第10話

「俺がここで休んでたら、課長に見つかって、課長が入って来て、さっきと同じことを怒鳴ったんです。俺、もう我慢できなくて…」

「まさか、殴った?」

「そんな。そういうのはしてません。でも、思わず言い返しちゃったんです。言い始めたら止まらなくなって、溜まってたこと吐き出したら、当然、課長がぶちギレて。そうしたら、突然倒れたんです。」

 村田は屈んで、落合の姿を眺めた。確かに、殴られたような跡は無い。

「本当です、俺、何もしてません。」

「当たり前だよ、殺したなんて思ってない。それより、倒れたのはいつ頃?」

「ついさっきだと思うんですけど、よく分かりません。俺、長いことぼんやりしてた気もするし…」

「倒れた時、どんな感じ?どこか痛いと言ったり、手でどこかを押さえたりは?」

「ええと…手が行っていたのは、胸の方だったと思います。」

 じゃあ、心臓の血管が破裂したか詰まったか、あるいは心室細動か何かなんだろう。村田はそう言いながら、自分の中に不穏な感情があふれてくるのに気付いた。

 もうしばらく放っておいたら、どうだろうか。

 心停止してからの救命率は、数分で劇的に低下する。運転免許を取る際に聞いた救急救命講習で、そう習った覚えがある。動揺していて、どうしたらいいか分かりませんでした。そう言って、あとほんの数分置いておけば、絶対助からない。この脂肪の塊のような男は、死ぬ。それで、誰が悲しむ?残念がる者がいるのか?

 少なくとも、自分は悲しくない。

 むしろ、嬉しい。

 この男がいなくなれば、職場の雰囲気が良くなる、みんな仕事がしやすくなる、そんなことは二の次だ。

 自分は、心底、この脂肪の塊が、大嫌いだ。二度と口を利きたくないし、顔も見たくない。自分の願いとして、このまま放っておきたい。

 村田が何かをこれほどはっきりと望んだのは、しばらくぶりだった。気付かないうちに、何もかも諦め、自分の気持ちを消すようにして暮らしていた。それと同時に、誰かに対して強い感情を持つこともなかった。落合のことは嫌いだったが、それはコンビニで見かける名も知れぬクレーマーを不快に感じるのと同程度だと認識していた。

 自分が、自分で考えていた以上に激しく落合を嫌悪していたことに気付き、村田は震えた。

 唐突に、村田の耳の奥に萩野の声が蘇る。

「じゃあ、コーヒーになりなよ。」

 あれは、こういうことだったのか。自分をしまい込んで、無いものとして、薄い霞のように暮らすのでなく、自然に生まれる感情や欲望に素直になれ、自分が何者であるかをはっきりさせろと、そういうことだったのか。

「いや。そうだとしても。」

 村田はかぶりを振った。

「AEDを持ってこい。確か、一階のエントランスにあるから。それから、途中で会った人に、ここに来るように伝えろ。」

 村田はポケットからスマホを取り出しながら、後輩に指示した。後輩は漸く我に返り、走って部屋を出ていった。それを見送って、村田は一一九番を押す。

 後輩が呆然としていた時間も、自分が考え事をしていた時間も、ほんの一瞬だろう。きっと、大丈夫。

 後輩に呼ばれたのか、何人かの職員が集まってきた。皆一様に驚き、そしてほんの一瞬、救いがないほど暗い目で落合を見下ろす。おそらくは、自分もあの時あんな目をしたのだ、と村田は思う。それでも、村田は救急隊員の足音が聞こえるまで救命処置の手を止めなかった。


 落合は一命を取り留めた。

 救急車に同乗していった係長から連絡を受け、村田の課内には安堵半分、落胆半分の空気が流れた。命は大事だ。他者の死を願うなど、あってはならない。それは当たり前のことだが、正論の下に隠れる人の本心まで消すことはできない。

 村田はマグカップを持って給湯室に向かった。もう定時を過ぎる頃合いだが、今日は全く仕事が進まなかった。気疲れしてくたくただが、期限の迫っている案件だけは今日中に片付けておきたい。

「よし、コーヒーにしよう。」

村田は腹に力を込めて独りごちた。しかし、

「牛乳も入れたい…でも、無い。」

牛乳はさすがに常備していない。コンビニまで買いに行く元気も無い。腹の力がしなしなと抜けていく。

 給湯室で一人で気張ったりしょんぼりしたりしていると、横から手が伸びて冷蔵庫が開いた。

「ほら、牛乳。」

萩野が牛乳の一リットルパックをぱしゃぱしゃと振って見せていた。

「もうそろそろ期限だから、飲んじゃってくれよ。」

 村田は礼を言って、牛乳をマグカップに入れた。思いのほかたくさん残っていたので、カップが一杯になる。村田は電子レンジで牛乳を温めることにした。

 牛乳パックを洗って潰す村田の脇で、萩野もコーヒーを淹れ始めた。いつものインスタントではなくて、一杯二十円足らずのドリップバッグだ。安物とはいえ、豆からドリップすると良い香りがする。

「村田さん、今日はおちブーが死にかけの時に随分頑張ったんだって?」

「ええ、まあ。」

「偉いもんだ。」

「偉くなんかないですよ。助けたかったとか、死んでほしくないとか、そういう美しい動機じゃないんですから。」

 チーン、と音を立てた電子レンジからカップを出し、村田はインスタントコーヒーを入れてぐるぐると混ぜた。一口飲むと、いささかぬるい。村田はカップを再度レンジに入れて、スタートさせた。

「見捨てたらきっと後ろめたい気持ちになるから、最低限のことをしたまでです。それなら、結果としてダメだったとしても言い訳できるでしょう。だから、自分のためですよ。」

「いいじゃん、それで。」

 萩野は天袋に手を伸ばし、菓子袋を取り出した。給湯室のそこかしこに萩野の私物が当たり前のように収納されている。特に、天袋は女性には手が届きにくいので、ほぼ萩野の独占状態になっている。

「それができない奴もいるだろ。俺だって、村田さんの立場だったらどうしたか分からんよ。こう見えて腹黒いからな。」

「僕は小心者なだけですよ。」

 村田は首を振った。

 萩野はドリップバッグをゴミ箱に捨て、村田に揚げせんべいを差し出した。大きくて分厚い、美味しそうな揚げせんべいだ。おなかの空いていた村田は、遠慮なく頂くことにする。

 バリ、バリと辺り構わず大きな音を響かせて、萩野は揚げせんべいにかぶりついた。村田もそれに倣う。甘辛い味付けと油の相性はなかなかのものだ。それに加えて、ピリ辛な何かがまぶしてあるようだ。明太子だろうか。せんべい本体の米の味も濃厚に絡み合って、実に旨い。海苔が付いていても良かったかもしれない。

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