第2話 覚醒の時

 いったい、どこまで続いているんだろう。


 俺は暗い視界の中、延々と続く縁を歩いていた。転べば、奈落へと真っ逆さま。それなのに、明るい方へと行くことなく、俺は延々と境目を歩き続けている。

 ここから落ちたらどうなるんだろう。そんな破滅的な考えが思い浮かぶ。でも、もし、そんなことをしたら。


――もう、戻って来れないぞ。


 誰かに呼び止められた。誰の声かは分からない。でも、口調の割に優しそうな声だった。

 戻って来れない、かぁ。それは嫌だなぁ。まだ、やりたいことだってあるのに。


――やりたいこととは何だ?


 今度は明確な意志を持って尋ねられた。返事を期待されている。

 まぁ、未来なんてどうにでもなるし、どうにもならないもんだからな。はっきりとしたことは分かんないけど。俺が言えるのは……。


「そうだなぁ。俺だって、死ぬ前に一人くらい彼女を作ってみたい」


 はっきりとした声がでた。その瞬間、目の前が明るくなっていく。誰かが手招きをしているようだ。

 その顔ははっきり見えなかった。しかし、あきれつつも、どこか楽しそうに笑っているように思えた。


 その笑い声が遠ざかっていく。それと同時に、世界が真っ白に塗りつぶされた。



 刺激的な臭いが、頭を小突いた。小さくかすかな電子音が、徐々に大きくなっていく。

「ん?」


 最初に認識したのは知らない天井だった。真っ白なそれは一度も見た覚えがない。


 なんだ、これ。


 ぼんやりとした意識で色々と考えを巡らす。色々と浮かんできては、形にならずに消えていった。

 俺って、寝起きはいいはずだよな。それすらも分かんないけど。起きようと思っても、目の前がかすんだままで、一向に意識が浮かび上がってこない。


 そろそろ朝ご飯の準備しないと、学校に間に合わないよな。


 そう思ったら、指先が動いた。体が重くて、動きが鈍い。

 何とか、上半身だけ起き上がれた。視線が、ゆっくりと上から下に向かっていく。


「なんだ、これ」


 今度は言葉が出た。寝起きだからなのか、異常にかすれた声で最初自分の声だと分からなかった。

 俺が疑問に思ったのは、俺の体そのものだ。胸には何か張り付いているし、何かの機械につながっていて、そこから電子音が鳴り響いている。

 そして、真っ白なシーツから出ている右腕だ。どうも、さっきから動きが悪いと思ったら点滴の管がつながっている。


 点滴?


 それを点滴と認識したことで、自分は病院にいるのではないかと認識できた。そう見ると、周囲は真っ白でまさしく病室だ。

 はて、俺はなぜここにいるんだろうか。


ゆう?」


 震える声が横から聞こえた。ゆっくりとそちらを見る。もう、視界もはっきりしていた。

 それなのに、今にも泣きそうになっている女性が誰なのか、なぜかピンとこなかった。


「雄大、目が覚めたの?」


 ほおがこけている。目の下にはくまができていた。

 ああ、そうか。だから、脳が理解を拒否していたのか。ちゃんと見れば分かるというか、なんで分からなかったのか。


「母さん?」


 肩を震わせていた母さんは、俺の言葉で決壊したのか声を押し殺すようにして泣き出してしまった。いつもは、ばりばりの仕事人間って感じで俺にも弱いところを見せないようにしてきた人だ。話し方もハキハキしているし、動きもキレがある。

 だから、こんなに弱さを感じさせているところを見たことが無い。声は弱々しいし、震えている。


 あと、ユウタって俺だ。こうづき雄大。何でこれもとっさに出てこなくなってんだ、俺は。


「体は、何ともない?」


 ひとしきり泣いたあとに、母さんは管がついていない左手を握る。ちゃんと、暖かさが伝わってくる。冷えていた手が温かくなった。


「そうだなぁ」


 俺は首をかしげた。まだ、頭がぼんやりしているが、とりあえずは問題ないって言えるのかな。客観的には問題ばかりだけど。

 俺はちらりと近くにあるドラマとかで見覚えのある機械を見て、首をかしげて答えた。


「何ともない、と思うんだけど」

 不安だなぁ。さっきから聞こえてる音、心電図の音だったんだな。

 どう考えても、重病人だよな、このシチュエーション。それで、中心にいるのが俺だったりする。

 俺、ほんとに何ともない? 自信なくなってきた。


「ほんとに?」

 ほら、母さんも疑いの目で見ている。そんなわけがないだろう、口よりも目が語っている。

「上月さん、どうかされました……か?」

 そこにおそらく母さんが呼んだであろう、看護師さんが部屋に入ってきた。そして、俺の顔を見た瞬間、絶句していた。

 いや、百戦錬磨のはずの看護師さんを驚かせるって、俺は何なんだよ。


「すぐに先生を呼んできます。雄大くんは、そのまま安静に」

「あ、はい」


 しかし、そこはプロだ。すぐに切り替えて仕事の顔に戻ると部屋を出て行った。

 頭をかきたい。が、右腕は点滴につながっているし、左手は母さんに握られている。小さく息を吐くだけにしておいた。


「う~ん」


 俺はここまでの記憶を思い出そうとする。しかし、ダメだった。

 そもそも、直近の記憶が家のキッチンでかつおぶしを鍋にぶち込んでいるシーンだ。そんなのいつもやっているし、本当に直近なのか疑わしい。

 ダシ作りながら考え事なんて、日常でしか無いからな。作り置き、残ってたっけ?


「雄大、どこか苦しい?」

「うん、別に。そんなことはないよ」


 俺が悩んでいたせいで、母さんに誤解させてしまった。そういや、俺がしたときとか、こんな顔をさせていたっけ。


 あー、さっきから頭がぐるぐるする。考えれば考えるほど、何が何やら分からなくなっていく。

「ねぇ、母さん、俺ってさ」

 どうしようもなくなって、俺は母さんに尋ねようとしたとき。


 どさっ、という音でそれが中断された。


 音に視線を向ける。

 そこには、入り口近くでぼうぜんと立ち尽くしている女の子がいた。どうやら、手にしていた袋を落としてしまったようだ。

 中からリンゴが一つ、部屋に転がり込んでくる。それは、ベッドの脇まで来て、ようやく止まった。


「……生きてる?」

 かすかに動いた彼女の口から、震え声が出た。


 えっと、誰だ?

 見覚えはあると思うんだけど。短めのショートカットに、大きめの目をぱちくりとさせている。整った顔だ。今みたいに崩れてさえいなければ、雰囲気あるだろう。


みおちゃん」


 母さんが名前を呼んだことで、ようやく思い出した。


 神谷みお

 同じ学校の同級生で、確か隣の部屋に住んでいる家族の一人娘だ。生活リズムが違うからか、あんまり見かけたことは無いけれど、知らない相手ではない。

 そうだよ、思い出せないって。彼女のあんな動揺した顔、俺、知らないんだから。


 神谷の瞳は、俺を見ているようで見ていない。焦点が合わずに揺らいでいた。そして、かすかに開いた唇から、小さく音が漏れる。

「……動いてる」


 俺は動物園の珍獣か!

 震える声に、思わずツッコミを入れたくなった。動いちゃ悪いか。


 ただ、神谷もそれだけ言って固まってしまっている。

 そんな彼女に、母さんは声をかけに行ってしまった。一人ベッドに残される俺。

 しかも、戻ってきた看護師さんとお医者さんがその場で話し始めてしまった。


 うん、みんなも大変だったことは分かるけど、まずは説明してくれ。

 ほんと、の外に置かれてるみたいで気分悪い。

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