向日葵の君へ

荻原なお

第1話


 薄汚れた窓を開けると蝉時雨がより大きく聞こえ、夏の暑さが一層増した。油絵具あぶらえのぐの独特な匂いと物が腐敗した臭いが混じり合った空気が外に流れ出し、代わりに湿度の高い風が入り込んでくる。

 川口かわぐち美織みおりは窓から大きく身を乗り出した体勢のまま、大きく息を吐いて、吸い込んだ。都会の重々しい風は新鮮とは言い難いがやっと普段通りに呼吸ができたのだ。わざとらしく空気を味わっていると、背後から不機嫌丸だしな声が届いた。


「嫌なら来なければいいだろ」

「私が来なきゃ、じんくんは今頃ミイラになってるよ」


 美織は窓から身を乗り出したまま、首だけ回して声の主に視線を向けた。ぺったんこになった布団から這いつくばり、出てきたのはこの汚部屋の主人である樋口ひぐち仁。伸びっぱなしの髪はフケと脂にまみれ、顎は無精髭に覆われている。日に焼けていない肌は日頃の不摂生からぼろぼろだ。普段着兼寝巻きの服は皺が深く刻み込まれており、更に絵具が重なり汚れている。

 一週間ぶりに訪れてみれば、この有様。先日、部屋も仁本人も綺麗にしたばかりなのに見事な荒れ果てっぷりは怒りよりも感服してしまう。


「目の下に隈できてる。眠れないの?」


 コンビニで購入したゴミ袋を広げながら美織は続ける。この汚部屋を埋め尽くすものは全てゴミだが、この地域は分別にうるさい。燃えるものとプラスチック、ビン、缶を慣れた手つきでゴミ袋に突っ込んだ。


「この部屋じゃ、きちんとした睡眠なんてとれないでしょ。片しちゃいたいからお風呂行ってきなよ」


 美織は苦笑しながら汚れて使い物にならないであろう衣類をゴミ袋に放り込む。画家である仁は普段着も仕事着にするため、すぐ汚してしまう。美織が捨てなければ、穴が空いて、浮浪者同然の服でも気にせず着てしまう。

 購入したばかりの服のタグを切り取って、仁に押し付ける。風呂場を指差せば仁は無言で起き上がり、ふらふらと風呂場へと向かった。その危なっかしい足取りを見て、美織は大きくため息を吐いた。


「あのね、ゼリーばかりじゃ体に毒だよ」


 仕事人間である仁は食事の必要性を理解していないのか、腹を満たせればいいとばかりに簡単で時間のかからないものばかりを好んで食べる。美織の叱責に、仁は何も反応を返さない。聞こえていないはずがないのだが。


「それから、ゴミはきちんとまとめておいてよね。適当に置かれるよりも掃除が楽なんだから」


 聞こえていなくても小言を言ってしまうのは美織の悪い癖だ。直さなければと思いつつも相手が仁のため、美織は舌鋒鋭く気になることを指摘する。


「きちんとシャンプー使いなよ。全身ボディソープだと髪痛めちゃうんだから」

「……うるさい」


 やっと口を開いたかと思えば、その一言だけ。風呂場の戸を閉める音が強く響いた。美織は怒りを通り越して呆れてしまった。


「まったく……」


 美織はため息を吐いてから、再び作業に取り掛かることにした。仁の言動には慣れている。なにせ二十年近い付き合いだ。その生活能力の皆無さは折り紙付きで、学校へは毎日遅刻するし、声を掛けなければ食事も忘れ、絵を描くことだけに没頭する。

 ここまで絵に執着するなんて何かの病気なのでは、と周囲が心配する中、美織だけが仁を叱り、世話をし続けた。


「私はあんたのお母さんじゃないのよ」


 呟いてはみるものの、やはり怒りは湧いてこない。放っておけない不器用な幼馴染だと理解しているからだ。決して離れることはできないのだということも。

 だからこそ仁の両親に身の回りの世話を頼まれた時、迷わず承諾した。美織がいなければ、仁は食事も睡眠もおろそかにするのは目に見えているので、それなら両親からの頼みを盾に好き勝手に世話を焼くほうがやりやすい。

