Your hand clasped
箔塔落 HAKUTOU Ochiru
Your hand clasped
かれには左腕がなかった。
「事故じゃなくて生まれつきだよ」
そう言って、さらさらとプリントに文字を書きつけていく。重さはないけれども重量感はただならぬほどにある夏の風がカーテンをばふりと膨らませていた。そうだ、エアコンはついていなかったのだ。夏の補習を受けているのはぼくとかれだけだったから、電気代がもったいない、ということだったのかもしれないし、そうではないかもしれない。シャープペンシルのキャップを嚙むのはいつものぼくのくせだった。その日は歯に力を入れ過ぎたのか、消しゴムの周りの薄いプラスチックが口の中で割れた。ぼくはハンカチを取り出すと、顎から額にかけての汗を拭くついでに、なに食わぬ顔でキャップの破片をハンカチに吐き出す。
「それ」
ふいにかれがぼくを指差した。悪事を見とがめられたのかとぼくはどきりとした。かれの日焼けした肌に対するみじかめの金髪がよく似合っているように思えたのは、ヒマワリの種に対するヒマワリの花びらの色調とおなじだからかもしれない。
「あっついよな。エアコンくらいつけてくれっての」
かれは椅子から立ち上がりかけ、けれども、
「だめだー、リモコン持ってかれてる」
と、すぐに肩を竦めた。リモコン設置台の位置は教室の前方で、かれの目が悪くないことすらぼくは知らなかった。でも、それ以上にぼくは、左腕がない人間が肩を竦めるとこんなふうに人の目には見えるのか、ということに、まったくの上から目線のつもりはなく感嘆していた。
「でーきた」
かれがそう言って、右腕でプリントを高々と掲げたのは、人工の風をあきらめて席に戻って十分も経っていない頃だったかと思う。太陽の光どころかLED灯の電気にすら簡単に透けるような薄い紙に目を細めながら、やがて、こらえきれない、というような笑いがかれの口から洩れてくる。
「どしたん」
「見て見て、これさ」
ぼくは立ち上がって、かれが顎をしゃくってみせた箇所を見る。かれが解いていたのは現代文のプリントで、その最後の設問は、自分で短歌をつくるというものだった。ぼくが絶句したのは、もちろんかれの字が判読しがたいほどに汚かったからではない。どこかヤドカリめいていて、背骨が曲がっているかれの文字を――ヤドカリにも文字にも背骨はないが――ひとつひとつ拾っていくと、そこにはこう書かれていた。
祈ることがむずかしければせめて手を祈りのかたちにまずは組むこと。
「これはまずいんじゃね?」とぼくは言えなかった。なぜなら、ちっとも「まずいこと」ではそれはない「はず」だからである。
「自信作ー。じゃ、お先!」
そういうとかれは、ドアを足で開けて教室を出ていった。おそらく現代文の教師も、絶句し、結局その短歌についてはなにも言わずにプリントを受け取ることになるだろう。
ぼくは開けっ放しのドアをしばらく見つめる。そうして、両手を組んで手を祈りの形にしてみる。かれが短歌でそうしたように。あるいは、かれが心の中の手でそうしたように? そんなふうにしてみると不思議なエネルギーがみなぎるのを感じた。おそらくぼくは、このときはじめてだれかに向けて(あるいはなにかに向けて)切実に切実に祈る、ということをしたのだと思う。
ぼくが祈りを向けたのは、かれに対してではなかった。ぼくが祈りを向けたのは、ぼくを含めた、たとえば、両腕のあるありとあるひとびとに対してだった。ありとあるひとびとが自らの鈍感さに気づきますように、と。ありとあるひとびとが無傷のまま人を傷つけませんように、と。祈るとは全身に力を込めようとすることなのだと知った。
けれどもやがて、ぼくはあきらめて――そう、たしかに「あきらめた」のだ――、ゆるゆると手をほどく。口の中でわずかに血の味がするのに気がついた。それが、シャープペンシルのキャップの破片のせいでそうなったのか、犬歯でいつのまにか切っていたのか、それともある種の聖痕なのか、判断できる材料は、ぼくにはなにもなかった。
Your hand clasped 箔塔落 HAKUTOU Ochiru @HAKUTO_OCHIRU
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