第一話 河間町 その3
みくが軽自動車に乗っている理由を、棚田はすぐに思い知ることになった。
それも、全身全霊で。
――こりゃ、とてもじゃないけど、小回りの利く軽自動車しか乗れそうもない。
県道もさびれている、と思っていたが、まだ可愛げがある方だった、と棚田は思い直した。
バスの停留所がある道は県道だった為、中央線つきの道路の体裁をとっていたが、一歩そこから外れ町道に入ると、すれ違いどころか、サイドミラーも折りたたまないと進めないような、極狭の道ばかりなのである。しかもウネウネとうねっている上に、道の隣には、金網すら張っていない、むき出しの側溝や用水路が並走しているだのの、連続なのである。
村の中の道は、更に想像を絶していた。補修跡で、でこぼこしたアスファルトの路面が心身にもたらす衝撃は筆舌に尽くしがたい。
みくから、「ほらそこ、うちらの師匠寺にあたるお寺さんの、蓮正寺ね」と説明されても、「はあ、そうですか」と答えるのが精一杯だった。
たった数分であるが、棚田は、いつ側溝に落ちるかという恐怖とスリルを、骨の髄まで味わい尽くしたのだった。
苦行のような道程の終点で棚田が案内された場所は、田と町内の住宅地を隔てるようにしてたつJRの高架線路の前だった。そこに、かなり大きめの一階平屋式のプレハブ住宅が建てられていたのだ。
『河間町コミュニティーセンター』
今時、墨字の、しかも達筆で看板がたてかけられてある。駐車スペースは五台分もあり、ご丁寧に外用の水道蛇口にはホースが指してある。コミュニティから東は田しかなく、道は更に農道めいている。頭の中で地図を組み立ててみた棚田は、突き当たりは県道になるだろう、と見当を付けた。また、コミュニティから南に向かって走っている道もある。おそらく、そこをずっと進み、突き当たって丁字路になっているのがみくが言った『南まわりの道』にあたる筈だ。
頭の中の地図上では、南まわりの道を東に向かって折れればバスがUターンをするロータリー代わりの広場めいた場所がにつながっている。南まわりの道の周辺は田が中心となっている筈で、民家はない。
「学者先生、次からも、こっちに調査に来た時の休憩所というか宿泊施設は、ここを使っても良いからね。事前に言っておいてくれたら、準備万端、整えておいてあげるから」
「あ、はい、ありがとうございます」
棚田は返事をしつつ、背中を丸めて突風が運ぶ寒さから身を守る。
「あの、泉田さん」
「なに?」
咥えタバコをしながら、後部座席から荷物を引きずり出していたみくは、にこにこしている。
「いえ、あの、泉田さん、僕のこと、学者先生、って呼ぶのは、ちょっと、勘弁してもらえますか?」
「え、なんで?」
素っ頓狂な声をあげて、みくは煙草を口から離した。
「僕、教授の研究室に属してはいますけど、助手ですらない、ただの学生なんです。先生、なんてご大層な立場じゃないんです」
みくは一瞬、きょとんとしたが、次の瞬間、朗らかに笑った。
「そんなの、高校以上の学校にわざわざ高いお金出して通おうなんて変態、はちょっと言い過ぎかな、えと、奇特な人? なんて、私からしたら、学者先生以外の何ものでもないよ」
言いながら、みくは笑いすぎてこぼれてきた涙を指先で払っている。
――よく笑う人だなあ。
変なところで、棚田は感心というか感動を覚えた。出会ってまだ三十分も経っていないというのに、みくの魅力に、すっかり参ってしまっている。
――こんなに朗らかな人がどうして浮気なんてされて、今、別居中なんだろう?
