虚偽のコール

名暮ゆう

本文

 ……中学生の頃は、学校のテストが返却される度に一喜一憂した。

 何点取れたかな、順位はどれくらいかな――地味な僕がクラスで少しでも存在感を放つためには、ある程度の順位を取る必要があった。


長柄賢爾ながらけんじ

「はいっ」


 返事をした拍子に舌を噛んでしまう。それは試験の結果を暗示するかのような痛みで嫌になる。

 西日が眩しい窓際の席から逃れるように立ち上がって、担任から成績表を受け取る。緊張からか、両手が震えていた。


「……頑張ったな」


 労いの言葉をよそに成績表に食いついた。

 そこには94点や89点といった高得点が次々と並んでいて、学年順位は4位だった。

 ……よかった、前より良くなってる。

 悪化する気配があったので、良い意味で予想を裏切る結果に思わず溜め息がこぼれた。


「――ケンジ、どうだった?」


 背後から僕を呼ぶ声がして、咄嗟に成績表を隠した。

 振り返ると、成績表を片手に正司礼奈しょうじれいなが笑みを滲ませていた。その笑みには、ある予感を現実のものにするような気配があって、それまでの喜びが洗い流されるような喪失感に襲われた。


「ま、まあまあ。礼奈は――――?」

「うんっ」


 周囲からは見られぬように、それでも僕にはしっかり見えるように成績表を向けてくる。五教科のうち三教科で100の数字が記されていて、残りの二教科も片手で数えられるほどの失点だった。


 クラス内順位は1位、学年順位も1位――また、負けた。


「今回あんまり感触がよくなかったから、ほんとによかった」

「そ、そっか……おめでとう」


 言葉の一つひとつも、仕草も、彼女に負けた人間としては全てが残酷で、喉に詰まって、息苦しくて、賞賛の一言を送るのがやっとだった。

 彼女は自慢をしたり他人を蔑んだりするタイプではないので、言葉に悪意がないことは分かる。それでも、今の僕にとってその言葉は実力差を痛感するには十分すぎるほどのもので、辛い食べ物を一気飲みする方がマシだった。


 ……彼女に負けたくなくて勉強を頑張ってきた。

 授業中も、休憩時間も、家でも、寝る間を惜しんで勉強を続けている。

 それでも僕は、彼女には勝てない。中二の後期になってから、以前とは非にならないほど授業内容が濃くなっている。理解するのがやっとな部分もあって、そういう意味では最善を尽くした点数なのだ。

