第十一話 8月:陽の咲く日 -9-

 真夏だとは思えない、冷ややかな静寂が降りた。

 あれほどやかましく騒いでいたセミの声が、急速に遠ざかっていく。

 だというのに空は明るく晴れ上がっていて、降り注ぐ陽光はぎらぎらと強く暑い。

 風が、熱波となり押し寄せてくる。


「……え?」


 やっと、想子の喉から声らしきものが出た。

 そう呟くのが、精一杯であった。

 光を照り返す白の装束を纏ったシキは、相も変わらず呑気な微笑を浮かべたまま、やや離れた庭先に立っている。

 自ら口にした事の重大性を、全く理解していないかのような佇まい。

 冗談と冗談の狭間を掻い潜って生きているような男だが、これが冗談で口にして良い事でないのは、幾ら彼でも理解しているだろう。それだけに、いつも通りの平然とした様子が不気味に映る。


 九縄を、殺す。


 確かにそう言ったのだ、彼は。

 想子は九縄の姿を探そうとしたが、身体が動かない。何故か、見るのが恐ろしかった。


「前々からちょっと疑ってたんですよ、九縄くん。姫に死ねって命じられたら、君は死ぬんじゃないですか?」


 シキが首を横に倒した。

 傾げたというよりは、想子の後ろにいる九縄を確認したのだろう。


「さあ」


 激昂も嘲弄もせず、九縄はこの一見馬鹿げた問いを受け流した。

 本気で分かっていないようにも聞こえる。


「どうだろうな」

「試してみてください、姫」


 矛先が想子に向けられ、細身の身体がびくりと震える。

 発言の真意を探ろうと用心深くその表情を窺ってみるが、シキの優しげな顔には僅かの動揺もない。


 それは、つまり。

 自分から九縄に対し、ここで今、死ねという命令を下せという意味だ。


 九縄は当主の命令に従う。だから、想子に死ねと命じられれば死ぬかもしれない。

 馬鹿らしい――あまりに馬鹿らしい思い付きだった。冗談を通り越して正気とは思えない。だいたい、そのような単純な手段が通用するのなら、とうに誰かが試し、九縄はこの世から消えている筈だ。

 にも関わらず、想子はたった二音からなるその命令を口に出来なかった。

 馬鹿げている。

 馬鹿げていると思いながら、酷く指先が冷たい。


「そ……そんな命令、九縄が聞くはずが……」

「成功するかは一割未満ってところでしょうな。そんでも俺がこのまま九縄くんに真っ向勝負挑んで勝つ確率よりは、遥かに高いです」


 激しく狼狽する想子に苛立つ事もなしに、のんびりとシキは勝算について説明する。内容を除けば、茶飲み話にでも興じているかのような雰囲気だった。

 成功する確率は極めて低いと自ら言う。ならば殺せると言い切った手段は、これとは別にあるという事だ。しかし実力で到底敵わない事をこうして認めながら、一体どうやって九縄を殺すというのか。

 シキが、じっと想子を見た。九縄も、おそらく見ている。その数多くの黒い眼で、シキをもまた見ながらに。

 集まる視線が、潰されてしまいそうに重い。


「簡単な事でしょう。何もその細腕で九縄くんを殴れとは言っちゃあいません。姫は一言死ねって命じりゃいいだけです。ダメでもともと、成功すればめっけもんですよ」


 試すだけ。

 そこを、重ねてシキが強調する。

 奇跡を期待して呟くには、あまりに冒涜的な内容――とは言わない。

 危険な怪物に対抗するのに、綺麗も汚いもない。要は勝てばそれで良いのだ。勝者こそが正義であって、敗者はただ牙にかかるだけ。いかに下らなかろうと馬鹿げていようと、試せる手段は試し尽くす。

 シキの提案は、まったくもって正しい。勝つ事を考えるなら、直ちに想子もそれに従い、命を下すべきであった。

 だが、想子は何も言い出せない。見えない手に、喉を締め上げられているようだ。


「出来ませんか。それじゃ、死ねって言ったら死ぬのかどうか、聞くだけ聞いてみてくださいよ」


 尚もシキは促す。

 それは死ねと直接命じるより、突拍子もなく思えた。

 確かにシキが聞いても答える義理はないが、想子からの明白な問いならば、九縄は口を割るしかないだろう。

 しかし。


「……そんなの、確かめた時点で命じてるのと同じでしょう」

「それも出来ませんか。なら次。動くな、でも構いません。動けなくなった九縄くんを、俺が一方的に殺します」


 言外に拒否されれば深追いはせず、微妙に方向を変えて攻める。

 その度に、提示される可能性は、より具体性を増していく。

 想子の返事は、やはり沈黙だった。

 まるで、その反応をある事として想定しておいたように、シキは特に落胆した様子も見せずに言う。


「ふうむ、全滅ですか。試すだけなんですよ。なんだってそこまで九縄くんを庇うのですかね」

「別に……庇っている訳では」

「まあいいです、それこそ言ってみただけですから。この類の極端な命令なんて、よっぽどガチガチの約束かわしてない限り、どうせ成功しやしませんし。そうでしょ、九縄くん」

「そうだな」


 気軽に問い掛けるシキに、今度は九縄も同意した。

 殺されると分かっていて、動くなという命令に従うはずがない。シキはそう言い、九縄はそれを認めた。

 何なのだ、このやり取りは。

 死ぬだの殺されるだのを扱っているにしては、あまりに軽々しい。こうしている次の瞬間にも、シキが肩を竦めてへらっと笑い、いやぁ冗談です姫、少しは涼しくなれましたか、とおどけ始めるのではと思える程に。


 ――いや、それは想子の願望か。


 かつてない事態が眼前に巻き起こりつつあるのを、想子は肌身で感じている。

 感情の衝突も、相手への殺意も、そこには無い。目の前に出された方法を、忠実に実行するだけ。

 こうした静かな形の殺しに、人は昔から名を与えている。

 処刑、と。


「俺がそこそこ真剣に、君の行動を見たり聞いたりしてて分かったのは、九縄くん、君には、ある程度までは自由意志による行動が認められているっつー事です。姫は人殺しにはなりたくないようですが、殺さなきゃ絶対に姫を守れないとなれば、君は命令無視して殺るでしょう。それだけ契約に柔軟性がある? ――いんや、違います。単純に優先順位の差ですよ、姫」


 君、と呼んだ九縄にシキは一瞥をくれると、あとは想子の目を見ながら話を続ける。外見に違わぬ穏やかな話しぶりは、生徒に講義でもしているようだった。

 九縄は先程から喋っていない。常人なら数回は殺されているであろう内容に、攻撃はもとより何ひとつ喋ろうとしない。

 無性に、九縄の姿を見たいと想子は思う。が、シキの瞳が振り向く事を許してくれなかった。


「君にとって、姫の命を守る事は、命令に従う事よりも優先される。そして、いついかなる状況においても、姫の命は、自己の命よりも優先される。主の命を服従の上位に置いて、見せ掛けの自由を与えた形……」


 一旦そこで言葉を切ると、シキは爪先で大雑把に、土に文字を書き始めた。

 逆側からだから見辛いが、判別する事はできる。


 ”姫>命令>=自分”


 ね、と、人差し指を立て、悪戯っぽく彼は話を結んだ。



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