第45話 嵐の直前
準備は進んでいる。
でも、誰も急いでいる感じがしなかった。
白瓏邸の一角で、俺は装備を確認していた。
手は動いているのに、頭の奥だけが、どこか別の場所に引っかかっている。
思い出しそうになる。
でも、途中で止める。
あの声の続きを考え始めたら、今やるべきことが崩れる気がした。
つかさは端末を操作している。
指は速い。
けれど、画面を見ている目が、何度も泳いでいた。
クレアは部屋を行き来しながら、短い指示を出している。
声は落ち着いている。
だからこそ、感情を抑えているのが分かった。
エルは作業台の前に立ち、改修後のチェックを続けていた。
動きは正確で、無駄がない。
それでも、いつもより静かだった。
ニャースケは、俺の足元に座ったまま、何も言わない。
尻尾も、ほとんど動かない。
誰も、核心には触れない。
触れた瞬間に、空気が壊れると分かっているみたいに。
重いままの沈黙だけが、次の場所へ行く準備をしていた。
移動が始まる。
車内は静かだった。
エンジン音だけが、一定のリズムで続く。
窓の外を流れていく景色が、少しずつ変わる。
建物の高さが揃わなくなり、空が広がる。
視界の端に、山の輪郭が入り始めた。
街の気配が薄れていくのが、分かった。
信号の間隔が伸び、人の数が減る。
コンビニの灯りが、やけに遠く見えた。
つかさが、端末を閉じる。
「……この辺り、地形が不自然ね」
独り言みたいな声だった。
誰かに説明するための言葉じゃない。
クレアは前を見たまま、短く答える。
「観測には向かない場所ですわ」
それだけで十分だった。
理由を掘り下げる空気じゃない。
山が近づくにつれて、空の色が変わる。
雲が低く、厚く見える。
同じ時間のはずなのに、少し遅れているような感覚があった。
俺は窓に映る自分の顔を見て、すぐ視線を外した。
ここから先は、戻る場所じゃない。
車は、さらに奥へ進む。
車を降りると、音が変わった。
風はある。
水の流れる気配もある。
それなのに、賑わいが続かない場所だと、足を出した瞬間に分かる。
河川敷は広い。
人も、まばらにいる。
散歩しているだけの人たちが、用事を終えたらすぐ帰る――そんな場所だ。
長居する理由が、見当たらない。
機材を下ろした直後、短い反応が走る。
画面が一瞬だけ、乱れた。
ノイズ。
すぐに消える。
つかさが端末を見るが、首を振るだけだった。
誤作動とも言い切れない。
でも、掴めるほどの異常でもない。
エルが、足を止めた。
ほんの一歩分。
それだけなのに、空気が変わる。
ニャースケが低く息を吐く。
「……ここ、近いにゃ」
断定じゃない。
でも、迷いもない。
川の合流地点が見える。
水の色が、微妙に違う。
流れが交わるところだけ、時間が遅れているように見えた。
俺は何も言わない。
言葉にした瞬間、壊れそうだった。
ここは、入口だ。
そう思わせる何かが、確かにあった。
河川敷の先に、道が伸びている。
舗装は荒く、岩が多い。
地面が、わずかに盛り上がっているのが分かる。
人が歩くには、少し面倒な方向だ。
クレアは、その先を見たまま動かない。
数秒だけ、間を置く。
計算しているのか、
感覚を確かめているのか、
俺には分からない。
「……奥ね」
短い一言だった。
反論は出ない。
確認もしない。
全員が、同じ方向を向く。
理由を共有しているわけじゃない。
でも、行く先だけは一致していた。
北へ。
そのまま、暗転。
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