影を踏むなと猫は言う 2

その晩、わたしは高熱を出した。

 全身がじっとりと汗に濡れ、夢とうつつの境目が曖昧になる。天井の模様が波打って見え、部屋の隅の暗がりが、まるで誰かの肩越しに覗き込んでいるように感じられる。

 階段の夢を見た。昼と夜のあいだのような薄闇のなか、裸足の足音だけが増殖する夢。見渡すかぎりの段差に、名も知らない影たちがびっしりと並び、同じ方向へと、ただ黙々と歩いていく。

 その列の最後尾に、わたしの影がいた。一人だけ靴を履いたまま、ふらつきながらついていく。足首の冷たさだけが、本物みたいだった。

 混濁した意識の中、誰かが額に冷たいタオルを乗せる気配を感じた。

「……ちょっと、連れてきすぎニャ」

 耳元で、墨の声がした。

「ごめ……ん」

「謝るなら、ちゃんと送り届けなきゃダメニャ。中途半端に連れて帰るから、部屋の中までついてくる」

 わたしはうわごとのように、階段のこと、足音のこと、影の列のことを話したらしい。半分夢の中で、墨のしっぽが床をぱたぱたと叩く音を聞いた。

「……やっぱり、あの社のせいニャ。骨を動かして、祠を壊して、影だけ置き去りにした。神さまの座り心地を取っ払ったから、行き場のないものが階段に溜まる」

 遠くで、蝉の抜け殻を踏みつぶすような音がした。墨の声が、だんだん近づいてくる。

「熱が引いたら、ちゃんと見に行くニャ。あんたの足首が完全に冷たくなる前に」

     *

 熱が下がったのは二日後だった。

 額に貼っていた冷却シートをはがしながら、わたしは墨を見る。

「……本当に行くの?」

「行かないと、影が増えるニャ。あんたの部屋にまで、ぞろぞろ」

 墨は窓辺で伸びをしていた。カーテンの隙間から差し込む光に、黒い毛並みの輪郭だけが淡く透ける。その足もとには、うす墨を流したような影が広がっていた。

「どこへ行けばいい?」

「まずは墓地ニャ。新しいほう。あんたの町内のはずれに、ちょっと前にできたやつ」

 バスを乗り継いで向かった先には、まだ土の匂いが残る新しい墓地があった。きれいに舗装された小道と、まっさらな石塔。ところどころに、まだ名前の彫られていない墓標も並んでいる。

 その端のほう、少し離れた区画に、花も塔婆もない、小さな区画があった。

「ここ、無縁さんのところだって」

 案内板を読んでいると、後ろから声をかけられた。振り返ると、作業着姿のおじさんが、草刈り機を持って立っていた。汗で額が光っている。

「そこでね。前の墓地から骨壺まとめて持ってきたんだよ。だいぶ古いのも混じっててねえ」

「前の……墓地?」

「あっち。昔は丘の反対側に、ちっちゃな社と小さな火葬場があってさ。あんまりにも古くなっちゃったからって、一緒くたに取り壊しちゃったんだと」

 おじさんは顎で遠くの丘を示した。木々のすきまから、あの長い階段が見える気がした。

「骨はこっちにまとめて持ってきたけど、ちゃんとした供養はねえ……予算の都合とかなんとか。まあ、形だけはね、こうやって並べてあるから」

「祠は、どうなったんですか?」

「跡形もなく。倉庫にしちまったって、聞いたよ。古い建物の骨組みだけ残して、中身は丸ごと変えたのさ。そういうの、好きな人もいるだろ。心霊スポットだなんだって」

 おじさんは少し笑って、肩をすくめた。その笑い方が、どこか無理をしているように見えたのは、薄曇りのせいだけではない気がした。

 わたしの足首を、風が撫でていく。

 骨はここにある。けれど、階段に溜まっている影は、まだあの丘のほうだ。

 心と身体が離れたまま、どこにも戻れないでいる――墨が昨夜言っていたのは、そういうことなのだろう。

     *

 おじさんに聞いた倉庫は、丘の裏手の細い道をしばらく進んだ先にあった。

 かつて火葬場だったというその建物は、表向きには「資材置き場」として使われているらしい。けれど、平日の昼間だというのに、人の気配はまるでない。鉄扉にはすり切れかけた南京錠がぶら下がっていたが、鍵はかかっていなかった。

