沈黙の逃亡者たち

 

夢の中で何度も「目覚める」ことを試みた末、仁は無力感に打ちひしがれていた。周囲の鮮やかな風景は、もはや安息ではなく、彼を嘲笑う牢獄のように感じられた。ミユキは彼の傍を離れず、静かに彼の葛藤を見守っている。


「どうすればいいんだ、ミユキ。僕はもう、どこにも行けない」


「あなた自身が、ここから出ていくことを許さない限りはね」ミユキはそう答え、仁をある場所へと誘った。


それは、街外れにある古い石造りのカフェだった。外観は平凡だが、一歩足を踏み入れると、その場の空気が外界とは決定的に異なっていた。カフェの中は薄暗く、静かで、そこにいる人々は皆、共通の重苦しい雰囲気と、どこか虚ろな目をしていた。


「この人たちは…?」


「この世界の住人よ。あなたと同じように、現実から逃げてきた人たち」


仁は彼らの一人、窓際の席に座る初老の男に目を留めた。男は手に持ったマグカップをじっと見つめ、全く動こうとしない。まるで、深い水底に沈んでいるかのように。


仁が近づくと、男はゆっくりと顔を上げた。その目は、疲労と諦めを滲ませていた。


「…新しい顔だね」男は枯れた声で言った。「君も、ここが気に入ったクチか」


「僕は…ここから出られなくて困っているんです」


男は鼻で笑った。「出られない、だと?違うね。出たくないんだろう。ここは完璧な場所だ。現実の失敗も、後悔も、他人からの期待も、何もかもが届かない」


男は、かつて現実で大手企業の社長だったという。家族にも、社員にも、社会にも期待され、その重圧に耐えかねて、ある日突然、この夢の世界に逃げ込んできたのだという。


「私はここで、理想の会社を経営している。誰も私を裏切らないし、私の判断は常に正しい。だが、外で私がどうなっているか?たぶん、世間からは無責任な逃亡者と罵られているだろうな」男はそう言って、再びマグカップを見つめた。


仁は胸を衝かれた。この男の目には、夢の自由ではなく、現実の苦悩がはっきりと映っていた。彼がここで手に入れたものは、自由ではなく、逃避の果てにある沈黙だった。


別の席では、若い女性が、何度も同じ絵を描いていた。仁が尋ねると、彼女は現実で芸術家としての才能を認められず、批判に耐えきれなくなったという。


「ここでは、私の絵は全て傑作よ。誰もが私を天才だと褒め称える。批判なんて存在しない。だから私は、もう二度と、現実のあの冷たい世界には戻らないわ」


彼女の言葉は希望に満ちているはずなのに、どこか空虚に響いた。彼らがいるのは、彼らの願望が完璧に叶えられた世界だ。しかし、その完璧さゆえに、そこには成長も、変化も、真の達成感も存在しないように見えた。


仁は気づき始めた。この夢の世界は、彼らが現実で負った傷や、未解決の感情、トラウマを、増幅させて実現化させているのではないか、と。


「彼らは、現実を許せないのよ。だから、その現実が創り出した『理想』の檻に自ら閉じこもっている」ミユキが静かに耳元で囁いた。


仁は、自分自身がこのカフェの住人たちと何ら変わりないことに戦慄した。彼もまた、現実の孤独や自己評価の低さから逃げ出し、この夢の世界に安息を求めたのだ。


彼がこの世界から抜け出す鍵は、外の世界にあるのではなく、この夢の世界が映し出している自分自身の過去の闇にあるのかもしれない。


ミユキは仁に、優しくも挑戦的な眼差しを向けた。

「さあ、仁。あなたの過去が、あなたに話しかけているわ。この夢の中の出来事が、あなたの過去のトラウマとどう結びついているか、見つける時よ」

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