夜が明けるまで

@sayasaya-naoe

第1話 覆面の巫女




三年前の春、藤代詠(ふじしろ よみ)の心は、永遠に氷の檻に閉じ込められた。

燃えるような朱色に染まった国境の森で、最愛の兄は倒れた。その身に宿していた強力な霊力も、一族が代々受け継いできた結界術も、全ては眩い「光」に打ち砕かれていた。

兄の胸を貫いたのは、古びた西洋の武具ではない。それは、隣国アヴァロン王国が擁する、騎士だけが振るうことを許されたという、魔剣の光であった。


「宵、お前は……生きて、この国の、呪いと、誇りを……」


血に濡れた兄の最期の言霊は、憎悪という名の呪縛となって、詠の魂に絡みついた。

そして、その呪いは今も、毎夜、彼女の肺を焼いた。

現在、詠は二十一歳。彼女に、また一つの過酷な運命が押し寄せた。

敵であるアヴァロン王国の若き王太子との政略結婚が、大和皇国の行く末を左右する形で確定したのだ。


「詠様。まことに、まことに慶事にてございます」


付き人の老女が、恭しく頭を垂れる。

目の前の豪華絢爛な書簡には、見知らぬ王太子の紋章が不遜に輝いていた。

詠は、自室の縁側に座り、書に目を落としていた。顔を上げることもなく、静かに応じる。


「慶事、ですか。老いて、目が霞んだようですね。これは、わが一族への降伏勧告。言うなれば生贄の要求です。」


老女は息をのんだ。

詠が、兄の死以来、感情を露わにすることは滅多にない。だが、その声に滲む冷たさは、都の冬の空気よりも厳しかった。

詠の姿は、大和皇国の貴族の象徴であった。漆黒の髪は艶やかに広がり、纏った十二単は夜の帳を思わせる藍色。その端正な顔立ちと、一切の感情を読ませない瞳は、公家の血が持つ「冬の美しさ」を体現していた。

誰も、この藤代家の嫡女が、心の奥底で煮えたぎるほどの憎悪を抱えていることなど、知る由もない。




その夜、詠はいつものように豪華な絹の着物から、動きやすい簡素な白衣に着替え、顔の半分を隠す覆面を纏う。

腰には、兄の遺品である「言霊を封じた小さな札束」を忍ばせた。

身を隠すように王宮の裏門を抜け、彼女が向かうのは、大和皇国とアヴァロン王国の国境に広がる「呪われた森」である。そこは大和の呪術とアヴァロンの魔法が混ざり合い、異形の魔物や、精霊(あやかし)と呼ばれる存在が跋扈する、危険な場所だ。

詠が巫女として活動する理由は、表向きは「修練」。だが真の目的は、兄を殺した魔剣の影を追い、戦火に苦しむ民を密かに救うことで、兄の遺志を継ごうとする、彼女自身の贖罪であった。

月明かりだけが頼りの森の道は、湿った土と、大和の結界が放つ霊力の匂いが混ざり合っている。詠は、一歩も足音を立てぬよう、慎重に奥へ進む。

その時、森の静寂を切り裂くような、獣の咆哮が響き渡った。

詠は立ち止まり、霊力を集中させる。これは、この森で最も危険な、魔物の気配だ。

そして、その魔物の咆哮に交じって、人間が苦痛に呻く微かな声が聞こえた。


「――っ」


詠は駆け出した。

命を助けるため、戸惑いはなかった。



湖畔のほとりに、その光景はあった。

巨大な魔物の前で、血に濡れた一人の男が倒れている。

その男は、銀色の甲冑を身に着けたアヴァロンの騎士であった。魔物は騎士の体を踏みつけ、再び咆哮を上げる。

詠は即座に懐から札を取り出し、言霊の呪術を放った。


《封(ふう)》


呪符は光となり、魔物の足元に一時的な結界を張る。一瞬の隙。詠は騎士のもとに駆け寄り、その体を抱き起こした。


騎士の顔はヘ兜で覆われ、素顔はわからない。しかし、彼の側には、夜の闇の中でも鈍く光る、一本の剣が転がっていた。

その剣が放つ冷たい光は、三年前、兄の命を奪った「魔剣の光」と同じ色をしていた。

憎むべき、アヴァロン王国の騎士。 

兄の仇に繋がるかもしれない存在。

詠の手に力がこもる。

救いたいと思う気持ちと、公家としての憎悪が、彼女の心臓を激しく打ちつけた。

しかし、その仮面の下から漏れる、男の苦しそうな息遣いは、彼女の復讐心を一瞬だけ上書きした。


「……ここでは、死なせません」


詠はつぶやき、憎悪を押し殺して、騎士の傷口に治癒の呪術をかけた。


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