クリスマス・ベルの鳴る時に

李夢檸檬

冷血なるクリスマス

 子供の頃、御母さんはよく、のように言っていた。

「十二月二十五日はクリスマスと呼ばれるのだけれど、の日は外に出たら駄目よ。し、二十四日に家から出たいなら、午前の間だけにしなさい。仮令たとえ、帰って来るのがどれだけ遅くなっても、日が沈み始めるまでには帰って来るのよ。そうじゃないと、御祖父おじいちゃんみたいに、二度と帰って来れなくなってしまうわ」

 祖父は、ある年の十二月二十五日に外へ出て、まま帰ってきていない。まだまだ小さかった頃は、忙しいとか云う嘘を言われ、れをまま受け入れていた。だが、学生時代に真実を告げられた。驚きは、れ程無かった。何となく、納得していた。あの頃となっては、とても悲しいだとか、涙が出そうだとか、そう云う事を思わなくなっていて、の真実を追求する事もしていない。ただ、の真相を知りたいとは思っている。失踪したと云っても、何処どこで、具体的に何時いつ居なくなったのか、どのようにして消えたのか、そう云う詳細は、警察の長い調査が在っても、一切分かっていない。

 幼少期、物心が付いたくらいの記憶が、私に残っている、子供時代のわずかな記憶であるのだが、の時点で既に、あの注意をいていたのを憶えている。まだまだ幼稚であった時は、れ程気にせず、ただ言われた通りに家でひっそりと過ごしていたのだが、小学生くらいになって、ふと何故なぜそうしなければならないのか疑問に思って、御母さんにいてみた事が有る。すると、御母さんはこう答えた。

「クリスマスはね、危険な日なの。皆、平然と外を歩いているけれど、本当はとても苦しいの。二十四日の午後から、段々と気温が下がっていって、二十五日には、此処ここも雪国みたいに極寒の町になってしまうの。外で呼吸をするだけで、胸が張り裂けてしまいそうになるの。血反吐ちへどを吐いてしまいそうなの。クリスマスにはよく雪が降っているでしょう。だから余計に寒くて、頑張って集中していなければ、意識を道端で落としてしまうの。危険なの。御父さんは、日曜日じゃなければ、クリスマスも御仕事に行っているけれど、本当は行きたくないのよ。無理に外へ出て苦しみながら御金を稼ぐよりかは、家の中で貴方あなたと一緒に過ごす方が、圧倒的に嬉しいのよ。皆、何時いつこごえて死んでしまうか不安なの。だからの日は皆、何時いつもよりも周囲に気を配っているの。でも、そうしていても、如何どうしようもなく意識を手放してしまう人も、何人かは居るの。し、自動車や電車、そう云う、事故を起こしてしまえば、大きな被害を出してしまう乗り物を運転している人が、そうなってしまったら、如何どうなるかは分からないわ。貴方あなたも、の最悪の結果に巻き込まれてしまうかもしれないわ。れに、皆、心の中では、頭が可笑おかしくなってしまいそうで、まともに考えようとしても、中々、何時いつもできている事ができないの。だから、誰かを刃物で襲ってしまう人もいる。盗みをしてしまう人もいる。そう云う危険を分かっていながら、皆、餌を撒かれた鳥みたいに、特定の場所に群がるの。心の内では、自分が不運に遭うかもしれないと思っているの。でも、集まるの」

 長々と説明を続けた後に、御母さんは続けて、毎度必ずサンタクロースの話をする。の話は、何時いつも「二十四日は早く寝なさい」と云う催促さいそくで、簡単に伝えられる。

「二十四日の夜には、サンタクロースさんが我が家にやってくるけれど、二十二時までには布団に入って、寝ていなさいね。サンタクロースさんに会おうとしてはいけません。サンタクロースさんはとても忙しくて、の世に存在する、子供達の居るあらゆる場所に、一夜の間に、一人で行かなければならないの。れに、サンタクロースさんは、実は凄い恥ずかしがりなの。素顔を見られたら、恥ずかしくなって、途轍とてつもない速度で去ってしまうくらいには、照れ屋さんなの。し、実際に会って何かしたいのなら、私に言って頂戴ちょうだい。多少の手助けぐらいは、してあげるわ」

 サンタクロースは唯一、私が欲しい物を強請ねだる事のできる存在で、だから毎年、会う事を楽しみにして生きていた。れで時々、何かおん返しをするべきかと思って、母に頼んで御菓子を枕元に置いておいてもらったり、御手紙を書いたりしたものである。


 今となっては、母のもとから去ってはや半年以上が過ぎて、もうぐ、子供の頃は大変喜んでいたクリスマスがやってこようかとしている。昨年さくねんまでは親の目が在って、外に出る事が不可能であったが、ひとりで暮らしているがゆえ、母からまたあの催促さいそくの連絡が来ても、れを無視して外へ出る事ができる。ふと、れが大人と云う事なのかと感慨かんがいぶかげに考えながら、今年のクリスマスは一体如何どうしようかと、貴重な休日の一端を大胆に使って考え込む事にした。

