偏愛

木戸 良明

第1話

 化学の課題をこなしていた私は、一区切りをつけ机の引き出しを開けた。どうにも腹が立っていた。進捗は事前立案から大きく遅れていた。その引き出しには、シャープペンシルの芯であったり、のりであったり、扇子であったり、とにかく雑多なものが入っていた。その中から、ひび割れたプラスチックのケースに入っているコンパスを選び、取り出した。私はコンパスをケースから出し、安全キャップを外した。脚を大きく広げて、右手に握りこむ。そして、自分の左腕に恐る恐る突き刺した。鋭い痛み。それにも構わず深く押し付けると、次第にその痛みは鈍くなっていく。数秒続けた後、コンパスを机に置いた。腕には針が刺さった黒く小さな跡ができる。鈍い痛みも次第に引いていった。もはや、この行動も習慣的になってしまった。始まりは、なんともいえない閉塞感だった。何かに追われているわけでもなく、何か差し迫った危機があるわけでもない。ただ、このままではいけないという思いと、それでも変わらぬ現状であった。この状況を抜け出したかった。破壊したかった。たとえそれがどんな方向でも。それで自傷でもしようかと、一週間ほど前からこのようなことを続けている。ただ、未だに出血したためしはない。やはり勢いが足りないのであろうか。それとも、適正な道具はやはりコンパスではなく、カッターなのであろうか。漠然とそのようなイメージがある。しかし、カッターは部屋にないためどうしたものか。ハサミでは無理であろう。そのようなことを考えながら、黒い持ち手を掴み、ぼんやりとコンパスを見ていた。一つのことに気づいた。細く長い脚に、名前シールが貼ってある。もう片方の脚についている鉛筆にも同様のものが巻き付けてあった。その名前は自分のではなく、姉の名前であった。佐々木理子と書いてあった。これは理子だった。黒の持ち手から伸びる、二本の青くて細く、長い脚。その片方の先端には鋭い針があり、もう片方にはすっかり丸まった鉛筆がついている。いつも正確な円を描くその物体は、まさしく理子だった。途端にそれが、とても愛おしく思えた。慈しむような手つきでそれを触り、細部まで見入った。私は気づいた。理子は常に私のそばにいたのだ。姉は東京になど行っていなかった。ずっとこの家にいて、引き出しの中で眠っていたのだ。課題をこなすことで荒れていた心はいたって平静を取り戻した。むしろ、顔にはほのかな笑みが浮かんだ。心は充足し、ただただ穏やかであった。