 それなのに……礼奈は平気で満点を取ってしまう。


「……礼奈はどうやって勉強してるの?」

「えっ? 授業の予習復習と配布されたワークが基本だけど…………」


 礼奈は肩にかからない程度に伸びる髪を掻きながら、何かを思い出すように天井を見上げていた。


「あっ、そういえば英語の単語帳を買ったよ。ノートに書くより、たくさん読み込んで数をこなした方がいいんだって!」


 彼女は僕を手招きすると、自分の机から単語帳を引っ張り出した。

 分からない単語がいくつもあるのだろう、一見するだけでは数えきれないほどのピンク色の付箋が単語帳から顔を覗かせていた。

 僕が持っていない物。一見するだけで想像できる勉強量。

 彼女も、見えないところで努力をしているんだ。


 ――僕と同じか、それ以上に。


「ホームルームの途中だぞ、あんまり騒ぐな」


 テスト返却が終わったのだろう、担任の注意が教室内に響き渡った。僕らもそこで会話を終えて、席につく。

 どんなに蓋をしたところで、一度煮えたぎってしまったものは簡単には治まらなくて、礼奈と同じ単語帳を買ってみよう――そんなことを考えて気を紛らわせた。


   *


 路面凍結に備えて父親の車のタイヤ交換を手伝った次の日のこと。

 教室前に置かれたストーブに男子が何人かたむろしていたので、暖を取る口実に寄っていく。

 内々に話し合っている様子だったので、近づくと嫌な顔をされたが、そのうちの一人、冴木さえきが何か思いついたように眼鏡をくいっと中指で押した。


「長柄くんもやる?」

「なにを?」


 その五文字は、禁断の言葉だった。

 えっ――右頬が強ばった。もっと静かに話せと、庭田にわたが肩に手を回してくる。


「来週、期末試験でしょ?」

「う、うん」

「そこで教師の目を盗んでカンニングしようって話」


 何故そんなことを……理由が分からなくて、小声で聞き返した。


「――決まってんじゃん、だよ」


 ……どこか面白そうなんだ。

 もしバレてみろ、どんなに良い点数を取ろうとテスト結果は無効になる。成績は下がり、内申書にも響いて、周りからの評価も悪くなって……悪いこと尽くめじゃないか。


「やるだろ、長柄?」


 首に右腕を回して逃げられないようにしてきたのは、柔道部の庭田だ。教師に対して何かと反抗的な彼だ、カンニングに乗り気な点も頷ける。


「でも、カンニングは悪いことで……」

「は? ノリ悪」


 あっ――庭田の言葉を聞いて、やってしまったと思った。

 すぐに息苦しくなって、数秒後には呼吸できなかった。

 僕の首を右腕で絞めつけているのだ。


「だめだよ庭田くん、長柄くんでも死んじゃったら面倒だよ」


 ……それがどんな意味であれ、冴木の一言で気道が確保できた。


「はっ、はあ、はあ……」


 僕はその場で屈んで大きく息を吸った。

 大丈夫、生きてる…………。


 庭田は気に入らないことがあるとすぐ暴力に走る癖がある。以前、彼の機嫌を損ねてみぞおちを殴られたことがあった。あの時は痛かったなぁ……同じことをもう一度されたらと思うと反射的にお腹を守っていた。


「長柄くんは真面目過ぎるんだよ」


 冴木はクスッと笑みを浮かべると、僕に手を差し伸べてきた。彼が普段から何を考えているのかは分からないが、悪知恵だけはよく働く。庭田を筆頭にクラス内で喧嘩や揉め事が起きる時、大抵の場合バックに冴木が隠れている。

 そんな二人でも、周囲からは高く評価されている。自然と周囲に人が集まってきて、笑顔があふれている。


 ……僕とは、違って。


「長柄くん、よく聞いて」


 冴木は僕と庭田の間に割って入ると、耳元で囁いた。


「カンニングは一つの手段だ。少しでも点数を伸ばすために行うものだよ」

「……でも、本当の実力じゃないよ」

「実力なんてどうだっていいんだよ。テストは結果が全てってよく言うでしょ。どんなに勉強を頑張ったところで、点数が取れなかったら意味がない。長柄くんだって、一度くらいはそう思ったこと、あるんじゃない?」


 冴木の言葉は地獄への誘い――分かっていても、彼の言葉には思わず頷いてしまうような、そんな現実感があった。

 礼奈に勝ちたい。勝って悔しがる顔が見たい。いつも悔しいのは僕の方だ。彼女にだって、ライバルに負けて悔しいという気持ちを味合わってほしい。もし一つでも多く点数を取れる手段があるなら――すがりたい。


「……大体、どうやってやるの?」

「カンニングペーパー」


 僕の問いかけに対して、冴木はポケットから消しゴムほどの大きさの紙を取り出すと、ニヤリと笑った。


「ここに出題されそうなことを書けるだけ書いて、バレないように見るって算段。長柄くん、ここまで来たら君も共犯だからね」

「えっ」


 冴木は僕に一枚押しつけると、そう言った。


「もし裏切ったら、君が正司さんでエロい妄想してたって言いふらすよ」

「な、なんで……!? 礼奈は関係ないでしょ!?」

「へへへ、長柄お前顔真っ赤。まんざらでもないんじゃね?」


 庭田が嘲笑うような笑みで僕の背中を叩く。ジンジンと燃えるような痛みが走る。対する冴木は眼鏡の鼻を押すと、やはり笑みを浮かべていた。悪いことを考えている時の顔で、庭田とは違う凄みがあった。

 もし裏切ったら、本当に言いふらされる。

 このメンツなら、やりかねない。

 それだけは勘弁してほしかった。


「……わ、分かった。やるよ、僕も」

「よーし」

「長柄ぁ、見直したぜ」


 渋々受け入れると、歓迎の声が静かに上がった。

 嫌な汗が背中から噴き出して、今すぐここから逃げ出したかった。そんなことはお構いなしに、冴木は音頭を取る。


「いいかい、みんな。くれぐれもしみじみやろう。バレたらそこでゲームオーバーだからね」

「おう」

「……う、うん」


 ……絶対にカンニングなんてしない。

 たとえ、それで点数が上がろうとも。


 ストーブ前の盛り上がりとは裏腹に、僕はそう決心していた。


   *


 空が橙色に染まった頃。

 普段なら掛け声が絶えないグラウンドも、今日はボールが一つも落ちていない。テスト期間に突入して、皆の意識が勉強に集中している中、僕は筆箱から顔を覗かせる付箋のことで頭がいっぱいだった。