 ゴミの分別を終わらせると次は掃除機をかける。ソファの下、部屋の角もしっかりかけたら、次は雑巾掛けをしていく。

 この頃には部屋に充満していた臭いが綺麗になくなり、鼻通りがよくなってきた。

 強張った体を伸ばし、少し休憩をしていた美織の耳にドライヤーの音が聞こえた。髪が傷んでも無頓着な仁だが、何度も美織が叱ると面倒になったのかこうして何も言わずとも髪を乾かすようになった。成長したな、と感慨深い気持ちになる。美織は母親ではなく、幼馴染なのだが。


「……さて、と。ここら辺でいいかな」


 布団は後でコインランドリーに持ち込むとして、次にどこを片付けようかと視線を彷徨わせていると、ある部屋の扉が目に入る。仁がアトリエにしている部屋だ。

 アトリエは物でごった返しているが寝室やキッチンと比較して綺麗さを保っているのと、芸術家という生き物は自分のテリトリーに足を踏み入れることを嫌がると聞いたことがあるので美織がすることと言えば、空になった絵の具等を集めて捨てるだけだ。最後に掃除をしたのは一週間も前なのでだいぶゴミは溜まっているはずだ。

 ゴミを回収すべく、美織は扉を開けた。

 すると強烈な油絵具の香りが飛び込んできた。乱雑に置かれたキャンバスや使い古された道具に埋め尽くされ、床が見えない程だ。窓から差し込む光だけでは部屋全体を見渡せない暗さだが、壁に飾られた大小様々な絵画でアトリエの中は彩られている。


「あれって」


 小さく呟いて、美織はアトリエの奥を見つめた。一枚のキャンバスに布がかけられているのが気になった。仁はどんな作品でもああして隠すようなことはしない。なぜ、隠すのだろうか。好奇心から美織はゆっくりと絵に近づいた。

 床に散乱する道具を踏まないように細心の注意を払いながら、キャンバスの前へと辿り着く。絵を見ようと布に手を伸ばした時、


「それに触るな!」


 怒りを含んだ声が聞こえた。驚いた美織は伸ばした手を引っ込めて、振り向くと、風呂から上がった仁がこちらを睨みつけていた。


「ご、ごめん……」

「見たのか?」

「まだなにも」


 美織が首を振ると仁は安堵の息を吐く。そんなに自分に見られたくない絵だったのだろうか。ちくり、と美織の胸が傷んだ。その痛みから目を逸らすために、美織は仁の隣を通り過ぎると布団の元へ駆け寄る。


「買い物ついでに、これ洗ってくるね」


 仁の返事もまたず、美織は布団とシーツを引っ掴むと足早に玄関へと向かった。




 残された仁はぐしゃぐしゃに乱れた髪をさらに掻き毟り、苛立たしげに舌打ちした。

 美織の足音が遠くなるのを確認しながら、先程まで美織が触れようとしていたキャンバスへ近づき、布を剥ぎ取った。


 現れたのは一枚の絵画だ。A4サイズの紙を大切に胸に抱える少女が向日葵のような微笑みを浮かべていた。

 仁は愛おしげにキャンバスのふちをなぞる。幼い頃から絵を描く事に没頭していた仁を美織だけが軽蔑も嘲笑いもしなかった。彼女の似顔絵を描いて手渡したら、まるで宝石のように目を輝かせて喜んでくれた。そんなに上手くもない、さっと描いただけの下手くそな絵だったのに。


「……美織」


 この絵は未完成だ。もう二十年も近く、下書きの段階から先に進まない。何度も絵具を重ねて、何度も筆を滑らせたのだが、どれもあの日の美織の笑みとは遠い。


「完成したら、その時は……」


 ぽつりと呟いた声は誰に届くでもなく、空気に消えた。




 ◆




 せんべい布団だといえども、さすがに食材が入った袋と一緒に持つのは難しいらしい。しかも洗って乾かしたことで分厚さが増している。試しに持ち方を変えたりして、どうにか持とうとするが帰宅の途中で落とすのが目に見えているので断念する。一度、仁の家に食材を置いてから取りに戻ろうかと考えていた時、美織の視界が薄暗くなった。なぜだろう、と顔をあげると不機嫌そうな仁が立っていた。


