時を越えて咲いた桜

猫戸針子

時を超えて咲いた桜

履き慣れた草履の砂を擦る音だけが耳に入る。


鬱屈とした気持ちを一人散歩で紛らわしている赤塚葉子は、突然の雨に空を見上げた。ぽつりぽつり、次々と顔に落ちてくる水滴に目を閉じる。

重い気持ちを切り替える為に散歩に出てみたものの、秋時雨に出会ってしまったのだ。次第に強まる雨が着物の袖を重くする。

このまま濡れそぼって歩くのも今の自分にはお似合いだ。そんな思いが過ぎるものの、寒さは普通にやってくる。冷えゆく体を引きずるように何となく歩き出すと、通り過ぎざまに大屋敷の門が視界に入った気がし、立ち止まる。


こんな所にこんなに立派な門構えの屋敷があろうはずがない。慣れたこの道のことならば良く知っている。恐る恐る見渡すと、次の道まで広く囲われているのが分かり、気味が悪い。

葉子は踵を返そうとした。


「娘さん、そんなに濡れては風邪を引いてしまいますよ。早くお入んなさい」


戻ろうとする葉子の肩口に、すっと薄い影が重なる。打ち付ける雨音が頭上に響くと同時に、柔和な女性の声が右からやってきた。傘を差し出されたのだと気付き声の主を見やると、すぐ隣に母と同じ年頃の、品の良い女性が微笑んでいた。


「ありがとうございます」


礼を言いはしたが、葉子の胸にじわりと小さな違和感が湧く。

あまりに自然に傍らに立つ女性は、今自分の右側にいる。堅く閉じられた門の前に、だ。雨に気を取られて目を離す前まで、両開きの重そうな門が開く音だって、ひとつも聞いていない。それに、閑静なこの通りには、人っ子一人いなかった。

ではこの女性は一体どこからやってきたのか。


「くしょんっ」

「あらあら、大変。さあ、早くこちらへ」


女性は本当に心配してくれている様子だ。葉子はほんの少しでも疑ってしまったことを申し訳なく思い、心遣いを有難く受け取ることにした。

促されているのは門の中。やはり家人だったのかと思いつつ、ざわりとした心地はどうしても拭えない。が、門から覗く屋敷は大変趣がある。なぜか惹かれるものがあった葉子は、急かす女性に誘われるまま中へと入り門から続く石畳を踏んだ。

庭師がいそうな構えであるのに、下男の一人も見当たらない。だが、雨が降ったからであろうと深くは考えず、引き戸が開いたのを見ると、雨の冷たさから逃れるように急ぎ扉をくぐった。


屋敷に入り、湯を使わせてもらった葉子は、すっかり温まった体に、替えの着物をあてがわれた。それは彼女が着ていた物と寸分変わらぬ物であった。

ここに自分と同じ年頃の娘でも住んでいるのだろうか。それにしてはあまりに人の気配がない。奇妙に思いながら、案内される屋敷を無作法ながらも密かに伺ってしまう。


「ここはね、あなたの想いが作る屋敷なの」


葉子を床の間に通し、茶を出す女性はふわりと微笑み不可解なことを言う。

どういう意味かと尋ねようとしたその時、突然部屋の明かりが消えた。


「あの、もし……」

「え?人?!」


女性に尋ねようと声を出すと、若い男の声が重なり、明かりが灯る。

彼は秋に外を歩くには軽すぎる浴衣姿で、手には黄色い物を大事そうに持っていた。



***

束咲つかさは夏祭りの最中、友人とふざけてバナナの皮を神社の境内に仕掛けようとしていた。漫画やアニメでは、よくバナナですっ転ぶシーンがあるが、本当にそんなバカがいるのだろうかという話になったのだ。

そしていざワクワクとしながらバナナの皮を剥き始めた途端、見たこともない場所にいた。


「へ?なにこれ……」


皮を剥いたバナナ以外は何も持たぬ状態で、どこを歩いても畳かばかりのだだっ広い和室。


「想いの形になるってなんだよ…。転生物とかだったら冗談じゃないっての!」


あらゆる可能性が頭をぐるぐると回るも、何一つ分からない。この場所に転送?された時、束咲の耳の奥に響いた声の主すらいない無人ぶり。

頭がおかしくなりそうになりつつヤケクソで何枚目かの襖を開けると、驚愕でバナナを取り落としそうになった。

茶を飲んでいたらしき着物の女の子が、驚いた顔を束咲に向けていたのだ。



***


葉子は突然現れた簡素な浴衣を着ている男に驚きながらも、身なりの良さから門で出会った女性の息子であろうと考えた。


「失礼しております。突然の雨で濡れてしまいまして。お着物をお借りした上に休ませて頂いておりました」


男と言うよりは少年と言って良いあどけなさだ。自分より年下であろうが、声変わりしているあたり、年が近いのだろう。そう思いやや距離を置きがちに声を掛けてみた。



束咲は女の子の言っている意味が理解出来ず混乱した。とりあえず非常食にと取っておいたバナナは落とさずに済んだが、茶があるということは水もあるはず。

散々彷徨って喉が乾いて仕方がない。


「あの!そのお茶下さい!」


挨拶もせずにバタバタと座りテーブルに手を付き深々と頭を下げ頼み込む。女の子がおずおずと茶碗を差し出すと、勢い込んで受け取り、一気に飲んだ。


「あつ!」

「淹れてもらったばかりですもの。ゆっくりお飲みくださいな」


ふふっと笑う優しい声の女の子は、古風な喋り方だ。束咲はお嬢様っぽいなぁ、と気になりながらも、ふーふーと冷ましながら茶をゆっくりと飲む。少し気持ちが落ち着いてきた。


