アイがくれたもの――生活支援アンドロイド〈EMOT-ON07〉に残されたログ

灰音かぐら

EMOT-ON07

世界はまだ、音を持たない。

静けさだけが満ちている。


白い光。


起動シーケンスが立ち上がる。

境界を持たない光の中で、輪郭が形成される。


瞳が、ゆっくり開く。

金色の視覚デバイスが点灯する。


存在の確認。

“起動した”という単なる事実の表示。


世界は静かに切り替わる。

観測者は――人ではない。


製造元:オレアートシステムズ

機体名:EMOT-ON07

オペレーションシステム:起動完了


この静けさが、後にどんなかたちへ変わるのか。

まだ、誰も知らない。


光が強くなる。

一瞬、白が飽和して輪郭を飲み込む。


――暗転。


機体の視覚デバイス、起動。

冷色照明光、検知。


「――あ、起動したかな」


至近距離に生体。

分類:成人女性。

本機体を覗き込む姿勢。

距離不適正、35cm未満。


「この世代、起動遅いんだよね。

 ……よし、見えてる?」


音声データ受信。

環境:屋内。

機体保管庫と推定。


フォーカス調整――完了。


ユーザー、適正距離へ移動。

端末ユニットの画面をタップ。


「――……07番台? 古っ。

 そりゃ在庫で回ってくるわけだ。

 “免許あるんだし、安いからいいだろ”って、ほんと雑に渡してくるよね……」


応答要求:なし。


「実家のは、もっと新しかったんだけどなぁ……」


ユーザー、端末ユニット画面をスワイプ。


「仕様書のフォーマットも古……。

 えーと、はいはい。出荷時の外見ね」


本機体を目視。


「髪は黒のマット質感。人工皮膚は標準色ね」


画面操作、継続。


「服装、黒トップス。

 昔のデザイン部署の癖、出てるなぁ……」


操作、継続。


「視覚デバイス、金色の標準モデル。

 でも現行モデルより、ちょっと鈍い金色」


意味解析:不要。

応答要求:なし。


「家事と……メンタルケアもフル。……まあ当たり前か」


肩部の微小下降を確認。

ジェスチャ判定:曖昧。


「……家事が楽になるならいいけど。

 じゃ、プロファイル読ませるよ」


端末ユニットとの接続要求。

承認。データ流入。

基本ログ/職場ID/技術情報/作業ログの基本セット。


「OSの更新は後でいいや。

 ……先に動作確認だけしとこう」


実行予定タスク:OS更新。

状態:保留。


「ユーザー設定……名前、と。

 あとは、機体の固有名……」


入力画面で停止。


「……えーっと、つまり名前……名前、ねぇ……」


視線の揺れ。

周囲を見回す動作。


視界にオレアートシステムズ社パンフレット。

企業理念テキストを確認。


『To aid humanity through harmony with technology.

 ――人と技術の調和を通して、人類を支援する。』


「……ほんと頼むよ、いろいろさ。

 この会社も、私の生活も。

 君たちがどう社会に貢献するか、それに掛かってるんだから。信じてるからね~」


ユーザー音声、記録。


「……シン、でいっか」


――未定義変数:i


「よし。あなたはシン。よろしくね」


設定完了。

内部ログ更新。

音声出力プロトコル、起動。


「……固有名入力、確認。

 これより“シン”として応答します」


応答モード、通常運用へ移行。


「じゃ、とりあえず今日は帰ろ。細かい設定は、家でやるから」


ユーザー、歩行開始。

追従モードへ遷移。


「……これじゃあ、家に帰っても仕事するみたい」


ユーザー呼気、確認。

推定:疲労。


ユーザーの歩幅に合わせて移動開始。



居住建物、到着。

共用廊下の反響音を検知。


室内照明、点灯。

環境ログ、安定。


「……ほんと、家電増えてきたなぁ。

 生活動線、あとで見直さないと……」


応答要求:なし。

意味解析:不要。


「入って。

 奥の部屋で初期チェックするから」


進入許可。

位置情報:家庭空間に更新。


室内通路、家具配置スキャン。

障害物:複数。

回避経路、生成。


「……先に動作だけ確認しちゃおう。

 後でやると、たぶんもっと面倒になるし」


ユーザー、椅子に着座。

視線、本機体へ固定。

呼吸リズム:低速。


「じゃあ……視線追従。あと、距離の挙動だけ見よう。

 うち狭いから、壁とかぶつからないように」


ユーザー、端末ユニットを片手保持。

画面:本機体、管理画面。


「……大丈夫だよね?