「仁くん」


 まさかの人物の姿に、美織は両目を丸くさせた。怒らせたので今頃、ふて寝していると思っていたのになんでこんな所にいるのだろうか。


「貸せ」

「いいよ。軽いし」

「いいから貸せって」


 普段、食事をまともにとっていない男が何を言っているのだろうか。筆よりも重いものは持てません、と言いたげな細い腕よりも美織のほうが遥かに力はあるはずだ。

 しかし、不満げな美織を置いて、仁は布団と買い物袋を手に持つとずんずんと先に進んでいく。美織は小走りで後を追いかけるが、すぐに息切れし、最後は早歩きになってしまった。

 その様子に気付いた仁は歩幅を狭め、美織が隣に並べるようにペースを落とした。


「ありがと。優しいね」

「うるさい」


 美織が両目を細めて笑うと、仁は鋭い眼光で睨みつけてきた。それでも美織の頬の緩みは治まらない。素直じゃない幼馴染は悪態を吐くものの優しさは変わらないのだ。


 しばらくすると仁が借りているアパートが見えてきた。築四十二年の年季が入った建物だ。経年劣化により色がくすんだ外壁や防犯意識の薄い窓は、お世辞にも綺麗とは言えない。家賃の割には部屋数が多いのだけが利点だった。

 この建物を見るたびに世界屈指の油絵作家なのだからもう少し良い所に引っ越せばいいのに、と美織は思う。仁の年収は知らないが美織に毎月支払われる家事への賃金はそこらのバイトと比べてとても高額だし、絵を描くこと以外に趣味はないのだから貯蓄もあるはずだ。


 しかし、仁の脳裏には安全面や清潔感という概念がないのかもしれない。本人にしてみればキャンバスと向き合いひたすら没頭し、納得いくまで筆を動かし続ける。その空間さえ保てれば、ここよりもオンボロアパートでも、更に言えば電気や水道の通っていない洞窟でも住み続けるに違いない。

 呆れる美織を置いて、仁は慣れた足取りで階段を登り、二階へと向かった。美織も後を追いかけるが仁の部屋——その隣の部屋を通り過ぎる際に「あっ」と声を上げた。


「私、仁くんの隣に引っ越そうと思っているから」


 先月、ここに暮らしていた青年は彼女と結婚をすると言って引っ越していった。それ以降、この部屋は無人だ。

 美織の提案に、仁はぎょっとした表情をすぐさまいかめしいものへと変えた。


「駄目だ。もっとセキュリティがしっかりした所にしろよ」

「でも、近くの方が仁くんのお世話をしやすいし、今住んでるとこの更新期間もうすぐ何だよね」

「更新すればいいだろ」

「だから、お世話しにくいの。遠くて。ちょうど、仁くんの隣の人引っ越したからいいかなって」


 仁は目尻を吊り上げた。どうやら本気で怒っているようだ。だからといって、美織も今更物件を変えるつもりもない。どうしたものかと考えあぐねていると、先に口を開いたのは仁だった。


「なら俺が引っ越す」

「え?」


 唐突な言葉に思考が追いつかない。そんな美織を気にも留めず、仁は部屋へ入ると布団を廊下に投げ捨てた。買い物袋は丁寧にキッチンまで運ぶと床に置く。

 そのまま食材を冷蔵庫に仕舞ってくれるので、美織は昼食の準備に取りかかることにした。暑いので簡単にそうめんでいいだろう。変に凝ったの作ると夏バテした仁が食べないし。


「もう少し広いアトリエが欲しい。お前のとこならいい物件も多いだろう。俺がそっちに行くならお前が引っ越す必要はないはずだ」


 鍋でお湯を沸かしながら美織は目を丸くさせた。あのものぐさな、生活能力もコミュニケーションもない男が美織のために引っ越しという面倒な作業をするなんて考えもしなかった。


「多いけど、その分家賃も高いからな……」

「今住んでいるとこでいいだろ」


「いやー、もうさ、退居するって言っちゃって。家賃が安い割に防犯しっかりしているの、あそこぐらいなんだよね」


 どうしよう、と美織が悩ましげに眉を下げると仁はフンと鼻で笑う。


「バイト代を高くすれば問題ないな」

「普通に貰いすぎてるからこれ以上はちょっと……」

「わがまま言うな」

「言ってないじゃん。私がこっち引っ越せばいいだけなんだし。アトリエが欲しいなら私の部屋使いなよ」

「……ここの大家が、この建物を潰すから近いうちに出ていってくれと言っていた」

「え、初耳」

「今いったからな」

「だから最近、引っ越す人多いのか」


 美織が言い淀んでいると仁は大きくため息を吐いた。


「今のところを更新したくない、給料を更にもらうのも嫌だ、新しい物件も嫌、か」

「事務の給料って安いんだから仕方ないでしょ」


 沸騰したお湯にそうめんを入れて、箸でかき混ぜながら美織は顔をしかめた。どれほど仕事を頑張っていても給料は上がらず、正直言うと仁のお世話代がなければ生活もままならない。