 初めに、街を駆けてみようと思った。クリスマスに染まった町は格別に凍える寒さらしいが、れをも堪能しての大人だろうと勇気付けた。れに、仮令たとえこごえ死んでしまっても、れは本望ほんもうである。次に、何時いつも行く喫茶店で、食事と休憩をたしなながら、体を温めるとともに、極寒のクリスマスの様子を観察しようと思う。の後は、電車にでも乗って、の辺りでは都会と言われる、隣町に行って町を散策して、の町とは違うクリスマスを感じてみようと思う。の後は……の後は……一体、如何どうしようか。今迄いままでのような事をしてこなかったせいか、全くと言って良い程思い付かない。しかし、十分だとも思った。クリスマスは一週間以上先であるがゆえまでに考えておけば大丈夫だろうと考え、の日は考えるのを止めた。


 クリスマスがやって来た。朝目覚めた時、感覚が何時いつもと違っている事は明らかだった。体を起こして窓の外を見ると、其処そこは白一色の世界、雪が絶えず上空から降りしきり、町一体を覆い尽くしていて、地面には落下を終えた六花りっか達が、仲睦なかむつまじく鎮座ちんざしている。の上を、人々は何とも思っていないような顔して踏み付けて、まま何処どこかへ去って行く。そう云う彼らに復讐するように上から雪が降り積もる。の光景を、私は只管ひたすらに見ている。世界は、のようなものだったか。いや、違うと思う。ほど淡泊たんぱくで、薄い存在ではなかったはずだ。冷酷、胸が痛むような感覚、寒さのせいか。れとも、今日がクリスマスであり、今迄いままでに無かった事だからか。取りえず、外に出るために準備をする事にした。

 外は思ったよりも味気無かった。期待外れと云うべきか、くだらないと云うべきか。喫茶店の在る商店街までは約二十分ほどようするため、私はの間、の変わりきってしまった世界を見詰める事とした。歩く度に、白い妖精ようせい達が踏み潰されて形を変え、ぐに援軍が来て修復される。の援軍の一部が、私に攻撃を仕掛けてくる。痛くないのだが、少々小癪こしゃくに感じる。他の人々は皆、気付かず蚊に刺されてしまった時のように、彼らからの攻撃を物ともしていない。気付いていて、無視しているのか。そもそも気付いていないのか。流石に気付いているだろう。しかし、れよりも何か、心を燃やして無理矢理に動かす目的が有るのか。鬱陶うっとうしいと思っているのは、私だけなのだろうか。少なくとも一人ぐらいは、他にも居るだろう。居なければ、れは異常事態、社会の崩壊の始まりなのではないだろうか。そもそもの話、クリスマスにいて、社会と云うのはどのような変化を遂げているのだろうか。クリスマス、そう云う年中行事が在る時には、社会も伴って動く。私は、クリスマスと云うのは不遇な行事であると思う。他の行事は、次の行事がれなりに後に在るが、クリスマスは、一週間もしない内に大晦日がやってきて、の翌日には御正月がやってくる。ほど短い期間で行事が現れる事は、う無い。酷くないだろうか。れに、現代では何故なぜか当日よりも、前日、クリスマス・イヴの方が人々は盛り上がっている。当日、十二月二十五日となっては、悲しい事に皆、一年の終わりのために動き出す、あるいは御正月おしょうがつの準備を始めて、クリスマスの後とは思えないように過ごすのだから、哀れじゃないか。だから私は、不遇だと思うのだ。

 町を歩いていて、何だか悲しい気分になった。町は白一色、薄められた白色の絵具を塗りたくられたみたいに染まっていて、人々の行き交う姿と、建物と、発せられる光、むなしく木の葉が散った木々、路地を進む孤独な野良犬共と、雲が完全に埋め尽くしている空からなんとか光を届ける太陽だけが、唯一ゆいいつ白色以外の色彩を保っていた。美しいのだろうか。私は悲しかった。美しいとは思えなかったし、少しばかり憎しみのような感情を得た。毛嫌いしている、と、云うのが正しいかもしれない。私は如何どうも、の世界の事があまり好きではないらしい。そうであれば、憎たらしくなるのも分かる。世界が嫌いなのではなく、クリスマスのせいで変化してしまった世界が嫌いなのではないだろうか。悲観、その至りである。