 扉を押し開けると、ひやりとした空気が頬を撫でた。外よりも、二、三度は低いような冷たさ。

 中には、古い棚や、使わなくなった看板、祭りの出店で使われていたらしいテーブルが、無造作に積み上げられていた。その隙間を縫うように、細かいほこりが漂っている。足もとには、前に誰かが歩いたときの靴跡が、うっすらと残っていた。

 天井近くの小さな窓から、細い光が差し込んでいる。その光が、棚や箱のあいだから延びる影を、幾重にも重ねていた。床一面が、黒い網の目で覆われているみたいだ。

 墨が、わたしの肩からひらりと飛び降りた。

 猫のくせに、埃まみれの床に足をつけても平気そうな顔をしている。いや、そもそも墨の足は、本当に床を踏んでいるのか怪しいのだが。

「ここ……」

 声を出した瞬間、喉の奥に違う匂いがまとわりついた。祭りのあとに残る甘いソースの匂いとも、倉庫特有の金属と油の匂いとも違う。

 焼けた骨の匂い。

 何度か葬儀に出たときに嗅いだ、あの独特の乾いた匂いだ。それが、薄められ、埃と混じり合って、ここ全体に染みついている。

「火葬炉は、こっち側だったニャ」

 墨はするりと暗がりを進み、倉庫の一番奥で立ち止まった。そこは、何も置かれていない、不自然なほどぽっかりと空いた空間だった。四角く区切られた床のコンクリートが、他の場所よりもわずかに黒ずんでいる。

 目を凝らすと、その黒ずみの上で、影がかすかに揺れ動いていた。誰も動いていないのに、そこだけが、わずかに呼吸をしているみたいに見える。

 耳を澄ます。最初は自分の心臓の音しか聞こえなかった。それがだんだん遠ざかるにつれて、違う音が浮かび上がってくる。

 かすれた声。すすり泣き。笑い声。祈りの言葉。怒鳴り声。どれも半分以上が削れていて、意味を結ばない。テープが何度も上書きされたあとのように、バラバラな音だけが重なり合っている。

 そして、その全部が、わたしのほうを見ていた。

 視線は見えないはずなのに、足首の冷たさがぐっと強まる。誰かがそこから這い上がってきて、骨の少ない手指でわたしを掴んだような感覚。膝がふらりと揺れる。

 思わず墨の名を呼んだ。

「墨……」

「見ちゃダメニャ」

 墨のしっぽが、ぴしゃりと床を打った。その瞬間、影のざわめきが少し引いた気がした。

「ここにいるのは、もう骨がない人たちニャ。骨は墓地に運ばれたのに、声と影だけがここに置いていかれた。心も、だいたいはあっちに引っ張られてるけど……」

 墨は、床に広がる影の上をゆっくりと歩いた。足もとから、黒い水紋がじわりと広がっていく。

「ここには、まだ形になりきれていないものが残ってるニャ。帰りたいのか、残りたいのか、怒ってるのか、悲しんでるのか、自分でもわからないまま固まってしまったやつら」

 やつら、と言いながら、墨の声には僅かな親しみのようなものが混じっていた。長い時間を、こういう場所で過ごしてきた存在ならではの響き。

「……このままにしておくと、どうなるの?」

「階段に溢れるニャ。あの長い階段は、ここと墓地のあいだにある。骨は上から下へ運ばれたけど、その途中で零れ落ちた影の欠片が、あそこに溜まる」

 わたしは階段を思い出す。自分の影を追い越していった、あの足音たちを。

「だから、あんたが拾って帰ってきたんだニャ」

「わたしが……?」

「足首が冷たいだろ。あんたの影の一部、向こうに貸し出されてるニャ。だから夢でも見たんでしょ。列の最後尾を歩いてた」

 図星を刺され、ぞくりとした。

「……どうすればいいの?」

「送ってやればいいニャ。ちゃんと、骨のあるところまで。名前も家もなくなった影たちを、一度だけ列に戻してやる」

 墨はわたしを見上げた。銀の瞳の奥で、小さな炎が揺れている。

「夜になったら、階段を下りるニャ。あんたが先頭で、その後ろを、影たちが続く。わたしが道案内する」

「こわいこと、起こらない?」

「……こわくないって言ったら、嘘になるニャ」

 墨は正直だった。

「でも、何もしないでいるほうが、もっとこわいニャ。影は、踏まれすぎると形が壊れる。壊れた影は、誰のものでもなくなる。誰かの足もとに取り憑いて、少しずつ削っていく」

 それは、つまり。

「……誰かが、わたしみたいに?」

「もっとひどくニャ。足首だけじゃ済まなくなる」

 墨はうなじの毛を逆立てた。

「だから、今夜ニャ」

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