 転職をしようにも仁の家に近く、お世話にいける時間があり、更に給料が高いとなると美織のような高卒は雇ってもらえない。何度かトライしたがほぼ書類選考で落とされた。

 渋い顔でそう伝えると仁は「なら」と切り出した。


「俺と暮らすか?」

「は?」


 美織は耳を疑った。


「なんて?」

「俺が家を借りるからそこに住めばどうだ? 家賃も水道代も俺が払うし、お前はこうして飯作って掃除してくれればいい」

「いやいや、それは……」

「もちろん、バイト代は別途で支給する。お前から金を請求するつもりはない」


 聞けば聞くだけ好条件だが、簡単には頷けない。美織が悩んでいるかたわらで、仁は鍋の中身をざるに移し換えた。


「あ、ごめん。ありがと」

「……嫌そうだな」

「仁くんは嫌じゃないの?」

「嫌なら提案もしない。恋人もいないから問題もない」


 それは知っている。仁という人間の性格を美織は彼の両親より理解していると自負している。美織のお節介が嫌なら今頃追い出しているはずだ。


 それに、恋人がいないこともよく理解していた。訪れる度にゴミ屋敷と化す部屋に異性を呼べるわけがないし、仁の外出着は全て美織が購入しているものなので彼がデートに着ていく服は持っていない。

 それでも首を縦に振らない美織に痺れを切らしたのか、恐る恐るといった様子で仁が口を開く。


「誰か、一緒に住みたいやつがいるのか?」

「いないけど」


 即答すると仁は安心したのか肩の力を抜く。そうめんを器に盛ると既製の麺つゆを入れて、テーブルまで運んでくれた。


「なら問題ないな」

「なんか強引だね。珍しい」


 仁の対面に座った美織はいぶしむ視線を送る。美織が身の回りの世話をする事は絵を描くためにしているとばかり思っていた。自分のテリトリーに招くなんて何かあるのだろうか。


「……別に」

「いつか彼女さんができた時、出てけって言わないでよ」

「言わない」

「ふうん、私のやることに文句いわない?」

「……内容にもよる」


 あまりにも嫌そうな顔をするものだから美織は吹き出した。それでも一緒に住む提案を下げないので、美織は不思議に思いつつもいい条件ではあると考える。仕事の傍ら、仁の世話を焼くとどうしても週に一回や二回程度が限界だ。共に暮らすなら毎日世話を焼くことができるし、家賃などがタダ。ありがたすぎる。

 でも、と美織は疑念する点を口にする。


「私、また怒らせるかもしれないよ」

「怒る?」

「あの絵、布がかかったやつ。気になったら見ちゃうから、仁くんがストレス感じちゃうかも」

「……あの絵は」


 ぽつり、と仁が言葉をこぼす。


「まだ、未完成なんだ。完成したら、美織に見せるつもりでいる。それを、未完成の状態で見られたくなかった」

「いつ完成するの?」

「……分からない。二十年も完成しない」


 ふうん、と美織は鼻を鳴らす。


「じゃあ、いつか完成したら見せて?」


 仁は返事をしなかった。だが否定をしないということは了承したと受け取ってもいいのだろう。美織は小さく笑みを零して、ふやけたそうめんを口にした。




 ◆




 樋口仁の第一印象は「変わった子」だった。授業中、先生に注意されても落書きだらけのノートに鉛筆を走らせ、休み時間になっても教室に一人残って何かを一心に描いている。給食の時間もそれは同じで、彼の両親が何度も学校側から注意されても変わらない。


