一章 震災が奪う人の道 希望と絶望、虐待と搾取
4 阪神淡路大震災 喪失の朝
コポ、コポコポコポ
ザザァ
ナミノオトガキコエル……
女の意識は、夢と
女の意識が、ぼんやりと浮上してきた……
(気が遠くなるほど、この波の音を聞いてきた……)
数十億の波の音。寄せては返し、また寄せる。
女はその音を暗闇の中で、聞き続けていた。覚醒しては途絶える意識、体に絡みつくドロドロの黒い粘体。
女がこの状態になって、すでに数百年が経過していた。
幾年ときが過ぎたのか…… 女の混濁した意識では、もはやわからなくなっていた……
うっ
また粘体が蠢いた。女の身体に寄生し続けている、おぞましき黒き邪気。邪気は再び、じわりじわりと女の生気をすすり吸った。女の意識がぼんやり遠のいていた。
(アタイどうしてたんだっけ…… なんか良い夢みてた気がする…… 何も良いことなんか、なかったはずのアタイなのに……)
――――――
ジージージー
ミーンミンミン
藤倉がバイクで吉祥寺に到着した半年前。とある夏休みの朝、兵庫県宝塚市宝梅の久志本家(千剣破の実家)は、セミの鳴き声に包まれていた。日差しは強く降り注いでいた。のどかな朝だった。
もみじの青葉が風に揺れていた。剣奈は金狐や白蛇と戯れていた。庭では犬が嬉しそうに走っていた。
「平和ねぇ」
千剣破が冷えた麦茶のコップを手に、スマホでニュースを読んでいた。
タラララン タラララン
午前十時、スマホから呼び出し音が響いた。画面には電話の発信者の名前が映し出されていた。
神戸家庭裁判所 伊丹支部
剣奈は金狐のふさふさの毛を撫でながら、上機嫌に笑っていた。白蛇は剣奈の肩にのっかり、その様子をニヤニヤ見ていた。
「うふふ。きゅうちゃ、もふもふだよぉ」
キュウウ
「ごめん、剣奈、大事な電話」
「あ、はーい」
剣奈が乙女座りになって、金狐を抱きかかえた。千剣破は着信アイコンをスライドし、マイクをオンにした。
「はい、久志本でございます」
「こちら神戸家庭裁判所、伊丹支部、家事課でございます。先日お申し込みいただきました未成年者養子縁組の件について、ご連絡いたしました」
「お世話になっております」
「玲奈さまの書類審査が終了いたしました。家庭裁判所調査官による面談をお願いしたいと思います」
千剣破はぐっと右手を握りしめた。
「ありがとうございます。日にちはいつになりますか?」
「八月十九日午前十時からでいかがでしょうか。場所は伊丹支部の家庭裁判所相談室になります。一時間ほどの面談になります」
「はい。その日にちで大丈夫です」
「面談対象は申立人の久志本様と、対象者の玲奈さんです。必要でしたら、お嬢様の剣奈さんも同席いただけます」
剣奈が満面の笑顔になった。千剣破は手帳を開き、ペリカンの万年筆でスケジュールを記入した。
「ありがとうございます。当日、その三人で伺います。必要な書類などございますか?」
「家裁許可審判書謄本および被申請者の戸籍謄本をご持参ください。当日は調査官の高島が担当します。当日は神戸家庭裁判所、伊丹支部本館一階、家事相談室二号で行います。庁舎の入口から入り、一階の受付で「養子縁組の面談で来ました」とお伝えください。受付担当が家事相談室までご案内いたします」
「はい。承知いたしました」
「なにかご質問はありますか?」
「いいえ。大丈夫です。ありがとうございました」
プツリ
千剣破が電話を切った。スケジュールに必要事項をメモし終え、彼女は両手でガッツポーズをした。
「うわぁ!玲奈姉!」
剣奈は大喜びでリビングを飛び出し、玄関ホールの階段を上がっていった。
「玲奈姉!」
「んだ?剣奈。何かいいことでもあったのか?」
ドアが開いた。玲奈が寝ぼけた顔を覗かせた。髪はくしゃくしゃで、パジャマ姿のままだった。
「家裁から電話があったよ!十九日の午前十時、面談だって!」
剣奈は階段の踊り場から玲奈を見上げ、元気よく言った。玲奈は目をぎゅっと閉じた。そして想いを噛みしめたまま立ち尽くしていた。
(アタイが生まれた町、神戸市長田区。昔はゴム工場の町だったんだとさ。しみついた機械油の臭い、溶けたゴムの臭いが混じり合って、なんとも言えない独特の臭いが町を包んでいたんだと)
当時の長田では、朝になり、立ち並ぶ小さな町工場のシャッターが開くと、鉄と油の混じった重い空気が流れ出した。やがて、どこからともなくソースや揚げ物の匂いが漂っていた。
生活と仕事が混ざりあい、人の汗の匂いが染みこんだ、そんな町。
アタイのクソ親父、竜作も、そんな空気の中、モノづくりに向き合う一人だったんだと。
金属を削る音、油煙を含んだ重たい空気。独特の長田の臭いをかぎながら。
クソ親父も、昔は希望にあふれてたらしいぜ?
