第9話
ある日、村田の職場は非常に険悪な雰囲気に包まれていた。定期的に行われている、課内の打ち合わせが原因である。前回の打ち合わせで話し合い、決めたはずの内容を、落合がその場の思い付きで変更することにした。係長がやんわりと、既に動き始めていることだから、と諫めたが、無駄だった。
「あれ以降、俺に進捗を報告してたか?してなかったろう。俺が状況を把握していたらこんなことにはなってないんだ。大体な、大枠を決めたって、細かいところは上司に相談して判断を仰ぐのが筋だろ。お前らがそれを怠ってたんだろうが。」
管理職に就いて以来、威圧的に怒鳴って人を従わせることで自分にとっての不愉快な事態を解決してきた落合である。その他の効率の悪い手段は採らない。
村田の横では、実務を担当している後輩が真っ青になってうつむいている。後輩のサポートに当たっていた村田は、後輩がかなり綿密に下調べをした上で取り組み、それでも初めは逐一落合の了承を得るために報告しに行っていたのを知っている。そして、その挙句に「勉強もせずに聞きに来るな。それくらい調べれば自分で判断できるだろう。細かいことをいちいち報告して俺の時間を取るな。」と罵声をひとしきり浴びせられたのも。
打ち合わせが終わってからも、後輩はしばらく会議室の椅子から立ち上がらなかった。
「自分が悪いんですか。」
後輩は震える声で呟いた。村田は、辺りを窺って落合がいないことを確認して扉を閉めた。下手に外に声が漏れて、これ以上面倒なことになったらたまらない。
「そんなことないよ。ちゃんとやってたじゃないか。」
「じゃあ、何であんなこと言われなきゃならないんですか。何で誰もフォローしてくれないんですか。」
「ごめん。」
「村田さんはそうやって優しいふりをしますけど、結局何もしてくれないですよね。村田さんだけじゃない、みんなそうだ。課長は俺らに給料泥棒って怒鳴りますけど、確かにみんなそのとおりですよね。何が悪いのか分かっているのに、放置している。怠慢だ。」
それは言い過ぎだろう、と思うだけで、村田は言わない。後輩のささくれだった気持ちは、時間しか解決できないだろう。自分に八つ当たりして気が済むなら、言いたい放題言っておけば良い。村田は心のスイッチを消しておくだけだ。どうということはない。落合から不条理な叱責を受けるのと同じことだ。
「…すみません、生意気を言いました。」
後輩は、うなだれて言った。
「いいよ、別に。課長に思うところがあるのは、みんな一緒だからさ。」
後輩はまだ立ち上がらない。しばらく一人にしておいた方が良いのかもしれない。
「ここ閉めとくから、落ち着くまでそこで休むといいよ。今の気持ちじゃ、仕事にならないだろ。」
か細い声で礼を言う後輩を背に、村田は自席に戻った。
今の気分が仕事に向かないのは村田も同じだ。あまり考えなくてもこなせる仕事を一つずつ潰しながらも、なかなか能率は上がらない。しかも、落合が他の部署に電話をかけて、何が気に食わないのか、また怒鳴り散らしているのが聞こえる。全く仕事にならない。
村田は席を立ち、非常階段を上下して散歩し、トイレで用を足した。ついでに顔を水で洗い、それでも落ち着かないのでマグカップを持って給湯室に向かった。仕事がはかどらないのは皆同じと見えて、給湯室はグチを言い合う人で混み合っていた。村田は隙間を縫うようにしてお茶を淹れ、給湯室の出入り口の脇でお茶をすすった。しばらくしてふと思い立ち、村田は再度給湯室内に分け入って、共用のカップにお湯と数粒のインスタントコーヒーを入れた。薄い麦茶色のコーヒーもどきができあがる。
マグカップを両手に持って、村田は給湯室を離れた。遠目に確認すると、落合は自席にいない。電話を終えてどこかに出たようだった。後輩もまだ戻ってきていない。村田はお茶をこぼさないように、そっとすり足で会議室に向かった。
「おや」
と村田は呟いた。会議室の戸が半分開いていたのだ。後輩は席にはいなかったが、頭を冷やすために外にでも出たのだろうか。
両手がふさがっているので、行儀が悪いが村田は脚で戸を開けた。会議机の向こうに、真っ青な顔をした後輩が呆然と立ち尽くしている。
「ほら、温かいお茶。これでも飲んで、落ち着いたら。」
机にカップを置く村田を、後輩は震えながら振り返った。唇まで血の気を失ったその顔は、あからさまに先刻よりも取り乱して見える。
「どうかした?」
「いや、課長が、動かなくて。」
ほんの数秒、言われた意味が分からなかった村田だが、すぐに後輩の方へ駆け寄った。入口からは机に隠れて見えなかったが、床に落合が倒れていた。
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