 その変人っぷりに周囲は彼をいじめのターゲットにした。


 仁が大切にしていたノートを破り、筆記用具を捨てたのはまだ序の口で、陰湿な嫌がらせは次第に暴力へと変わっていった。

 殴られても蹴られても仁は気にも留めない。それをいいことにいじめっ子達の暴力はエスカレートしていき、ついには階段から突き落とすという命にも関わる行為に走った。

 上段から転がり落ちた仁は幸い捻挫ねんざと打撲程度で済んだのだが、彼の両親が一人息子を酷く心配してしばらくの間、休学になった。その間のお知らせの紙や宿題を届ける役目を——無理矢理——教師から美織は押し付けられた。


 最初は嫌々届けていた。学校一の変人と関わりたくなかったからだ。

 学校関係の書類を届けても仁はどうでもよさそうに受け取るだけ。


 何度も仁の家を訪ねたある日、美織は「なんで絵を描くの?」と口にした。なかば興味本位だ。学校での態度、周りからの嘲笑ちょうしょうをものともしない仁が不思議だった。


「……分からない」


 ややあって返ってきた言葉に美織は首を傾げた。


「分からないのに描くの?」

「あんたは呼吸をするのに意味が必要なのか?」

「呼吸と絵は違うじゃない」

「違わない。俺にとっては呼吸と同じだ」


 いつもは変わらない表情が歪む。自分の言動に嫌だっているのは明らかで、美織は慌てた。


「なら、私も描いていい?」


 は? と仁は口を開ける。


「描けば分かるかなって」


 美織の提案に仁はしばらく長考し、渋々といった様子で頷いた。

 あいにく、美織には芸術とはなんなのかさっぱりだったが不思議な事に仁とはその日以降、よく会話をするようになった。今までは先生であっても無視していたのに美織にだけは、筆を止めて頷き返してくれた。

 その事を学校側から報告された仁の両親は、我が道を行く息子の変わりようにたいそう喜んだ。菓子折りを持って美織の家を訪ねて、会う度に感謝をいうぐらいには。

 周囲の反応と仁の両親からの頼みもあり、美織は仁の幼馴染兼お世話係となった。




「何を笑っている」


 頭上から降ってきた声に、美織ははっと顔を持ち上げた。


「昔の事を思い出していたの」

「思い出に浸るならカッターの刃をしまってからやれ」


 ぶっきらぼうな言い方だが仁なりに心配しているのは分かっている。美織は苦笑しつつ、言われた通りに刃をしまう。

 どうせ、カッターの役目はこれで終わりだ。長く慌ただしい引越し作業も終えて、運び込まれた段ボールは全て解体してしまった。掃除とは違う疲労感を味わっていると美織の目の前に裏返しになったキャンバスが差し出された。


「……なにこれ?」

「あの作品、完成したから、やる」


 あの作品、というのは二十年も未完成だと言っていたやつだろう。あの話をして、まだ半年も経っていないのにもう完成? と思いつつキャンバスを受け取った。


「……これって」


 美織は両目を大きく見開いた。

 暖かな向日葵が咲いていた。その中央には一枚の、ぼろぼろの紙を眺めている少女が描かれている。真っ赤なほっぺたと緩んだ口元、優しげに下げる目尻から少女がいかにその紙を大切に思っているのかが伝わってきた。


 ——これは、かつての美織だ。


 まだ幼い頃、仁から初めて似顔絵をもらった日の。


「あれ、捨てられたって言って悲しんでいたから」

「ありがとう……。ずっと描いていたのって、これだったんだ」

「やっと納得の仕上がりになったから……。嫌なら捨てればいい」


 キャンバスを取り上げようと仁は手を伸ばした。

 美織はキャンバスを抱きしめ、その手を払いのける。


「いらなくない! これ飾ってもいい? 飾りたい! え、額縁どうしようっ」


 興奮し、まくしたてると仁は一瞬だけ呆けた表情を浮かべ、徐々に顔を緩ませる。目尻に挿した朱が、仁の感情を明らかにする。


「飾るってどこに?」

「リビングとか? あ、玄関もいいかも!」


 なにせ引っ越したばかりの新居にはなにもない。ソファやテーブルは明日配達される予定なので、あるのは仁の仕事道具と美織の化粧用品や服だけだ。


「迷うなぁ」

「……なら、一緒に額縁を見に行くか。金色や黒、木製とか色々あるから、それを見て決めればいい」


 珍しく外出を提案する仁に、美織は笑いながら頷いた。

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