影を踏むなと猫は言う

かいだんにゃん

影を踏むなと猫は言う 1

丘の上の神さまが死んだらしい――その噂を、最初に耳にしたのは、コンビニのレジでだった。

「ほら、あそこの丘。昔、小さな祠があったでしょ。あれ撤去してからよ。みんな言うの。神さま、もう死んだんだって」

 レジのおばさんは、夕方のニュースでも流すみたいな気軽さでそう言って、ポイントカードをスキャンした。スキャナーの赤い光が、わたしの指先をすべる。その爪先から、ごく薄い墨を流したような影が、レシートの上に一瞬だけ伸びた気がした。

 紙片を受け取ってまじまじと見る。そこには、インクの数字と印字されたバーコードしかない。さっき見えたのは、ただの気のせいだ。

「丘の神さまが、死んだ……」

 口の中でそっとなぞると、言葉の端が、歯茎にぬるりと貼りつくような気がした。

 自動ドアを抜けると、外には夜になりきれない薄闇が漂っていた。丘へと続く長い階段の輪郭だけが、街灯に切り取られて浮かび上がっている。まだ完全に暗くなる前の、青とも灰ともつかない時間。

 街灯の足もとの影は、風に揺れる木々とは違って、ぴたりと静止していた。手すりの影だけが、風に合わせて細く身じろぎする。

 影は踏まないほうがいいよ――。

 頭のどこかで、誰かの声がした気がした。幼いころに聞いた注意のような、ずっと昔からそこにあった常識のような。

 振り返っても、コンビニの明かりがにじんでいるだけだ。わたしは、レジ袋を持ち直して坂を下った。

     *

 わたしの部屋では、先に帰っていた「彼女」がベッドの上で丸くなっていた。

「ただいま、墨」

 声をかけると、黒い毛玉がもぞりと動き、布団の上からこちらを覗きこんだ。真っ黒な毛並みに、銀色の瞳だけが二つ、灯りを宿している。腰のあたりから伸びる二股のしっぽが、ふにゃりと揺れた。

「おかえりニャ、遥香」

 人の言葉を話すその猫――いや、猫又の墨は、あくびをひとつしてから、ベッドからぴょんと飛び降りた。肉球がフローリングに着地する音はしないのに、踏まれた床だけが、じん、とほの暗く沈むのが見える。

「今日はゼミで遅いんじゃなかったのかニャ?」

「急ぎのレポートが片づいたから。半額シールが貼られる時間に寄れたから、ほら」

 レジ袋からお惣菜を取り出すと、墨が興味津々といった顔で鼻をひくつかせる。

「……コロッケの匂い。いいニャ。人の食べ物なのに、ちゃんとじゃがいもの匂いがする」

「当たり前でしょ。冷めないうちに食べちゃおう。そうだ、コンビニでね、変な話聞いたの」

 テーブルにお惣菜を並べながら、さっきのレジのおばさんの言葉を思い出す。

「丘の上の神さまが、死んだんだって」

 墨のしっぽが、ぴたりと止まった。

「……死んだ?」

 その言い方が、妙に静かで、わたしは箸を取る手を止めた。

「祠を撤去したから、ってことみたい。あの、古い小さな社。あれがなくなってから、みんなそう言ってるんだって」

「ふうん……人間はそうやって言葉にすると、安心するのかニャ」

 墨はテーブルに前足をかけ、椅子代わりのクッションに腰を下ろした。猫又のくせに、座る姿勢はやけに人間くさい。

「神さまって、本当に死ぬの?」

「死ぬこともあるニャ。忘れられすぎて、誰の目にも耳にも触れなくなったら、自然とほどけて消える。あるいは、祀り方を間違えられて、縛られて、壊れて、バラバラになる……そういうのも、死んだって言うかもしれないニャ」

「祠を壊しただけで?」

「祠は家だからニャ。そこをいきなり取り上げられたら、どこに帰ればいいのか、わからなくなる神さまもいる」

 墨は、ちいさく息を吐いた。その吐息の中に、焦げた線香の匂いがまじる。

「……そういうのはね、影のほうに滲むニャ」

「影?」

「行き場のないものは、光じゃなくて暗いほうに溜まるのニャ。名前も居場所も取られてしまったら、自分の形を確かめるのにちょうどいいから」

 さっき見たレシートの端を思い出す。あれも、もしかしたら。

「でもまあ、今すぐあの丘から何か出てくる、って話でもないニャ。お惣菜、冷める」

 墨はそこで会話を切るように、器用にコロッケを一口かじった。熱いはずなのに、平然とした顔をしている。

 わたしは曖昧に頷きながらも、胸の奥に薄い棘が刺さったような感覚を抱えたまま、ご飯をかき込んだ。

 数日後、大学の帰りにまたコンビニへ寄った。習慣みたいに、お惣菜コーナーをひと回りして、それから飲み物の棚を覗く。店内のざわめきと、レジの電子音と、外から射し込む夕暮れの光。

 レジで会計を済ませて店を出ると、今日はいつもより風が強かった。ビニール袋がかさかさ鳴る。丘の上へと伸びる階段のほうから、ひゅう、と冷たい空気が吹き降りてきた。

 いつもなら坂道を遠回りして帰る。それが身体に染みついた安全なルートだ。でも、その日はなぜか、階段のほうに足が向いた。

 足首の内側で、あの冷たさがまだうっすらと残っていたからかもしれない。

 わたしは手すりにつかまって、最初の一段を登った。コンクリートの段差は思ったよりも高くて、ふくらはぎがきゅっと伸びる。街灯がともり始めたばかりの時間帯で、階段全体はまだ薄明るい。

 ひとりでに、背筋が伸びた。

 上から吹き降りてくる風に押し戻されそうになりながらも、ひと段、またひと段と足を上げる。

 コツ、コツ、と自分の靴底の音が響く。その音に紛れるように、別の足音が聞こえ始めたのに気づくまで、少し時間がかかった。

 最初は、わたしの歩調に重なるように、一拍遅れて響くリズムだった。誰かが後ろをついてきているのだと思い、振り返る。

 誰もいない。

 階段は、長い影と風だけを抱いている。わたしの影は街灯に引き伸ばされ、先の見えない上のほうへと吸い込まれていた。

 なのに、また足音がする。今度は、一つではない。

 ペタ、ペタ、コッ、コッ。

 裸足と靴の音がまざりあい、湿った足の裏と乾いた足の裏が、コンクリートを踏む感触が、耳ではなく足の裏から伝わってくる。

 後ろではない。足もとだ。わたしの影の上で、誰かが歩いている。

 足を止めると、足音も止まる。

 試しに、右足を一段上げる。わたしの靴裏はそこに載るのに、影は、もう一段上の段にまで伸びている。そこを、誰かの薄い影が踏んでいる。透明なガラス越しに見るみたいに、ぼんやりと。

 息が詰まりそうになった。

「……すみません、通ります」

 思わず口から、そんな言葉がこぼれた。

 言ったるちに、自分でも馬鹿みたいだと思った。けれど次の瞬間、わたしの前の段から風がすっと抜け、影の重なりがほどけていくのが見えた。

 わたしの影の上を歩いていた何かが、列になって、前へと移動していく。誰もいないのに、階段の上のほうから、ざっ、ざっ、と、人の群れが動くときのざわめきが聞こえた。

 足首の内側が、ぴり、と痛んだ。そこに、冷たい指先が触れたような気がした。

 わたしは、階段を駆け下りた。最後の段を飛び降りたとき、足もとで影が少し遅れて追いついてくるのが見えた。

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