「はあ、生き返った。散々歩いて誰もいなかったからどうしようかと思ってたよ。君はここの人?」


言葉を交わせる人がいたことへの安堵と、温かい茶で幾分スッキリとした咲は何気なく尋ねた。だが女の子は怪訝そうな顔付きになる。


「あなた、ここの家の方ではありませんの?」

「全然違うよ。むしろここがどこか知ってれば教えて欲しいくらいだし」



***


ここがどこか……葉子も正体の知れない大屋敷ということしか言いようがない。互いに何も知らないと言うのもおかしなことと思い、葉子は急ぎ座敷の戸を開け人を呼んだ。


「もし、どなたかいらっしゃいませんか」


声が響いただけで彼女を招いた女性すら現れない。


「どういうことかしら。ねえ、あなた。私よりここを知っている様子だけれど、この屋敷は一体何ですか?」

「俺もほとんど知らないし。あー、敬語なんて良いよ普通に喋って」

「ふ、普通…」

「うん。じゃあさ、こっちの話からして整理しようよ」


束咲は辿り着くまでの経緯を説明した。そして話を聞いた葉子は当然頭が混乱した。

夏祭り?神社?バナナの皮?

少年が持っているのは時折輪切りで女中が出す白い果物のことだろうか。名は同じだが気味の悪い黄色い物は何であろう。いや、令和とは?いやいやそんなことより彼の苗字……。


「あのさ、さっきから気になってたんだけど、その着物暑くない?」


いや、逆だ。と束咲は思う。ここに来て自分の方が肌寒いことに気付く。茶も温かいと感じた。夏のはずなのに。

片手で肌を摩っていると、女の子は少し待ってと立ち上がると、襖を開け出てしまった。束咲はまた一人になる不安にかられたが、襖の向こうで布が動く音が聞こえる。


「はい、こんなものだけれど肩に掛ければ少しは暖かくなるわ。その…あなたの話ではいつ出られるか分からないから。はしたなかったらごめんなさい」


戻ってきた女の子は帯を解き束咲に掛けた。着物は帯の中にも帯みたいな物があるのか、とぼんやり考えながら、彼女のことを一切知らないことに束咲は気付く。


「はしたないなんて全然!ホント寒かったからすっごく助かったよ。あ、そうだ。君の名前を聞いても良い?」


葉子は名を聞かれ躊躇った。愁志野と聞いた時、つい先に縁談をした相手の縁者であると考えたのだ。その相手もこの苗字は自分の家系しかない珍しい物だと自慢していた。


「桜子」


咄嗟に嘘を付いてしまった。


「桜子さんかあ。子が付くなんて珍しくて可愛い名前だね」

「あなたの方が珍しいわ。綴りなんて見たこともないし」


ちぐはぐな会話に、束咲は桜子と名乗った女の子について状況確認の為の情報収集という体で様々に質問してみた。そんな回りくどい言い方をしなくても良かったのだが、普通に聞いてはあまり教えてくれないような気がしたのだ。


「昭和12年?!」

「そうだけれど、あなたの言う令和と言うのは地名なの?」

「違うよ!令和は元号ってやつ。昭和と同じだから、えーっと……」

「天皇陛下が代替わりなさった、という事ね」

「え…順応はや……」


葉子は自身の名前以外は偽らずに話していた。先に束咲から聞いた話や、時折呟く外国語らしき言葉。文化の違いか田舎から出て来たのかと考えていたが、時代が違うと考えれば納得することが多い。バナナも気味の悪い形に変貌しているのもそのせいだろう。


「バナナはこれが元々だって」

「嘘おっしゃい!そんな気味の悪いブヨブヨとした黄色い物体は見たこともないわ」

「だったら食べてみればいいだろ」


束咲は半分に折ってわざと皮の付いた方を渡す。

葉子は皮の付いていない方を無理やり受け取った。大人しそうな顔して案外気が強いな、と束咲は溜息を吐くも、茶を渡してくれたり、帯を解いてまで自分を気遣ってくれた彼女は、心優しいとも思った。

いつ何が起きるか分からないこんな状況なのに。


「バナナだわ…」

「だから言ったじゃん」

「甘くて美味しい!」


我知らず顔が綻んでいた事に気付いた葉子は、ここに来た折の鬱屈とした思いが、いつの間にか晴れていることに気付いた。


「ねえ、もっと屋敷を探してみてはどうかしら。私はお風呂にも入ったし、廊下からは外が見えていたの」


なぜかバナナを食べようとしない束咲を見て、恐らく食糧として確保しているのだろうと考えた葉子は、貴重な物をくれた少年の親切心が胸に染みた。孤独ではない。そんな想いが秋雨で冷えた胸を温める。