地震がやつの人生を、すっかり変えちまったんだと……
いろいろ苦労して、幸せになろうって頑張ったらしいぜ。でも、ことごとくうまくいかなかったんだとさ。
けどさ、だからと言って、それをアタイにぶつけられてもね……
―――― 一九九五年(平成七年)
玲奈の父、
川口金属は、ケミカルシューズ製造に使われる金属部品の下請けをしていた。社長の川口勝三は長田生まれ、叩き上げの金属加工職人だった。
川口は粗野なところはあったが、情に厚い人だった。いい加減な仕事をすると、拳骨が落ちた。スパナが飛んでくることもあった。
「仕事はちゃんとせなあかん。手ぇ抜いたらあかん」
川口の口癖だった。川口は空襲や戦後の混乱の中で育った。戦後、近所の町工場で修業し、やがて自分で小さな工場を立ち上げた。
川口の仕事ぶりは確かだった。彼は丁寧に金属を削り続けた。彼の確実な仕事ぶり、確かな品質精度で削り上げられた製品、期日通りの納品により、着実に実績を築き、評判をあげていった。
自ら営業を行わなくても、発注先が川口を尋ねてきた。従業員や下請け仲間は、川口を「オヤジ」と呼んで慕った。
「営業なんて必要ないんや。ちゃんとお天道様に恥じへん仕事しとるだけでええんやで?そしたら仕事は勝手にくるんや。色気出したらあかん。余計なこと考えたらあかん。良い仕事だけしとったらええ」
川口の口癖だった。
竜作は川口の背中を見て育った。川口は竜作の憧れだった。彼はひたすら川口をまねた。
竜作は、毎日、旋盤やフライス盤に向かい、油まみれになりながら、黙々と金属を削り続けた。
「おお。ええ仕事するようになったのぉ」
川口は竜作の筋が良いと褒めた。竜作は独立して自分の町工場を持つのが夢になった。良い仕事をしていれば、注文は黙っていても転がり込んでくる。竜作は知らず知らず、その職人気質が叩き込まれた。
当時の神戸市長田は、住居と工場が混在する工場集積地だった。小規模な町工場が密集していた。彼らは横のつながりが強く、分業協力が盛んだった。
この分業ネットワークが長田のゴム・靴産業を支えた。どの工場の誰が、どんな仕事が得意で、どんな仕事振りか。
その地域のものであれば誰もが知っていた。仕事は口コミで、舞い込んできた。
川口金属の給料は安く、忙しさのわりに生活は貧しかった。しかし竜作は自分の仕事に自信を持ち、将来を夢みて充実した毎日を送っていた。
―――― 一月十七日
一九九五年一月十七日、午前五時四十六分。正月明けの、暗い冬の朝だった。
ドーン グラグラグラ
ミシミシミ バキバキバキ
突然、地面が突き上げられた。轟音とともに、一気に大きな揺れがきた。
長田の町は突然、激しい揺れに襲われた。
竜作は驚いて跳ね起きた。凄まじい音が響いていた。古い木造アパートが恐ろしいほど揺れていた。
竜作は慌てて外に出た。
その瞬間、アパートが崩れ落ちた。
「うおぉぉ」
周囲の町工場の外壁が、あっけなく崩れていった。竜作のアパートは、住居と工場が混在して密集する場所だった。地震で工場や家屋がどんどん倒壊していった。そこらじゅうで叫び声や悲鳴が響いていた。
「い、いったい何が……」
長年住み慣れた古い木造アパートは、轟音とともに無残に崩れ落ちた。一階が潰れ、二階の部屋や廊下も、瞬く間に瓦礫と化した。土埃が舞い上がった。
竜作はそれをぼうぜんと見ていたが、はっと我に返って叫んだ。
「お、おやじ!おふくろ!」
竜作が叫び声をあげた。しかし返事は返ってこなかった。周わりの工場や古い住宅は、どんどん瓦礫に変わっていった。
人々の叫び声、悲鳴が響き渡っていた。
竜作はあまりの衝撃と恐怖に動けず、ただただ、目の前の現実に圧倒されるばかりだった。
「ちくしょう!」
竜作は呼吸を整え、瓦礫の中に足を踏み入れた。ホコリっぽい匂い、そして油の臭いがした。遠くに赤い炎が見えた。工場の倒壊による、鉄板のひしゃげる音が、あちこちから聞こえた。助けを求める声も、あちこちから聞こえてきた。
竜作は、割れたガラスや古新聞、油缶を踏み分け、アパートの瓦礫に踏み入った。震える手で口元を押さえ、必死に現実を受け止めた。
「おやじ!おふくろ!」
竜作は、崩れたアパートの瓦礫の隙間に、懸命に叫び続けた。
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