東の堤防から向こうに流れとる川までの間を下田、言うのや。まあ、神様のおらっしゃるこの神社を上とするんやったら、東は下にあたるわな」

「なるほど、素晴らしいです」

 興奮しきりに頷く棚田に、蒔蔵は良い気分なっていくようである。ふふん、と鼻を鳴らして得意満面になっている。

 組み上がっていく竹の様子にもう一度、棚田が注意を向ける。すると、会話が途切れるのを待っていたかのように別の男性が寄って来た。

「蒔蔵さおじっさよ。そろそろ、やってまいてえんやが、こっちゃ来てもろて、ええやろか?」

「そやな、ほな、清さ、行こか」

 寛治とは対照的に、この男は、ぎすぎすとした痩せがちの印象をまずうける。

「あの人が東海とうかい瀬古の牧田清治朗せいじろうさん、せいさ、って呼ばれてるよ」

 と、みくが教えてくれた。

 ――ボイスレコーダー持ってきておいて良かった。

 ボイスレコーダーがなければ、メモをとる暇もない今、方言が強い発音ばかりで、とても名前を覚えられない。

「学者先生さんよ、良かったら、ついてこいや」

 声をかけてくれた蒔蔵のすぐ後ろに、棚田は遠慮なくついていったのだった。

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