ちょっと、にわかには信じられない。笑われながら、棚田はこっそりと出過ぎた疑念を胸に抱いた。
「でも、先生だなんて、僕はまだ学生ですし」
「私からしたら、お大学なんてお真面目な所に毎日お勉強にお励んでるなんてしている人、みんな、お偉い先生様々だよ」
「いえ、あの、でも」
「これからも、学者先生でいかせてもらうからね? ね?」
「は、あ」
何が、「ね?」なのか。釣り込まれるとはこう言う事なんだろうな、と自覚しつつも、棚田は抗えず頷いてしまう。
「それからね、私の事、いい加減で、泉田さんなんて堅苦しく呼ばないでほしいんだけど」
「え? あの、じゃあ、なんてお呼びすれば?」
「みく、だって言ってるじゃん」
「えっ……」
「『み・く』だってば」
「はあ、その、あの、えっと、じゃあ」
咥え煙草で腕を組みながら、みくはじっとりと睨みつけてきた。
「前置き長いよ、学者先生」
「……『み・く・さ・ん』……」
しどろもどろになりながら、やっと名を呼んだ棚田を、みくは暫くねめつけていたが、突然、吹き出した。
「――ん、ふっ、ぷ、ふふっ」
棚田の内心を知ってか知らずか、みくは煙草の火をプレハブ小屋の前においてある一斗缶を再利用した灰皿に落として火を消すと、歯を見せて笑い続け、そして肘をつかって、脇腹を軽く小突いてきた。
「それで勘弁してあげる」
「は、あ、あり、がとう、ござい、ます?」
背中を押しながら笑う、みくの勢いのまま、棚田は返答もそこそこに、プレハブ住宅の引き戸を開けたのだった。
「それじゃ、入ろ! 寒いでしょ?」
プレハブ住宅は東西に長い間取りで、玄関は北側の中央に位置していた。中に入ると、玄関の上がりかまちから一畳分の廊下がのびていて、東側に洋室が、西側に和室があった。和室は南北八畳二間つづきになっていて、南側の部屋には大型テレビとブルーレイデッキファックス付きの電話が備えられている。
「中は広いんですね」
「大人数の寄り合いとか子供会の催し物とか、出来るようにしてる間取りだから。一人だけのお泊まりには、むしろちょっと、広すぎるね」
室内が有り難くなるほど、しんみりと暖かいのは、みくがあらかじめエアコンをつけておいてくれていたからだろう。
和室の北側には八畳の広さのフローリングのキッチンまである。一般家庭にあるような二口のガスコンロと、電気ポットに二ドアタイプの冷蔵庫に電子レンジにトースターまで備えてある。東側の洋室も南北に八畳二間分の広さがあり、こちらには仕切りがない。
和室と洋室、そして廊下の三面から入れるように納戸が設えてあり、どうやらそこに座布団や椅子や机や、防災道具が備えられているようだった。
洋室の北側には、手すり付きの洋式トイレが二つと、狭いが浴槽つきのシャワールームまで設置してある。外から一見しただけでは部屋のみの建売プレハブ住宅のようだったのに、結構、充実した設備に棚田は驚いた。
――なるほど、これだけの広さがあればある程度の人数の集会も開けそうかな。
「電気はどこも使えるようにしてあるから。あ、お水の元栓も開けてあるから、お手洗いも、もう使えるよ。シャワー室とか給湯室のお湯、ガス式なんだけど、外のガスの元栓を開けないと出ないから、今のうちに開けておいてあげる。学者先生が帰るときに、元栓も水道も私がとめておくから、気にしないで」
「あ、はい」
予想通り、みくは荷物を和室側において障子戸をあけはなった後、納戸に入って布団一組をかついできた。
「そんなのは、ぼく、自分でやりますから」
「良いから良いから。学者先生は、この村、今日が初めてじゃない? だから、特別、ね?」
ウィンクしながら、みくは荷物の横に布団をドスン、と置いた。そして、屈んだ姿勢を利用して、側にあった複数のコントローラーを手に取り、棚田に差し出してきた。
「温度設定は好きにしてね。テレビはね、ここ、地上波だけじゃなくてBSも見られるから。夜中のアニメでもドラマでもスポーツでも、お好きなのをチェックして」
「ありがとうございます、でもぼく、そんなにテレビ見てるヒマはないと思いますので……多分、観ても、天気予報くらいです」