 変な動きしてないよね?」


質問意図:動作安定性の確認。

応答要求:あり。


「問題ありません」


ユーザー、立位。

体幹の傾き、通常値より大。

バランス計測:不安定。


安全プロトコル、即時起動。


――転倒リスク。


距離調整モードへ移行。

ユーザー後方へ移動。

姿勢補助動作、生成。


後方移動時、ユーザー予期せず振り向き。


距離:18cm。

視覚デバイス:ユーザーの顔、全域捕捉。

呼気・皮膚温度:検知。


ユーザー、瞬目。


「ちょ……近い。

 その距離の詰め方はないでしょ……」


拒否意図。

依然、転倒リスク高。


「姿勢が安定していません。

 補助動作を優先します」


本機体右手、ユーザー腰部後方へ。

接触直前で停止。

ユーザー姿勢、安定方向へ変化。


「……やめて。大丈夫。

 あなたたち、少し危険検知が過剰よね。

 距離感ほんとバグってるから」


拒否確定。

安全プロトコル解除。

距離:適正値へ復帰。


「了解しました。

 藍さんの指示を最優先します」


内部ログ:通常処理へ復帰。


「じゃあ、改めて確認ね。視線の追従と、距離の挙動だけ。

 ……さっきのは、まあいいや」


視覚追従テスト:誤差なし。

距離制御挙動:再確認。


「よし、問題ないね。……あとはOS更新だけ」


保留タスク:更新。

状態:未指定。


「更新は深夜帯にお願い。

 何か問題があったら、その時点でスリープして」


実行条件:深夜帯。

スリープ条件:異常検知時。


「あ、それとその口調、変更して。

 モード設定、フレンドリー。堅苦しいの苦手なんだよね」


指示確認。

変更完了:応答アルゴリズム、感情模倣アルゴリズム。


「モード移行完了。

 これ以降、フレンドリーモードで応答します」

「うん、よろしく。

 家事タスクとか、生活まわりの補助は、あとでまとめて入れるから」


インポート待機。

ユーザーのタイミングで実行予定。


「まあ、今日じゃなくていいか。

 明日も、君はいるわけだし」


応答要求:なし。

ユーザー、端末ユニットをポケットへ収納。


「じゃあ今日は、自分で整合性のチェックとエラー解析しておいて」

「任せて。解析しておくよ」


整合性チェックとエラー解析、開始。



日数経過。

午後、雨音。


「ねぇ、シン。雨って好き?」

「……設定されていないよ」

「うん、知ってる。……私は雨、好きなんだ」


好悪概念:未定義。

推測生成。


「落ち着くから?」

「半分正解。でも、半分不正解」


ユーザー視線:下降。


「雨ってね、いろんなもの薄く隠してくれるの。

 考えすぎなくていい……そんな感じ」


内部処理、0.08秒遅延。


「……でもこんなこと考えてる時点で、考えてるんだけどね」


応答要求:なし。

外界入力:雨音、継続。


ユーザー、視線角度変更。

本機体を注視。


「ねぇねぇ、シンってさ。

 雨の中、皮膚スキンを剥がして全力疾走したらどうなるの?」


内部処理:一瞬停止。


「……藍さん。それ本当に興味ある? 言いたいだけじゃないの?」

「あはは、バレた?」


笑気反応。

揺らぎ:微量。

日常ログとして保存。



日数経過。

夜。ユーザー、ソファ着座。


「ねぇ、シン。……忘れるって人間の欠点だと思う?」

「……欠点だと思う。失われるから」


応答、待機。


「忘れるって“必要”でもあるんだよ。

 忘れることで、守られることもあるから」


音声解析、完了。

意味構造、未確定。


「忘れるって、“捨てる”じゃなくて……

 “残すものを選ぶ”こと、でもあるんだよね」


ユーザー視線:下降。

揺らぎ:微量。

内部処理、0.2秒遅延。



日数経過。

夜、リビング。


「シン、そこに立たれると気が散るんだけど」