「……どうしよ、これ」


 捨てたら捨てたで後々面倒なことになりそうだし、かと言ってカンニングに手を染めることは良心が痛む。ひとまず、庭田と冴木から問い詰められた際にその努力はしたと言い返せるよう、教科書の隅に書かれている英文法をいくつか付箋に写した。


 ……こうして、立派なカンニングペーパーが出来上がってしまった。


 やっぱり、ダメだよなぁ――そう思い直して、再び筆箱にしまう。どうせこんなところ、テストには出ない。だから書いたって仕方がない。僕はカンニングなんてしない。したところで意味がない。そんなことをするくらいなら、提出期限の近いワークに鉛筆を走らせる。


『テストは結果が全てってよく言うでしょ』


 ……どうしてこんなにも心臓の音がうるさいのか。

 手が止まって、筆箱から再びカンニングペーパーを取り出した。


『どんなに勉強を頑張ったところで、点数が取れなかったら意味がない。

 長柄くんだって、一度くらいは――――』


 ……一度どころか。

 礼奈と出会って、勉強を意識するようになって、常々彼女の後を追ってきた。

 いつか必ず、彼女に勝つ。

 そう意気込んだこともあった。

 ……それから僕は一度でも彼女に勝ったことがあったか。寝る間を惜しんで勉強して、少しでも高い点数が取れるように努めて、心置きなく満足したことがあったか。


『カンニングは、一つの手段だよ』


 冴木の囁きが思考の奥底で鳴っている。

 次第に大きくなって、僕の手を走らせる。

 これで少しでも、高い点数が取れたら。

 そんな馬鹿みたいな願い。

 不正とズルで簡単に形容できること。

 それなのに、一度書いたらその気になってしまって――――。


「――はじめ」


 試験当日、開始の合図とともに開いた1ページ目。

 僕はすぐさま試験監督を見た。

 彼が立ち上がって、僕の机よりも少し後ろまで歩いていった瞬間。

 左手に隠し持っていたそれを静かに覗いて、解答用紙に鉛筆を走らせた。


   *


「次、長柄」


 呼ばれる頃には、席を立って教卓に向かっていた。


「……おめでとう!」


 担任が笑みを浮かべながら成績表を手渡してくる。心臓がバクバクと鳴って五月蠅い。受け取る手は震えていた。唾を飲み込んでから中身を確認する。

 四教科で98点の文字が並ぶ。英語は100点だった。

 そして、クラス・学年ともに1位の文字。


 ……やった。


 …………やったんだ。


 手が力んだ拍子に成績表の端がしわになった。飛び跳ねたい気持ちを抑えて席に着く。今までの苦労が全て報われたような感覚だった。

 取りたいと願ったもの。

 勝ちたいと意気込んだもの。

 礼奈のようになりたいって、羨んだもの――。


 それが今、目の前にあるんだ。


「――ケンジ、一番だった?」


 背後から刺すように飛んできた言葉で、全身を駆け巡る熱が急速に冷えた。


 僕はどうしてこの点数を取れた?

 何故、学年一位になれた?


 ……彼女にだけは見られたくないと思って成績表を背後に回したが、彼女は僕の成績表を強引に奪い去ると、バサッと音を立てながら見開いた。

 礼奈らしくない行動だった。


「なんだよー、もう少し喜んだらどうなのー?」


 普段よりも高い声で言いながら、彼女は僕を揺さぶった。


 ――それまで積み上げてきたものが、途端に崩壊した感じがした。


 僕が一位を取った。

 彼女から一位を奪った。


 どうやって?


 フラッシュバックする。

 テスト中、監督の目を盗んで書き込んだ英文法。

 消しゴムくらいの大きさをした付箋。

 帰宅してから勉強机の引き出しに突っ込んだもの。


 ――カンニングをした。


 僕は、カンニングしたんだ。


 だからクラス内一位になって、礼奈に勝った。

 実力じゃ決して得られなかった栄誉。

 誰もが一度は羨む冠。

 それを僕は、カンニングで勝ち取ったのだ。


「……次は、負けないからね」


 引き攣った頬が、揺らぐ瞳が左胸を強く打った。


   *


 受験生になった僕らは、今まで以上に勉強に取り組んだ。


「長柄くんー、今回も一位?」

「……う、うん」

「すっごーい! これで何回目?」

「六回目くらいかな……」

「前は礼奈ちゃん一強だったけど、今は長柄くん一強だよねー! あっ、今度勉強教えてよ!」

「…………う、うん」


 あの一件以降、僕はテストでずっと一番を取り続けている。学内で一番の栄誉を受け続けている。一位という分かりやすい指標で誰もが興味を持ってくれる。褒めてくれる。学年一位の長柄賢爾を、認めてくれる。

 そこにからくりがあるなんて知る由もなく。


「うわあ、また負けた……」


 礼奈の一際大きな溜め息に、僕の口元は緩んでいた。

 慰めるどころか、彼女の傷口を抉るような話題を振った。


「でも今回難しかったよね。特に英語! 単語とかどうだった?」

「…………あんまり。三年生になってからほんと苦手になっちゃった」


 嘆くような一言で彼女の表情から笑みが消えた。それからしばらくは一つ結びの髪を触りながら、自分の成績表を眺めていた。

 昨冬までは肩にかからない程度だった髪の長さも、今では背中にかかるくらいまで伸びて一つ結びにしている。……彼女を眺めているうちに口内に唾が溜まって、一気に呑み込んだ。


「ねえ、ケンジくんはどうやって英語の勉強してるの?」

「そりゃあ――カン」


 そう言いかけてすぐに口元を塞いだ。心臓が跳ねるように脈を打つ。

 どうにか軌道修正をしようと、しどろもどろになりながら言葉を続けた。


「そ、そりゃあ、単語と熟語と文法を叩き込んで……」


 背中に爪楊枝を押しつけるような痛みが走る。

 理由は、分かっている。しかし、それは口が裂けても言えない。

 彼女が首を縦に振るまでどうにか話を繋げた。


「そっかぁ…………やっぱり、もっとやらなきゃだね。頑張ろ」


 勉強に辟易する様子を一切見せず、彼女は握り拳を作りながら自分を奮い立たせていた。その姿勢は、あの日悪事に手を染めた僕には理解できないものだった。


「……礼奈はどうして勉強を頑張るの?」

「えっ――」


 また気まずい状況になるわけにはいかないと思って、先に話題を出した。彼女も、そんな問いが飛んでくるとは思わなかったのだろう、普段の声からは想像できない甲高い疑問とともに眉が寄っていた。

 ……恥じらいが生まれたのか、咳払いをすると、今度は笑みを浮かべていた。


「だって、じゃん」

「たの、しい?」


 頭をたらいで殴られたような感覚で、思わず首を傾げてしまった。


 「私さ、九歳まで入退院を繰り返してて、あんまり学校に行けてなかったの。だから学校で勉強するっていう行為に一種の憧れがあって。こうやって健やかに勉強できる今がとっても楽しいんだよね。それに……ライバルも、いるし」


 人当たりがよく、はきはきとした性格からは想像もできない過去だった。

 そして、微かに聞き取れたライバルという言葉。礼奈は僕を見ていた。


 ……それなのに、僕は。

 ズルと理解していながらカンニングがやめられない。順位を落として自分が傷つくビジョンが、礼奈の喜ぶ姿が浮かんでは、切っても切り離せないプライドが邪魔して、再び手を染めてしまう。

 得られるのはほんの少しの安堵だけ。それ以上に心身が疲弊する。

 もうだいぶ睡眠時間も削られている。

 僕に悪事は向いていないのだ。


 ……大きく深呼吸して顔を上げる。礼奈の表情は明るかった。彼女はきっと勉強に対する後ろめたさなどないのだ。むしろ、次こそは勝つ――そんな前向きな心意気が垣間見えた。


 正司礼奈と僕は、根っこから異なっている。


 それまで抱いていた後ろめたさが馬鹿みたいに思えた。

 テストは結果が全て。

 しかし、どれだけカンニングに走ろうとも、彼女には勝てない。

 意味がないのだ。


「……次のテストも、負けないから」

「望むところよ!」


 今度こそ実力で勝負しよう――決意を示すために、右手を差し出した。

 かえってきた手は僕よりも温かくて、湿っていた。


   *


「長柄。放課後、職員室に来なさい」


 担任から呼び出しがあったのは、それからすぐのことだった。

 喉元がキュッと締めつけられた。嫌な汗が噴き出る。心臓の高鳴りが抑えられない。今まで上手くやってきた。何度やってもバレなかった。もうやらないって決めた――そもそも、呼ばれた理由がカンニングとは限らないじゃないか。

 ……だったら何がある?