「だけど、この先も何回かこっち来るんでしょ?」
「そのつもりですが」
「だったら、覚えといて損はないよ」
言いながらコントローラーをテレビの側に置くと、みくはキッチンのほうに向かった。
「あ、それとね、一応、村の中に雑貨屋さんはあるにはあるんだけど、品揃えは駄菓子屋さんに毛が生えた程度だから、期待しない方が無難だよ」
「えっ!?」
教授から、町内にコンビニそうろうの店があるから食事に関しては心配しなくても良い、と聞かされていて全く用意してこなかった棚田は、こんなことなら、駅前ロータリーにあるスーパーでカイロや食料品を買いこんでおいたのに、と一気に焦りの色を見せた。
見越していたのか、みくは冷蔵庫の横に立って棚田を手招きする。
「そんな事だろうな、って思って」
開けられた冷蔵から中から漏れる光が、棚田には大日如来の後光のように見えた。
「お茶やらジュースやらとお弁当買っといたから、後で見といて。こっちのダンボールにも、あれこれ入れてあるし、遠慮せずに好きに食べてね。あ、でも、明日の朝分までのつもりで買ってきたから、そこらへんは自分で計算してね。それと、紙コップや使いすてのお茶碗とか割り箸とかはシンクの下に色々あるから、好きに使って。それから、ゴミはキッチン横の分別ペールにちゃんと捨てておいてね? ゴミの分別、結構、うるさく言われるのよ」
「勿論、キチンとしますから」
一気にみくは、まくしたてた。先程の説明もだが、よく舌が回るものだと棚田は妙なところで感動してしまう。
「あの、所で、みくさん」
「ん?」
「代金は……?」
「は?」
「お幾らになりますか?」
気の抜けた返事をしつつ冷蔵庫の戸を閉めたみくは、使い込まれた皮財布を手にキリッと立つ棚田を見て、深いため息を吐いた。そしておもむろに、にやりと笑うと肩をすくめ、一瞬の間に棚田との距離を詰めて背後にまわると背中を勢い良くぶっ叩いた。
「うはっ!?」
激しくえずく棚田を、みくは明るく笑い飛ばす。
「いらないって、そんなの」
「いえ、そんなわけには」
「最初に教授先生さんから貰ってる、取材のお礼ってヤツから出してるから、良いんだって」
「それはそれ、これはこれ、別問題ですよ」
「細かいね、学者先生」
「お金の事はきちんとしなさいと、祖父母に言われて育ったので」
「学者先生ってば、ジジババッ子なんや?」
みくはまだ、喉の奥の方で笑っている。
「みくさん、お金が絡んだら笑い事にしちゃ駄目です」
「はいはい、じゃあ――取材が全部終わった後で大学の方に連絡させて貰うって事で、良い?」
「はい」
押しに弱そうな棚田に似せぬ強い眼光を前に、みくは苦笑しつつ頷く。
「ここ出る時、戸締まりだけは、しっかりしといてね? 玄関の下足箱の上にあるキーボックスに鍵入れてあるから」
「はい、分かりました」
「小一時間くらいウロウロする程度なら、エアコンつけっぱなしにしておいた方が無難だから。ここの季節風、むちゃくちゃ厳しいの。ちょっと気を抜くと、一気に体温持っていかれちゃって風邪引いちゃうよ?」
「それはもう、バス停でみくさんを待ってる間に、骨身にしみました」
「でしょ? ね、凄いでしょ、あの季節風。あれで余所の人は大抵、参っちゃうの」
雑談しながらも、みくは手際よく、あれやこれやと棚田にコミュニティセンターにある機器の使い方を伝授していく。世話やきが好き、というのか『おかん気質』、というべきなのかもしれない。
――よくしゃべるのは研究室の人たちと一緒だけど、でも馴れ馴れしすぎるというか押しつけがましさを感じにくいのは、みくさんの笑顔のおかげだろうな……。
実際、いつもこんな明るく朗らかに屈託なく接してくれたらなら、どんなに疲れていても、よしがんばろう、って思えるんじゃないんだろうか、と棚田はみくに惹かれている自分をまたしても自覚する。そして、毛先を綿毛のようにはねさせながら歩くみくの背を見ながら、どうして、彼女の配偶者が浮気に走ったりなどしたのかと理解に苦しみ、同時に忌ま忌ましさを感じ始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます