第22話 白瓏邸に来たら、世界の空気が変わった。

ヘリのローター音が、ふっと遠ざかった。


代わりに耳に残ったのは、

風が木の葉を揺らす音と、

どこかで水が静かに流れる気配だけだった。


広い――

そう感じたのは、視界が開けたからじゃない。

音が、少なすぎた。


さっきまで、

息を吸うだけで命を削られていた。

今は、深呼吸しても何も起きない。


「……静かすぎないか」


思わず口に出た俺の声が、

自分でも浮いて聞こえる。


白瓏邸は、

高い塀も、武装した警備も見当たらなかった。

あるのは、整えられた庭と、

人の気配を抑え込むみたいな落ち着きだけ。


エルは、俺のすぐ横で足を止めた。

歩けてはいるけど、

その一歩一歩が、まだ重い。


ニャースケが自然にエルのそばへ寄る。

まるで付き添いみたいに。


「……ニャ」


短く鳴いて、

エルの胸元をちらりと見上げる。


――守ってる、

そう見えた。


クレアだけが、その様子を一瞬だけ見て、

小さく息を吐いた。


ため息でも、呆れでもない。

「理解している人間」の顔だった。


つかさは、屋敷を見上げたまま黙っている。

警戒しているというより、

拍子抜けしているみたいだった。


ここは、

追ってくる場所じゃない。


でも同時に、

偶然で辿り着く場所でもない。


俺はそう直感して、

無意識に拳を握り直した。


――ここから、空気が変わる。


理由はまだ、わからない。


ただ、

世界のフェーズが一段切り替わった、

そんな感じだけが、はっきりしていた。


白瓏邸の奥。

重い扉が、音もなく開いた。


中は想像よりもずっと簡素だった。

白い壁。無機質な照明。

研究室というより、観測室に近い。


奥から、足音がひとつ。


白衣を着ているが、研究者らしい慌ただしさはない。

背筋を伸ばし、最初からそこに“待っていた”かのように立っている。


「やっと来たか……待ちわびたぞ」


男の視線が、一瞬こちらを通り過ぎる。

そして――エルで止まった。


それは、人を見る目じゃなかった。

感情でも、欲でもない。

“存在そのもの”を測るような視線。


口元が、わずかに歪む。


「実物を見ると……いや、想像以上だ」


その声に、温度はない。

ただ、長い時間をかけて積み上げた期待だけが滲んでいる。


「これからが本番だ」


男はゆっくりと息を吐いた。


「どれだけこの瞬間を待ったことか」


その場の空気が、わずかに重くなる。

理由は分からない。

だが――

ここにいる全員が、同じ感覚を共有していた。


“この男は、何かを越えている”。


――直感が、警鐘を鳴らしていた。


完全にアウトだ。


「ちょ、ちょっとあんた――!」


つかさが一歩前に出かけた、その瞬間。


男は、

何事もなかったようにニャースケを抱き上げた。


「来い来い来い!

 ああ〜最高だ、反応が理想的すぎる!」


「にゃっ!?

 ちょ、降ろすにゃ!?」


ニャースケが暴れるが、

男は気にも留めない。


「エルは後でいい。

 今はこっちが優先!」


……え?


エルは完全に視界から外されている。

つかさの怒りが、行き場を失って固まる。


クレアだけが、

最初から知っていたような冷たい目で男を見た。


「鷹村研一。

 この邸の研究責任者です」


研一――鷹村は、

ニャースケを抱えたまま、振り返りもせずに言った。


「悪いね。

 “電源”は早いほうがいいんだ」


そう言い残して、

やたら上機嫌な足取りで廊下の奥へ消えていった。


残された俺たちは、

しばらく誰も言葉を出せなかった。


……張り詰めていたものが、

一瞬だけ、力を抜いた。


白いベッドに横になると、

エルはほとんど抵抗もなく身を預けた。


胸の紋は、弱く、規則正しく光っている。

壊れてはいない。ただ、消耗しているだけだ。


ニャースケがいないことに、

一瞬だけ視線が揺れて――


すぐに、何も考えなくなった。


白い部屋だった。

機械音は控えめで、消毒の匂いもきつくない。


窓際の椅子に、少女が座っていた。


年は、悠斗たちより少し下だろうか。

細いけれど、顔色は思ったより悪くない。

膝に毛布をかけ、足をぶらぶらさせている。


「あ」


こちらに気づいたみたいで、

みゆは目を丸くした。


「……来たんだ」


その声は、

昨日までの“白瓏の声”とはまるで違っていた。

冷たさも、重さもない。

ただの、少し高めの女の子の声だった。


つかさが一歩、前に出る。


「……白瓏、みゆ……さん?」


「うん。みゆだよ」


そう言って、みゆはにこっと笑った。

子どもっぽくて、拍子抜けするほど無防備な笑顔だった。


悠斗は、胸の奥に溜まっていた緊張が、

ゆっくりほどけていくのを感じた。


(……あ、普通だ)


敵でも、黒幕でもない。

ただ、ここに座っているだけの女の子。


みゆは視線をずらし、

ベッドで眠るエルのほうを見る。


「その子……大丈夫?」


「……今は、休ませてる」


悠斗が答えると、

みゆは小さくうなずいた。


「よかった。壊れてなさそう」


その言い方も、

専門家というより、

心配する“誰か”のそれだった。


クレアが、静かに一歩引いた位置から見守っている。

口は挟まない。ただ、必要な距離を保っている。


しばらく、誰も何も言わなかった。

でも、その沈黙は苦しくなかった。


戦場とは、完全に切り離された空気。

ここが「安全な場所」だと、

身体が先に理解してしまう。


みゆは、もう一度だけ笑って言った。


「……とりあえず、座っていいよ。

 長い話は、あとでしよ?」


その言葉で、

この場所が“敵地ではない”ことが、

はっきりした。


部屋を出ると、廊下は驚くほど静かだった。

足音さえ、吸い込まれていく。


扉が閉まる音を確認してから、

クレアがようやく口を開いた。


声の調子は、さっきと同じ。

丁寧で、温度がない。


「一点だけ、共有しておきます」


全員が自然に足を止める。


「白瓏みゆ様の周辺で、

 ガロウ・ヴェインという人物名が確認されています」


それだけ言って、クレアは歩みを再開した。


つかさが眉をひそめる。


「……それって、さっきの人?」


「“関わっていた痕跡がある”

 ——それ以上のことは、現時点では不明です」


理由も、目的も、評価もない。

ただ、事実だけが置かれる。


ニャースケが小さく唸った。


「……名前が出る時点で、ろくでもないにゃ」


クレアは肯定もしなければ、否定もしない。


「今は、判断材料が足りません」


一拍置いて、続ける。


「ですが——

 ここから先は、偶然で辿り着ける場所ではありません」


その言葉だけが、

廊下に静かに残った。


誰も反論しなかった。

誰も立ち止まらなかった。


まだ何も始まっていない。

それでも全員が、同じ方向を向いている。


選んだ航路は、

もう戻れない場所へ続いている。

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