第2話
僕の父、チチフォンスは、その巨体に似合わず、動きは信じられないほど慎重だった。
侍女のジージョの前に立つと、一度ゴクリと喉を鳴らす。
ホコリでも払うかのように自分の服の胸元をパンパンと叩く。
「……ジージョ、代われ」
野太く、威厳のある声。
「は、はい! 旦那さま!」
ジージョが、僕をそっと差しだした。
チチフォンスは、触れただけで砕けてしまいそうなガラス細工を扱うかのように、おそるおそる僕の下に手を差し入れる。
「おお……」
そっと抱き上げる。
僕の全身が、チチフォンスの巨大な腕の中にすっぽりと収まる。岩のように硬い筋肉の感触とは裏腹に、その腕は驚くほど優しく、安定していた。
「おお、おおおお! なんと、なんと、愛らしいのだっ!」
チチフォンスが、厳つい悪人顔を感動でくしゃくしゃにした。さっきまでの威圧感はどこへやら。その瞳は潤み、今にも喜びのあまり、泣き出しそうだった。
「見ろ、ママスティーナ! このぷにぷにした頬! この小さな手! すべてが! すべてが俺の心を鷲掴みにするぞ!」
「ええ、本当に。あなたに似て、とても元気な子ですわ」
ベッドの上で、ママスティーナが幸せそうに微笑む。
「うむ! 俺に似て、この凛々しい眉! 将来有望な目つき! 間違いなく俺の息子だ! 将来きっと、俺そっくりに育つぞーっ! うおおおおおっ!」
いや、どうせ育つなら、厳つすぎる悪人顔の巨人より、超美人の母親似がいいんだけど。
チチフォンスは、自分のゴツい人差し指を僕の小さな手のひらにそっと押し付けてきた。
僕は思わず、反射でそれを握ってしまう。
「おおおおっ! 握った! ママスティーナ、見たか!? 今、俺の指を握ったぞ! なんという力強さだ! やはりこいつは我が息子! 将来、万の騎士を率いる最高の将軍になるぞ!」
「ええ、ええ、わかりますわ。本当に頼もしいですわ!」
ふたりで、大騒ぎだ。
この夫婦、大丈夫か……?
なんだよ、この親バカっぷりは……。
「よし! 我が愛息よ! 父の顔をよーく見ておけ!」
そう言って、チチフォンスは自分の顔を僕にぐいっと近づけてきた。
ザラザラした黒髭が、僕の柔肌に触れる。
「オンギャー!(痛い!)」
「むっ!?」
僕の泣き声に、チチフォンスの動きがピタリと止まった。
「チチフォンス、髭をいたがっているのよ!」
「な、なんと!?」
彼は自分の顎をさすると、雷に打たれたような顔で叫んだ。
「これは、しまった!」
「あなたの髭は、鋼鉄のように硬いんですもの。赤ちゃんには危険だわ」
どんな頑丈な髭だよ。
「くぅ……。俺の髭が、息子の玉肌を傷つけてしまうところだった! なんという大失態! おい、誰かいるか!」
「は、はい! チチフォンスさま!」
扉の外で控えていたらしい執事が、慌てて部屋に駆け込んできた。
「今すぐ! 城で一番腕の立つ理髪師を呼んでこい! 俺の髭を剃る! 息子と触れ合うのに、こんな邪魔なものはいらん!」
「は、はあ!? 辺境伯の武威の象徴たるお髭をですか!?」
「やかましい! 息子のすべすべほっぺに比べれば、武威など塵芥に等しいわ! 急げ!」
「ははーっ!」
執事が嵐のように去っていく。
「ふふ、あなたったら。相変わらずですわね」
ベッドの上で、ママスティーナがくすくすと笑っている。
「しかし、ママスティーナ! この感動をどう表現すればいいのだ! 天にも昇る気持ちとはこのことか! そうだ! 祝宴だ! 領民すべてを集めて、三日三晩続く大祝宴を開くぞ! それから、我がヴァレンシュタイン辺境伯領の税を、今年一年はすべて免除する!」
「まあ、気前がいいことね。民も喜びますわね」
「当然だ! この喜びは、皆で分かち合わねばならんぞ!」
……どうやら僕は、とんでもない家に生まれてしまったらしい。
母親は絶世の美女で、たぶん心優しい聖女タイプ。
そして父親は、見た目、世紀末覇王レベルの超悪人顔。だが、中身は超弩級の親バカだ。
ヴァレンシュタイン辺境伯……、か。どうやら僕は、貴族に生まれたようだ。辺境伯ってかなり偉いんじゃなかったっけ?
「そうだ、名前を決めなければな」
チチフォンスが、真剣な顔で腕の中の僕を見下ろした。
「我がヴァレンシュタイン家に生まれし長男に相応しい、勇壮で猛々しい名前を……。よし、決めたぞ! 『ギガンテス・フォン・ヴァレンシュタイン』! どうだ、ママスティーナ! 神話の巨人の名だ! 力強くて良いだろう!」
「まあ、あなた、さすがに、いかめしすぐますわ。もう少し、優しげな響きがいいと思いいますわ」
「むう……。では、『バルバロス』はどうか! 『蛮族の王』という意味だ! 敵が恐れおののくぞ!」
「もっと可愛らしい名前がいい、と申しておりますの」
ママスティーナが、にっこりと、しかし有無を言わせぬ圧力で微笑む。
「う、うぐぐ……」
あれだけ威圧感のあったチチフォンスが、妻の笑顔の前ではタジタジになっている。どうやらこの家の力関係は、ママスティーナが上らしい。
「実は、わたくし、考えてきた名前があるのです」
そう言って、ママスティーナは僕の頬を再び優しく撫でた。
「この子の名前は、『ナラク』。……ナラク・フォン・ヴァレンシュタイン。いかがかしら?」
ナラク……か。悪くない。ギガンテスやバルバロスより百万倍マシだ。
「ナラク……」
チチフォンスは、その名前を何度か口の中で転がすと、やがて、嬉しそうに頷いた。
「良い名だ。ママスティーナが決めたのだからな。よし、今日からお前はナラクだ! ナラク・フォン・ヴァレンシュタイン! 我が息子よ!」
こうして、生まれ変わった僕の名前は決まった。
前世の記憶は、まだ鮮明だった。
僕のために命を落とした忠実な使用人たちの顔。
僕の千年王国を土足で踏みにじった、あのクソガキどもへの怒りは、まだふつふつと僕の胸の中で煮えていた。
この腕の中に感じる温もり。僕を見つめる優しい眼差し。
今度こそ、守り抜きたい。この温かい世界を。僕を愛してくれる人たちを。
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