第九話 6月:雨中の待ち人
第九話 6月:雨中の待ち人
今日は朝から雨だった。
たくさんの人が通っていく道も、いつもより寂しい。
その少ない人達の中に、探している姿はないかと一生懸命目を凝らす。
朝から晩まで頑張ったけど、今日も見付からなかった。
少し落ち込んで、細く鼻を鳴らす。
信号の明かりが、赤から緑に変わる。渡る人は誰もいない。
雨は、一日中やまなかった。
こんにちは。
ずいぶん久し振りに話しかけられたので、僕は驚いた。
こっちを見ながら話しているし、誰か他の人に話しかけたんじゃなさそうだ。
黙っていたら失礼だと思って、こんにちは、って返すと、その髪の長い女の人は、僕より驚いた顔をした。
言葉が分かるのですかと聞かれたから、うんわかるよ、と言ったら、ますます驚いていた。
他に誰もいなかったし、僕は得意になって、信号機の読み方なんかも教えてあげた。
女の人はなぜか少し上を向いて、喋るように唇を動かしていた。
ここでなにをしているのです?
最後に、そう聞かれた。
ひとをまってるんだ。僕はそう答えた。
今日はずっと曇っていた。
空気が重く湿っていて、ちょっと気持ちが悪かった。
晴れの日が続いている。
影がさす。前に誰かが立ったみたいだ。僕は顔を上げた。
何日か前に会った、あの女の人がいた。
こんにちは。
こんにちは。
あの日と同じ挨拶をした。女の人は少し俯いている。僕は首を傾げた。
まだ、まっているのですか。
そうだよと僕は答えた。何日も、何ヶ月も、ここで待ってるんだ。待っていなきゃ。
そうですか。
女の人はもっと俯いてしまって、言った。
でも、そのひとはもう、ここにはこないんじゃないかとおもいますよ。
どうしてそんな事を言うんだろう。僕は怒った。女の人はごめんなさいねと呟いて、横断歩道を渡っていった。
みどり、あお。空が青い。あかあおみどり。道路のねずみ色。ねずみ、小さな動物。
風の強い日だ。
みんな肩を狭めて、足早に過ぎ去っていく。
僕はその中に、探す人が混ざっていないかだけ注意を払う。
どこにいるのだろう。
どこにいったのだろう。
早く、見付かればいいのに。
そんなとき僕はふと、横断歩道の向こう側に立っている、小さな男の子に気がついた。
信号は赤。進んではいけない。自動車がすごい速さで走っていっている。
あぶない!
僕は思わず叫んだ。
止まっていた男の子が、とことこ危なっかしい足取りで、こっちへ向かって歩きはじめる。
すぐ側にいたお母さんらしい人が、慌てて後ろからその子を抱きとめた。
僕は、ほっと息を吐いた。
だめでしょう……ちゃん、なんて、お母さんが男の子を叱っている声が聞こえる。
しっかり見ていなかったのは、お母さんじゃないのかなあ。
待っていなきゃいけない人は、まだ通らない。
また朝から雨だった。
雨だと人が減るから、見張るのは楽になるけど、そのぶん見付けるのも難しくなる。
今日は特に人通りが少なくて、僕はすっかり退屈になっていた。
気を紛らわそうにも、信号機しか眺める物がない。
だからしかたなく、それを見ている。
赤、黄色、青。赤、黄色、青。赤、黄色、青。
こんにちは。
あ、と僕は声をあげた。
髪の長い女の人だ。傘をさして、相変わらず寂しそうに笑って、僕の前に立っている。
とにかく暇だった僕は嬉しかった。怒って別れてしまったのも、気になっていたんだ。おはなし、しよう。
ざんねんですが、おはなしはできません。
いそがしいの?
ちょっとがっかりして、僕は地面に伏せる。
おわらせにきました。
どういうこと?
僕はまた顔を上げる。
女の人は、目を閉じてしまっていた。
ひとをまつだけなら、よかった。けれど、ひとをさそうようになっては。
よくわからない事を、女の人は話している。
そこで僕は気が付いた。あれっと。女の人の被っている帽子が、浮き上がったみたいになっていて。
なんだろう、あれは。細長い、足?
いくつもの、黒く光る眼。
くじょう。
短い呟きが聞こえた瞬間、僕の体を斜めに何かが走り抜けていった。
ちょっと冷たいだけで、痛いとか痒いとかは感じなかった。
女の人が、道路が、灰色の空が、ぐにゃりと歪む。頭の中で考えていた事が、ばらばらになっていく。
だめだよ、ぼくは、まっていなきゃいけないんだ。
もう、またなくていいのですよ。
そんな声が、聞こえた気がした。
いつもなら怒るような言葉なのに、今はなんでか、ああそうなのかな、と思えた。
心残りだけど、どこかつかえが取れたみたいに、すうっと楽になった。
女の人の後ろで、見飽きた信号機の明かりが変わる。
赤から、緑へ。
赤は、とまれ。
緑は。
すすめ。
僕の目が、閉じた。
雨に濡れたブロック塀の前に、一輪の花が手向けられる。
想子は祈ろうとしたが、こういう時は何に祈ったらいいのか迷って、結局やめてしまった。
「つまらん事に力を使わせるなよ。犬の霊体如き、放っておけば良かろう」
「身体能力の拡大。更に言葉を話し物事を解し、あげく無意識に人間を”呼ぶ”ようになった。このままにしておいたら、いずれ悪い方向へ行きますよ」
「そうなったとしても知った事か」
「あなたにとってはね」
つい先程までそこに座っていた、散り散りになって消滅した存在を思う。
どういった理由で彼がここで死に、どういった理由で、誰を待ち続けていたのかは分からない。その人物が、遂に通り掛からなかった理由も分からない。分かる日は来ないだろう。
いろいろ考えられるが、どれも推測の域を出るのは不可能だ。
所詮自分は、通りすがりの他人なのだから。
「ただ待つ。その想いが、人を呼ぶ力に変じたのだとしたら――悲しいですね」
「強い願望が力を導く。我らには、ままある話さ」
感慨もなく、九縄は言った。
悪意の無い殺意は、非常に厄介なものだ。彼の願いを絶ったのが、間違いだったとは思わないが。
ごめんなさいね、わたしは人間だから、人間の側に立った利益を考えるしかないのです。
花は早くも雨に塗れている。数日あれば枯れ、腐り、小さな弔いの儀式は終わる。
丸い目で一心に道行く人々を見詰めていた、小柄で茶色いむく犬の姿を、想子はもう一度だけそこに描いた。
湿ったアスファルトの匂い。
分厚い雨雲の向こうには、濃密な夏の気配が広がっている。
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