具だくさんシチュー

高橋心

具だくさんシチュー

 エルマには痴呆症の母がいる。農具小屋を無理矢理に改築した家で二人きりで生きているのだ。

 初めは新しく買った手縫い針を度々失くす程度であったが、次第に老けた娘の顔すら覚えられなくなっていった。挙句の果てには幻覚に囚われ始めたのだと医者は言う。


 「ああ貴方、生きていたのね。やっぱりあいつは嘘つきよ。」

死んだ夫が頭の中で生き続けていると聞けば言葉は良いが、実際は神経が見せる妄想でしかないことをエルマだけが知っている。また別の日は

「ここにある銃は一体何?それで私をどうするつもり?」

などと喚き散らすのだった。どうやら今度は銃の幽霊が見えているらしい。そんな物はどこにも無い、と医者の言いつけを破って母の妄言を真っ向から否定するエルマだったが、返ってきた言葉は

「違う。あの娘がそんなことを言うはずがないわ。」

であった。母がそんな事を言いながらヒステリックに暴れる度に具の無いシチューがひっくり返されるので、エルマが母を疎ましく思うようになっていったことは言うまでも無い。大戦の後、祖国を襲った経済危機は病の老人と可哀想な娘にも例外無く牙を剥き、その心まで侵していったのだった。


 「ああ、また銃だ。私の娘は何処に行ったの。エルマを返しなさい。」

その日も普段通りの金切り声が聞こえていた。いつもと違ったのは、母から飛び出した唾が、ただでさえ淋しいシチューにかかったことで、エルマの溜め込んでいた千切れんばかりの怒りが決壊した事だけだった。

「本当に銃があるのなら使って見せなさい。それを以て貴女の世界がどれだけ無意味に軽いか知るが良いわ。」

自身は気づいていなかったが、甲高く叫ぶ様子は母娘瓜二つで、近所の者には聞き分けがつかなかったに違いない。母は一瞬驚いたものの、エルマの言葉は老人の意地を固めるばかりであった。

 震える病人は透明な銃を握るように左手を曲げると、それをこめかみに向けたところで大きく息を吐き出した。そして、ぱん、という小気味良い音の後、シチューの上には部屋に飛び散ったのと同じ真っ赤な脳漿と何かぶよぶよとした物が浮いていた。







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