「ここにいたのか。」

思わずそんな吐息まじりの声が漏れた。自分が出しうる声の中で、最も慈愛に満ちた声であった。

「ようやくだ。ようやく私は理子を受け入れられる。」

理子を左腕に突き刺した。理子の冷たさを私は受け入れる。理子の鋭さを私は受け入れる。そして理子は私を切り裂き、私へと侵入する。今までにないほどひどく緊張したが、もう躊躇などなかった。それはコンパスではなく理子だ。これは自傷ではない。理子が私を傷つけているのだ。それが私には本当に嬉しかった。半年ほど前から家を出た理子。それ以来、理子に触れることができなくなっていた。あの冷徹な視線が好きだった。夕食のときにくだらない話題を投げかけて、軽くあしらわれるのが好きだった。理子から見下されるのが好きだった。憐憫の目線を向けられるのが好きだった。正論によって完膚なきまでに叩きのめされるのも好きだった。だが、今はどうだ。理子との接点は消え、両親からのあたりも強くなっていく。確かに、両親も理子と比べ私を見下す。正論によって叩きのめす。ただ、理子とは違う。そんなものは、私にとって外圧にしかならない。理子でなくてはならないのだ。理子だけが特別であるのだ。何故なら、理子は常に私を遥かに上回っていた。幼少期から現在に至るまで、私は常に理子の後を追った。その差は広がるばかりだった。私にとっての理想だった。眼鏡をかけ、本を読み、体は細く、いつも冷静。自分の好きな人間像そのものであった。むしろ理子の人間像が、自分の好きな人間像になった。小学校のとき、ある子を好きになった。好きになった理由はわかっている。理子に似ていたからだ。幼少期から常に私のそばには理子がいた。世間的にいえば月のような人だが、私にとっては太陽だった。だから私は常に影を生んだ。中学校の頃から、それは顕著になった。理子は学校のテストで平然と学年一位をとった。流石の理子も常に一位というわけではなかったが、一桁をずっと維持し続けた。両親は理子を称賛した。理子は常に努力を怠らなかった。天才という言葉を嫌い、秀才であろうとした。そしてその地域の公立高校で一番の進学校へと進学した。二年遅れて私も同じ中学校に入学した。私は学年で数十位ぐらいを維持した。姉の出がらしであろうか。頭はよかった。両親は私を責め、さらなる努力を求めた。三年間、私は必死に理子に近づこうとした。それでもついに私は、学年順位で一桁をとることはなかった。それでも私はなんとか理子と同じ高校に入学した。しかし、そこで私は落ちこぼれた。二百位台にうずもれた。理子はその学校でも常に一桁をとり続けた。一位を取ったことすらあった。ここにきて如実に差が表れた。両親からの外圧はより強くなった。ただ、理子は変わらなかった。中学校の時からずっと、私に冷たくあり続けた。理子は変わらない。それが何よりもうれしかった。同じ高校に入ったから認めるわけでもなく、平等にずっと冷たくあり続けた。そして理子は、常に私の近くに存在した。故に私はついに理子に執着するに至った。そして理子は高校を卒業し、なんと現役で東大へと進学した。我がことのように嬉しかった。ただ同時に私の心に完全なとどめを刺した。今の私の成績では、東大など夢のまた夢。この数年間、なんとか理子に追いすがってきたが、ここにきてついに私の手の届きようのない場所へと旅立った。理子に追いつこうという私の動機は完全に粉砕された。そして物理的にも理子は私から離れた。このまま、互いの人生の道は分かたれ、年に数回会うかどうかぐらいになるのだと思った。端的に言って、気が狂いそうだった。対照的に、両親は私への干渉を強めた。毎日、その日の行動の報告を私に要求した。娯楽の時間を削るように要求した。勉強を強要した。理子が東大へと行き、自分たちの教育方針により自信を持ったのであろうか。そうならば言ってやりたい。それは完全に理子の努力の成果だと。人の努力を私物化するなと。そんな状況であった。そんな状況で私は理子に再び触れることができたのだ。この喜びは何事にも代えがたいものだ。ずっと私の目標で、執着を抱いていた理子が、私を傷つけている。干渉してくれなかった理子が、私を傷つけてくれている。まさに夢のようなことだった。ついに理子はどこかの血管へと至ったのであろう。血が流れだした。ついに理子が私に干渉したのだった。理子を自らの血で汚したということ。そしてその罪悪感に興奮した。自分が理子に罪悪感を抱く。今まで考えられたであろうか。滴る血の滴一滴すら、それが理子によって流されたものであることを思えば、どれも素晴らしいものだった。月並みな表現だが、それは千金よりも価値があった。ティッシュで止血するなんてもったいない。私はそれをなめとった。血はまずかった。ただ、それがよかった。理子の冷たさを表しているように思えたからだ。理子が私に何か恩恵を与えるわけがなかった。幸か不幸か、傷が浅かったため、血はすぐに止まった。そして、針にも血がついていることに気づいた。美しかった。血塗られた針に思わず見入った。理子が返り血を浴びている。返り血を浴びながらも、いつもと変わらず冷徹な雰囲気を纏い、たたずんでいる理子がそこにはいた。流石にそれをなめとることには、躊躇が働いた。血をなめるだけではない。理子をもなめるのだ。その上、針とは、冷たく、鋭い。まさに理子の核のようなものだった。それをなめるのだ。考えただけでも呼吸が荒くなる。今までになく興奮した。私は慎重に、慎重に顔を理子に近づけ、その針に舌を優しく絡ませた。なんという冒涜的な行為であろうか。ああ、私は大罪を犯している。時折先端が私の舌に痛みを与えた。だがそれすらも、理子が反発しているように思え、光栄だった。興奮は絶頂へと達した。ひとしきり舐め終えた私は理子を机へと置いた。最後のほうはもはや血の味はせず、鉄の味しかしなかったが、それでももっと舐めたかった。だが、血がついているという大義名分がなければ、とても恐れ多く、そのようなことはできなかった。理子は一種の神聖さをも帯びていた。手で理子についた唾液をふき取る。

「いや、それではいけない。もっと丁重に扱わなくては。」

私は椅子から立ち上がった。足取り軽やかに心地で部屋を歩き、戸棚の上から二番目の引き出しから新品の眼鏡拭きをとりだす。とりあえずはこれでいいだろう。私は再び椅子に座り、その眼鏡拭きで理子を磨いた。まずは針を磨き、脚を磨き、鉛筆を固定しているダイヤルを調整した。この世で一番愛おしい存在が、今私の手の中にあるのだった。無上の喜びだ。これからの人生の展望が明るく思えた。明日は希望に満ち溢れている。なぜならば、私のすぐそばに理子はいたのだから。

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偏愛 木戸 良明 @nonedata

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