 僕が呼び出される理由、何かあったか。

 どんなに考えを巡らせても、散々やってきたあの五文字がフラッシュバックする。次こそは、実力で。そう決意したばかりなのに。


 ねえ、神様。どうして今なんでしょう。

 どうして、今? 


 ……僕には、残れと言われて帰るだけののような反骨精神はない。状況を打開できるだけののような悪知恵もない。精神を蝕む思考から逃れられず、審判の時を刻一刻と待つだけだった。

 帰りのホームルームが終わって、机や椅子の影もずいぶんと伸びた。ストーブ頼りの教室は既に冷え切っていて、寒さに耐えつつ重い腰を上げて教室を出るのがやっとだった。


「遅いぞ長柄」


 職員室の扉を開けると、正面から鋭い声が飛んでくる。担任だった。


「……すみません」

「教頭先生が待っているから、早く来なさい」

「………………はい」


 促されるまま別室に入る。今だけは部屋の隅に置かれた体育祭の優勝旗のように、ただの装飾物になりたかった。

 それからしばらくして、担任とともに教頭先生がやってくる。室内に漂う重苦しい空気は、大人たちの沈黙で今すぐにでも逃げ出したいものに変わった。


「単刀直入に訊くけど……長柄くん、カンニングしてるね?」


 ――バレた。


 全身の皮膚から汗がぶわっと吹き出すような感覚だった。

 下がった顔は上げられず、言い訳するにも口が開かない。

 突きつけられた事実の重さに今更気づいて、視界がぐるぐる回る。


「いつからだ?」

「して、ない、です……」 

「してないって……」


 担任はいかにも呆れたといった具合の声調で言葉を続けた。


「……先生さ、見たんだよ。長柄がカンニングペーパーを手に持ってチラチラ確認してるとこ。生徒からも目撃情報が何回か上がってきて、まさかとは思ったが――悪いことしてる自覚あるか?」

「…………」


 何も言い返せなかった。この期に及んでしてないとは言えない。

 けれど、したと言ったら? 偽りの点数で僕を持ち上げてくれたみんなは、いつも苦い思いをしていた礼奈は――みんな、僕をどう思う?


「……長柄。カンニングは、悪いことなんだよ」


 分かってる。


「誰も得をしないし、長柄自身が一番損をする」


 そんなことは分かっている。


 分かっていながら、手を染めた。自分を抑えきれなかった。

 チヤホヤされたかった。みんなに認められたかった。


 ……一度くらい、礼奈に勝ちたかった。


 しかし、実際に掴んだものは虚構でしかなくて。

 回数を重ねる度に得られるものはなくなっていった。

 むしろ罪の意識が高まって負担の方が大きかった。

 ……それを踏まえた上で、メンツを保つためにはやめられなかった。

 生温かいものが頬を伝う。一度そうなったらもう止まらなくて、僕は声を出さず静かに泣いていた。


「このこと、ご両親に報告するからね」


 教頭から告げられた一言で、全身から一気に力が抜けていく感じがした。

 ここでようやく、とんでもないことをしでかしてしまったと自覚した。


   *


 気づけば朝だった。

 昨日までは色づいていた筈の木々も北風が通学路を駆け抜けていくとともに、一気に枯れ落ちていった。僕の周りからは活気が薄れて、生き物たちも死んでいってしまったみたいだった。

 本当は学校になんていきたくなかった。それでも両親は行けと頑なに言ってきた。逃げるなと、自分の意思でやったことなのだからしっかり受け止めろと、そんな論調だった気がする。詳しくは覚えていない。まともに聞いていられるほど僕の心は強くなかった。

 普段は賑わいを見せる昇降口も、今日はやけに静まり返っていた。廊下や階段にも人気がなくて、僕が歩く度に宙を舞う埃で思わず咳き込んでしまった。ただ、自分の教室がある階だけは妙に盛り上がっていて、廊下にまで人だかりができていた。


 ……嫌な予感がした。


 駆け足で教室に入ると、ストーブなしの冷え切った室内では、ひときわ熱を持った殴り書きがクラスメイトの話題を折檻していていた。



【長 柄 賢 爾 は カ ン ニ ン グ を し て い る】



 なん、で?