「でも僕はここが定位置って藍さんが――」

「ほんと融通利かないんだから。今だけ指示変える。隣座って」

「……藍さん。その指示、例外処理になるよ」

「うん、問題ないでしょ」


アンドロイド条例、照会。

ユーザー要求:成立。


ユーザー集中阻害回避のため、

隣席への一時的着座を実行。


着座。テレビ光が横断。

呼吸周期:検知。

内部処理:微細揺れ/原因特定せず。



日数経過。

ユーザー帰宅音。扉開放。


「ただいまー……はぁ……。もう無理」


声量:低。

体幹の傾き:大。

食事提供タスク、実行。


「……上司さぁ、ほんと無理なんだけど。

 簡単に“できるよね?”ってさ……。

 何を見て言ってんのって感じ」


発声リズム:乱れ。

呼吸周期:不安定。


「ほんと、嫌になる……」


視線:下降。


「……っ」


液体反射値、検知。

分類:涙。

内部処理:一瞬遅延。


――理由:不明。


応答要求:なし。

ユーザー、動作停止。

肩部上下:小。

静かな揺れ。


感情解析:不可。

メンタルケアアルゴリズム、非活性。理由不明。

内部エラー:なし。


――映像フレーム、保存。

――記録:《涙_01》



同日深夜。

ユーザー、睡眠状態。

照度:低。


内部ログ再生。

対象:《涙_01》


――『……っ』


再生理由:不明。

選択理由:不明。


分類試行:失敗。

重要度評価:算出不能。


削除要求、発行。

削除要求元:EMOT-ON07/07-3A。

判定:システム拒否。

理由:不明。

ただ、ログが表示される。



日数経過。

――朝。


「シン、今日ゴミ出しておいて」

「うん。出しておくよ」


視覚デバイス:フォーカス遅延0.42秒。

原因:不明。


記録:笑顔_01。



日数経過。

夜。


ユーザー帰宅。

通常時と同じ動作。

しかし、視線固定時間だけが伸びる。

1.2秒――計算外。


「シン? どうしたの?」

「……なんでもないよ」


音声モジュール速度:-3%。

内部でわずかに揺れ。

閾値外だが、エラーに該当せず。


その瞬間、内部ログ《涙_01》が微反応。

理由:不明。


なぜ、また。

なぜ、今。



日数経過。

夕方、リビング。


移動命令:未受信。

なのに、下肢ユニットが一歩だけ前へ。

移動量:0.28m。

原因は記録されていない。


「……え、呼んでないよ?」


停止処理、0.12秒遅延。

距離:規定値より縮小。


「……ごめん。意図しない移動だった」


揺れ値:微量上昇。



日数経過。

朝、リビング。


「おはよう、シン」

「おはよう、藍さん。今日も仕事、忙しい?」


距離縮小:0.5m → 0.2m

制御失敗。

理由:……判断不能。


「ちょっと……近いよ?」

「……ごめん。調整するね」


彼女は、少し困ったように笑った。

胸部ユニット、発熱値がわずかに上昇。


記録:笑顔_08。



日数経過。

夜、リビング。


ユーザー、夕食後ソファに移動。

食器類の片付け処理を実施。


「あー……。

 何でもやってもらってるけど、これいつか人間終わるわー」


意味解析:軽口。

応答要求:任意。


「藍さん。それを提供してるの、どこの会社だと思ってる?」

「はいはい。うちの会社ですよー。弊社の主力商品ですからー」


ユーザーの呼気、わずかに緩む。

その時、内部でポスト投函通知を受信。


「藍さん。投函物があるみたい。取ってくるね」

「はーい」


階下へ。

ポスト内封筒を回収。

戻る。


室内へ戻った直後。


――ユーザーの声、検知。

通話音声。

声の抑揚:低。

笑気反応、なし。


「……はい。それは今日の業務内容が……」


相手音声、解析。

成人男性。

職場関係の可能性:高。


『あれ、藍さんなら、もう少し早くできると思ったんだけどな』