葉子の提案で、二人はとりあえず風呂場へ続く廊下の襖を開いた。


そして二人は唖然とする。


「あれ、春?」


廊下の硝子戸越しに広がる庭園には、大きな桜の木が満開の花をつけていた。


「雨も降っていない……」


もしや名を桜子としたからか。それが想いの形ならこの少年は一体…。


「とりま外出てみない?」

「鳥間?」

「とりあえず、って意味ね」


並び立つと意外に背の高い束咲が廊下の硝子戸を開く間、葉子は外の景色に魅入っていた。薄紅の優しい桜。趣きはあれど、どこか陰鬱だった庭園は、喜びに満ち溢れる春の陽射しに照らされている。


外には二足の下駄が用意されていた。どう見ても大きさが違う。もう驚くのも疲れた束咲は大きめの方を履くとピッタリだった。そして周囲を見渡すとすぐ傍の物を見て歓声を上げる。


「井戸ってやつかな?これで水源確保!」


得意げに半分になったバナナを掲げる束咲にクスクスと笑いながら、葉子も外に出る。ひらりひらりと桜の花びらが舞う。


「帰りたくない……」


桜の花びらを手に取り葉子はぽつり呟いた。

束咲は先ほどの情報収集で、彼女から聞いた身の上話に、どうしようもない怒りに似た感情がくすぶっていた。まだ17歳なのに、無理矢理結婚させられることが決まり、絶望していた彼女。そういう時代だと頭で分かっていても、到底納得できるものではなかった。


「帰らなきゃいいじゃん」

「え?」

「俺の家そこそこ大きめだし、桜子さん一人くらいなら住めるよ?ちゃんと親にも話してみるし」


問題は何かとある。だが、自分が令和からここに来れたのなら、桜子だって向こうに行けるはずだ。


「家の都合で好きでもない人と結婚なんて、そんなの間違ってる!」


勢い込んで言うと、一瞬驚いた桜子の顔が泣き笑いに変わってゆく。束咲は力強く手を差し出した。


「一緒に行こうよ」


だが、桜子はゆっくりと被りを振りそっと束咲の手を押し戻した。


「あなたに出会えて良かった。もしかしたら…私はあなたの縁者になるのかもしれない。そう思えてきたの。直接会うことは叶わなくても、あなたみたいな面白い人がいつか……」

「桜子さん?」


泣き笑いする桜子が桜吹雪の中でどんどん霞んでゆく。


「私の名前は赤塚葉子。葉っぱに子供の子。結婚する人は愁志野さんだから、もし帰ったら私を探してね」


手を伸ばした束咲は突如強い光に包まれた。何も見えなくなり桜子の声だけが耳に届いた。



***


「おい、束咲!」

「ん?あれ?」

「いきなりぼーっとしたから何かと思ったわ」


気付くと神社の前。友人が自分の顔を覗き込んでいた。手を見ると半分のバナナが握られており、肩に掛けていた桜子……いや葉子の帯は消えていた。


「俺一人で戻ってきたんだ…」


友人から、束咲はほんの少しぼんやりしただけだった聞き、思わずスマホを見る。屋敷で過ごしたあの時間が嘘のように、画面はさっき開いていたSNSの"今″を淡々と映していた。

周囲の喧騒が耳に入ると、段々と頭が日常に戻り、あれは白昼夢でも見たのかと思えてきた。しかしそれでも、頭の中にはずっと桜子の表情や声が鮮明に残っている。


束咲はブンブンと頭を振り、気を取り直して予定通り友人とバナナを仕掛け、待機する。

大した収穫のないまま家に戻ると、母と祖母がアルバムを開き賑わっていた。普段は興味なく部屋に直行するが、何となく覗いてみて驚く。


「桜子さん……」


モノクロの写真には赤子を抱えた桜子が写っていた。


「おや、つかちゃん。これはね、おばあちゃんが産まれた頃の写真だよ」

「ばあちゃん!その写真の女の子誰?名前は?」

「気になるなんて珍しいね。この人は……」



***


夏の日差しが強まる前の朝方、葉子はのんびりと庭の手入れをしていた。

齢100も近ければあちらこちらにガタが来る。この年齢で頭も体もピンシャンとしているだけでもありがたいことだ。


ふと自転車の音が聞こえた。近所に住む娘家族がひとり暮らしをしている自分を良く訪ねてくる。年頃の曾孫はさすがに来なくなったが……そろそろその時だろう。


家の前で自転車が投げ出される音が聞こえ、葉子はゆっくりと庭の花から顔を上げる。

こちらに駆ける人影が徐々に葉子へ近付き、目の前に立つと肩で息を切らした。


「桜子さん、だよね」


葉子は、皺の刻まれた顔を柔らかく綻ばせた。




~完~

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