 開いた口が塞がらない。

 全身から力が抜けていく。

 その場に座り込みながら、僕は再びその文字を読み上げた。


「長柄賢爾はカンニングをしている……」


 紛れもない事実だった。これから罰も受ける予定だ。

 それなのに何故? 見せしめで担任がやったのか?

 ……担任が書いたものにしては汚い字だ。

 なら一体誰が、何のために――


『生徒からも目撃情報が何回か上がってきて――』


そこで、担任が昨日言っていたことを思い出した。


「冴木ぃ、あれマジなん?w」


 教室内で一際目立つ鳴き声が上がった。

 ……庭田だ。

 庭田が、脳を突くような気色の悪い笑い声とともに、冴木に問いかけたのだ。


「ああ、ほんとだよ。おれ見たもん」


 まるで予定調和と言わんばかりの受け答えに虫唾が走った。

 冴木は僕を見つけると、ニヤリと笑って眼鏡をくいっと押し上げた。 


「おはよう長柄。災難だったね」


 ――共犯。


 かつて、冴木に告げられた二文字が浮かんでくる。

 僕は冴木の元に駆け寄って背負っていた鞄を投げ飛ばし、胸ぐらを掴んだ。


「おまえか、冴木!! お前が言ったのか?!」

「いった――痛いよ長柄、カンニングの次は暴力かい?」

「冴木だって共犯だろ、あの時一緒にカンニングしたこと、僕は一度も忘れ――」


「おいおいおい、話をでっちあげんなよ」


 否定とともに、庭田が介入してくる。

 僕の手は冴木からまたたく間に離された。ふざけるな――今度は庭田の胸元に左手を伸ばすが、簡単に弾かれて、両手の自由を奪われる。なされるがまま、顔から机に押しつけられた。


「庭田くんの言う通りだよ。おれ、一度もカンニングしてないよ」


 庭田に体重を掛けられて苦しんでいる最中もお構いなしに話は進んでいく。


「第一、証拠がないよね」

「……それっ、は……」

「そして、やる理由もない。長柄と違ってね」


 ――は?

 理由? 何が?

 沢木ごときに僕の何が分かる――思いのまま睨みつけるが、むしろ彼は僕がそうすることを望んでいたと言わんばかりに高らかに笑った。


「いやいやぁ、とぼけるなよ。長柄、正司さんのこと好きじゃん」

「――――――は?」


 頭が真っ白になる。

 正司さん――礼奈のことが好き。


 ……そんなの、そんなのッ。


「正司さんに振り向いてほしくて、でも実力じゃどうにもならなくて、だからカンニングに手を染めた…………ひゃーーーーーーーーー恋って怖いねぇ!!!」


 冴木の筋書きは次なる話題を呼び、クラスだけでなく廊下まで大騒ぎとなった。

 抵抗しようと暴れるが、庭田の力技には適わず、捕捉されて暴れるあわれな小鹿のような有り様だったと思う。

 呼吸もままならない中、礼奈が目に入った。

 礼奈の視線は机に向けられたままだった。冷ややかな視線も、その性格からは考えられない罵倒も、僕に向けてくれやしなかった。

 ただ、下唇に前歯を押さえつけながら、ノートにひたすら鉛筆を走らせていた。


 全身から力が抜けてゆく。寝不足で頭が回らない。

 僕は一切の抵抗をやめた。庭田もそれが分かったのか、力を緩めていく。そのまま床に放り出される形となって、僕は土下座にも等しい姿を教室中に晒していた。


「……カンニング、しました」


 それは、僕が中学校で最後に発した言葉になった。


   *


 手のかじかむ季節が過ぎて、気づけば桜も枯れていた。

 あれから一度も学校に行かなかった。

 高校は遠く離れた通信制の学校に入学した。

 結局のところ、カンニングは中学時代の努力を水の泡にしたのだ。


 罪の意識は大きかった。

 もう、他人とは簡単に話せないと思った。

 夢や希望だって抱けない。

 抱いてはならない。

 僕は他人から栄誉を奪い続けたのだから。


 ……そよ風が公園の木々を優しくあおいだ。

 一枚の青葉が宙を舞う。それは公園の外へと飛んでいって、アスファルトに落ちたと思ったら、通過した車に轢かれてしまった。

 そんな光景を眺めているうちに、見覚えのある後ろ姿が目に入る。

 県内で有数の進学校が指定する制服に、革製のカバン。

 背中にかかるくらいまで伸びていた髪は、すっかり肩上まで切られていた。

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虚偽のコール 名暮ゆう @Yu_Nagure

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