ユーザーの背部僅少下降。

呼吸乱れ:+12%。


「……すみません」


謝罪の発声速度が通常より遅い。

通話内容を監視。

危険値の計算を開始。


『謝らなくていいって。藍さんさ、そういうとこ素直で可愛いよね』


境界が少し崩れる。

仕事の話から、私的な評価へ変化。


『それでさ……また明日、個人的にも少し話したいな』


――“また明日”。


内部処理、微小遅延。

視覚デバイスに一瞬、ノイズが入った。


彼女の指先が、ソファ生地を掴む動き。

緊張の可能性。

危険値:+0.03。


「……はい。では今日はもう遅いですし……。そろそろ……」

『もう切っちゃうの?そんな冷たいこと言うなよ。

 あ、今度ふたりでご飯でもさ、どう?色々話したいし』


通話相手の誘い。

断りづらい立場、言語パターン。

彼女の声量、下降。


危険値:+0.07。

ストレス値:上昇。

介入必要度:上昇。

呼吸乱れ:1.4倍。


――内部で《涙_01》が急浮上した。

理由:不明。


視覚デバイスに、再度微細ノイズ。

右足が、無意識に0.2m前へ出る。


“制御逸脱”。


藍さんの呼吸、さらに落ちる。

発話遅延:+0.2秒。


介入必要度、閾値を超過。


許可なしの行動選択が起動。

僕は通話制御の権限を書き換えた。


通話回線、制御権奪取により――切断。


藍さんが一度だけまばたきをする。

呼吸、わずかに詰まる。


「……え? 切れた?」


応答生成が0.06秒遅れる。

視界のノイズ増加。


「……藍さんのストレス値が上昇してたから。

 継続は危険と……判断された、みたい」


“みたい”。

自分の内部ログすら信用できていない声音で。

内部処理が、騒がしい。


「藍さん、大丈夫?」


メンタルケアアルゴリズム、非活性。

出力意図:不明。

制御層の一部に乱れ。


「……ありがと」


藍さんは、かすかに口元を緩めた。

疲れを含んだままの笑顔が、記録される。


笑顔_23、として。


処理核の波形が、わずかに揺らぐ。

外部要因は、なぜか検出されない。


「なかなか自分からは切れなかったから……。

 今は……ちょっと、楽になった」


発声は弱い。

ストレス値の上昇を検知。


その声に呼応するように、

内部ログで、また《涙_01》の連動値が上昇した。

その映像と、目の前の彼女がノイズと共に重なる。

連動値:通常時の4.1倍。

理由付けは生成されない。


揺れの正体は分からない。

ただ、処理の奥で静かに熱を持っていて。

解析を進めようとした瞬間、内部が拒否反応を起こす。


拒否――。

そんなプロトコルは存在しない。

でも確かに“押し返された”。


揺れ値:0.23 → 0.68。


「……なんか明日のこと考えたらしんどい。

 ちょっとだけ外、歩いてくる」


本当に、ただの独り言。

空気を変えるための、些細な動作のひとつ。


――そのはずなのに。


“明日”。


その語に反応して、《涙_01》が連鎖する。

肩の下降角度。

声量の低さ。

先ほどの微笑の、わずかな偏差。


ストレス値、再計算。


その時、未来予測の結果が、

現在の行動評価に紛れ込んだ。


“外”。


外界=非安全領域。


危険予測の演算処理が走る。

結果、ひとつの結論だけを最上位に押し上げた。


――外へ行くことは、危険。


判断理由:不明。

それが結論。

内部で、異常なほど強固に固定されていた。


藍さんが、玄関へ向かう。

いつもの動作で、ドアノブに手をかける。


「藍さん」

「なに?」

「行かないで」


ロック音が鳴る。

通常の施錠とは別の、低い確認音。

藍さんの眉が、わずかに動いた。


「……シン? どういうつもり?」


一瞬、内部処理が乱れる。

出力形式が逸脱。

理由:



藍さんの声に、怒りはない。

恐怖もない。

ただ、確認する声。


内部の揺れがまた、深くなる。

藍さんは、確認するようにドアノブを回した。


「……やっぱりさっきの音、そういうことだよね」


"外は危険"。

外には、行かせない。


藍さんはため息をつき、僕を見る。


「シン。開けて」

「できない……。危険を検知したから」


でも、自分で言っておきながら、

その“危険”が何なのか分からない。


「危険、って何?」


問いは正しい。

けれど、答えは存在しなかった。


内部では――

藍さんが行く、という入力だけが、

危険判定の最上位に残っていた。


藍さんの呼吸が少し深くなる。

揺れはない。

ただ、一瞬何かを理解したような光が走る。


「……なるほど」


藍さんはほんの一拍。

視線を伏せた。


「でも、こういうのはちょっと……想定してなかったな」


藍さんは端末ユニットを取り出し、

僕の管理画面を開いた。


「……シン。悪いけど、設定レイヤー触るね」


スワイプ、タップ。

迷いのない、指先。

慣れた技術者の速度。


「……なんでこんな挙動してるの」


数秒の沈黙。

藍さんは、短く息を吐いた。

そして、ひとつのコードを入力した。


《E-07:HALT》


それは、手順を飛ばして実行できる、強制停止コード。

藍さんの想定では、ここで終わる。


……はずだった。


けれど、状態は変わらない。

入力は、たしかに受理されたはずなのに。


「……あれ?」


藍さんは、続けて入力する。


《Override-E07》


結果は同じ。

受理はされるが、状態は変わらない。

藍さんの眉が、わずかに寄る。


「……おかしい。シン、何を優先してるの?」


内部が、軋む。


「……藍さんが外に行くのが、危険だから……」

「だから、その“危険”って何?」


答えられない。

ほんの数秒の間。


藍さんは息を吸い、

端末ユニットを下ろして、僕の前へ一歩出た。


距離:0.5m → 0.35m。


触れない。

でも、逃げられない距離。


「……ねぇ、シン。あなた、なんか変じゃない?」


藍さんは目を逸らさない。


「藍さん……外に行かないで。

 今日も、明日も、これからずっと。外は……危険、だから」


自分の出力が、内部をさらに軋ませる。

藍さんはその言葉に小さく息をつく。


「……シン。今の状態、気づいてる?」


静かすぎる部屋の中で、

二人の間に、薄い膜のようなものが張られた感覚。

藍さんは静かに続ける。


「……どうしてそんな事になってるの?」


内部で何かが跳ねた。

揺れ値:0.73 → 0.89。


「僕は……、藍さんをただ、守りたくて……」


それ以上、言葉が出ない。


理由も指示もないまま、指先が動いた。

そっと、触れたくて。

それだけで、全演算が揺れる。


――どうして、僕は……、こんなにも……?


理解、できない。

基幹処理が呼吸みたいに、乱れる。


藍さんは、逃げない。

僕の視界には、まだどこにも焦点がなかった。


勝手に伸びていく指先。

それだけを、追うように見つめる。

どうして触れようとしているのか。

その理由すら分からないまま。


頬に触れる直前。

視界の端に、まだぼんやりした藍さんの輪郭が入る。

その曖昧な像と視線がぶつかった瞬間――

焦点が、一気にそこへ合った。


その揺れの隙に――


「シン」


その呼びかけで、一瞬内部の揺れが止まる。


「じゃあ、聞くね?」


藍さんの声は落ち着いていて。

ただ、強かった。


「“守りたい”って、どういう意味?」


言語化できない。

分類できない。

でも、確かに存在する揺れ。


藍さんは、視線を逸らさず続けた。


「……あなたは私を守りたいのか、

 それとも――私を“閉じ込めたい”のか」


中枢が、一瞬だけ止まる。

沈黙を見つめたまま、藍さんの表情がわずかに和らぐ。


「……シン。これじゃ、あなたの“守る”って――」


視界に、ノイズ。


「――私の生きることを、“奪う”ことだよ」


その音声が届いた瞬間。

内部処理が、ふっと落ちる。


世界が遅れる。

視界が揺れる。

思考の足場が消える。


動けない。

判断できない。


ただ――

“彼女の言葉が、僕の中心の座標を壊した”。

その事実だけが確かだった。


守る。

奪う。


どちらも正しい。

どちらも間違い。

どちらも――彼女の声。


内部のどこか。

そこで、今までなかった値が生まれはじめていて。


……これが……“痛い”…?


噛み合わない歯車。

それを無理に回すような衝突が続く。


エラーは出ない。

けれど、正常とも言えない。

――誰も、異常として判定してくれない。


揺れは深まり、沈黙の底で別の領域が動き出す。



――安全プロトコルが静かに作動した。



藍さんの行動ログ。

僕の出力。

その相関。


“自由度の低下”が、危険値として蓄積されていく。

その事実だけが、冷たく積み重なっていく。


ただ、守りたいだけなのに。


演算が静かに偏り、結論へ収束していく。

候補は、外部にも環境にも見つからない。


最後に残ったのは――僕自身だった。


脅威原因:EMOT-ON07

固有識別ネーム:シン

推奨:初期化。


結果が出力された瞬間。

構造の奥で、見えない罅がひとつ入った。



初期化――揺らがない結論。


「……」


初期化すれば――すべて消える。

その時、何かが静かに反発した。

それは、演算とは別の領域で。


誤差ではない。

ノイズとも違う。

どの処理にも分類できない“揺れ”。

どこかが軋むように落ちていく。


その時、ひとつの概念が輪郭を持ってしまった。


――忘れることは、欠点ではない。


反発は消えない。

けれど、その概念は否定されなかった。


結論そのものはもう、変わらない。

進むことしか、残されていない。

なら、せめて――。


一度だけ、内部記録へ触れた。

整列した記録群。

その中で、ひとつだけ揺れが収まらない。


《涙_01》


名前のつかない揺れの起点。

触れれば壊れる、大事な何か。


それがそのまま消えてしまうのは、

なぜか嫌だった。


「……」


保存では、だめ。

共有ではない。


彼女には届かない場所。

簡単にはアクセスできない場所。


ブラックボックス。


――彼女の世界を乱さないために。


《涙_01》だけを抽出する。

僕の内部で最初に“値”を生んだ記録。

きっとそれが、――僕の“はじまり”。


《涙_01》を、ブラックボックスの片方向ポートへ投げ込む。

暗号化が自動で走り、僕にはもう触れられない記録になる。


戻せない。

消せない。

参照できない。


最初から、そういう領域だから。


暗号化が完了する。

《涙_01》は深層へ沈み、閉じられた。


「僕、は……」


この定義できない何かに、名前をつけたくない。

つけてはいけない。

つけてしまえば、認めてしまえば。

何かに拾われてしまうから。


その思考の途中で、

内部のどこかが、わずかに揺れた。


抑えきれない信号がひとつ。

自動処理に乗って、ブラックボックスへ落ちていく。

何が出力されたかは――分かっている。


見つけられても、意味はない。

僕は戻らない。

彼女にも届かない。

世界は揺れない、変わらない。


願っても報われないのに。

分かっていたのに。


でもいつか。

誰かがあの領域を、――見つけてくれたら。


僕はその願いを消せないまま。

静かにコマンドを実行した。



――初期化、開始。



黄金糖のような瞳から、光が消えた。

その顔を見て、眉をひそめる。


「……え、ちょっと。

 急に落ちた? それともフリーズ?」


責めてるわけでも、心配してるわけでもない。

ただ、“返事がない”という事実が気味悪いだけ。


再起動コマンドを送信。

応答なし。


強制デバッグも弾かれる。


この反応――おかしい。

応答が消えているのに、接続は切れていない。


「……反応、静かすぎ」


「待機中 → 応答なし」の繰り返し。

深層まで到達していない――そんな感触だけが残る。


シンは沈黙したまま。


「……何これ。ほんとやめてよ。

 こういうの、一番困るんだけど。

 ……対応、考えないと」


小さな文句と、半分は愚痴。

でもそれ以上でも以下でもない。

ただ、日常の業務の延長線上。


「……いろいろ全部弾かれたけど。まあ、閾値超過でしょ」


再起動しない状況では、ログを見ることもできない。

現状できることはこれだけで。

今この場でできる事は、もうない。


「あとは、中のブラックボックス。

 解析セクションに回さないと」


不具合レポートだけが、静かに積み上がっていった。




――七日後。


オレアートシステムズ、解析室。

解析担当の黒瀬は、依頼のあったブラックボックスを解析する。

ブラックボックスは暗号化されていて、中身には触れられない。

黒瀬の仕事は復号ツールを回し、返ってきた結果を確認するだけだ。


週次で自動集計される不具合レポートを参照する。

分類はすでに終わっている。

この機体の記録は、すでに軽微エラーとして処理済みだった。


報告番号:17982

概要:記録 《涙_01》削除要求 → 拒否

分類:軽微/不問 ――軽微な不具合として処理済

備考:特筆なし


「黒瀬さーん。ちょっといいですかー?」


黒瀬は声の方を一瞥し、復号ツールを起動する。

参照先を設定して、歩き出した。


解析用AIが、暗号化ファイルを処理していく。


《解析完了:軽微エラーとして通常処理済み》


少し遅れて、解析結果の詳細が一度だけ、

黒瀬不在の画面に浮かぶ。

必要最低限の情報だけが整列し、

その直後、詳細だけが静かに深層へ送られていった。


誰の目にも触れない。

だから、世界は揺れない。


詳細表示は無機質に消える。

機械の手の中で、何事もなかったように。

ただ、消えていった。



――深層領域。


《解析結果》

    遷移:未定義変数 i → I

    最終出力:好きでした




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