 喫茶店に着いて、中に入る。入店音、付けられた小さなベルが鳴って、店主と共に出迎えてれる。店主は傘寿さんじゅを過ぎて、あっと云う卒寿そつじゅを迎えるだろうと、常々客に言いふらしているじじであり、れる珈琲こーひーは中々に格別、の町では一番の腕前だと、個人的には思っている。また料理も中々上々、種類はほど多くないが、の分速度と完成度は素晴らしい。あの老いれた肉体は、真逆に益々ますます悪くなっていくばかりだが。れでも毎日、体操や運動はしているらしい。どのような努力よりも、摂理である老いの方が強いと云う事か。のように考えると、余計に感傷に浸ってしまう。クリスマスはのようなものなのだろうか。今迄いままで、ずっとクリスマスと云うものは、華々はなばなしくにぎわって、町は深夜まで電気にって明るく照らされ、人の温かみは絶えないと思っていたが、のような事は無いようだ。

 どのような時でも必ず座っている窓辺の席に座って、何時いつも通りの注文をする。「何時いつも通りの物を」と言えば、いや、きっと言わなくとも、私が望んだ通りの料理が出てくる。味、量、速度、何も昔からほとんど変わらない。値段も変わらない。何か変わる事は有るのだろうか。無いだろう。今更いまさらながらに、店内をながめてみる。あのじじほど季節感の無い男だが、多少飾り付けはするらしく、夏には風鈴ふうりんが吊るされていたり、四季折々の装飾がほどこされていたりする。商品の追加は一切行われないが。店内のはしの方に、ほどきらびやかではないが、少しばかり装飾がほどこされた、クリスマス・ツリーとでも言うべきであろうか、れまた昔から有る小さな木が置いてあった。ただ、十二月に入って一週間がった頃には既に設置されていたし、昔から見てきたため、新鮮味しんせんみは無かった。結局此処ここは、クリスマスだからと云って、特別変わる事は無いのだ。

 注文をした時、視線を外しながらに見たじじも、クリスマスにる目立った変化は無かった。全て、ただ時間が経過した事にる物だった。前に此処ここへやってきた時よりも少し伸びた代わりに、少なくなったように見える白髪はくはつ、見えていないのではないかと云う程細々としており、しかし落ち着いていて優しい目付き、サンタクロースのように真っ白に染まっていて、そろそろるべきだろうと思うほどの長さの、無精ぶしょう口髭くちひげ顎鬚あごひげ、一度もみだす事無く、昔から何一つ変わる所の無い、きちんとした身形みなり、どれだけ長く生きてきたかを象徴しょうちょうする、ひどしわのできた両手、服の袖からちらりと見える、れまたしわの多い乾燥した腕、年のせいで中々一直線にする事のできない脊髄せきずい、少し折れ曲がったひざのどれもが、のクリスマスとなっても、店の内装、外装は変われど、以前と比べて全く違わなかった。若い頃は、のようではなかったのだろうか。若気わかげいたりで、盛大にもよおしていたのだろうか。私が此処ここ始めた頃には、あのじじは既に老いれていて、今迄どのようであったとか、若い頃は何をしていたのかとか、のような事はいた事も無かった。れ以上、あのじじについて話す事は無い。

 しばらく、のような事を考えながら待っていると、多少の誤差は有れど、今迄いままでほとんど変わらぬ時間で、注文していた料理が運ばれてきた。珈琲こーひー、砂糖の入っていない物、気高き飲み物である。サンドイッチ、定番ではあるが、焼いていながら直ぐに崩れてしまいそうなほどふわふわな卵、塩漬け肉――つまりはハムが数枚、輪切りにされてもなお赤く輝き続けている赤茄子あかなす、乱雑に千切ちぎられていながら、確かに元は一つの塊であったと主張してくる萵苣ちしゃ、そして、少々珍しいかもしれないが胡瓜きゅうりが入っており、何時いつも変わらぬ大きさと味で、私を十分に満足させてくれる一品である。ずは最初に珈琲こーひーを一口飲むのが私の流儀であって、高温に熱された黒く輝く液体と、芳醇ほうじゅんで独特の香りを持った蒸気を口に含む。そして飲み込む。一度置いて、サンドイッチを食べる。の次に、窓の外を見てみる事にした。と、云うよりは、初めからのようにしようと思っていた。の店の事は十分に理解したのだから、やはりまだまだ理解のいたらぬ外を見るべきであろう。

 あの白い無数の結晶は、相変あいかわらず上空から降下作戦を実施していた。落ちる速度は非常にゆっくりで、一体一体は、ほど大きくない。周囲に装飾までされて、堂々とっ立っているれ木にも、彼らの中の一定数が群がっている。非常に細い枝の先迄さきまであます所無く占領せんりょうしている。時々現れる野良犬や鳥類は、今は居ない。流石にの雪降りしきる中で、此処ここまで来る気力は無かったか。地面は雪の群生地となっており、えず入居者が増え続けている。何時いつになれば、の勢いが収まるのだろうか。少なくとも、夕方ゆうがたくらいまでままの勢いを保ち続けそうである。人々は皆見た事の無い抜けがら達で、少し腑抜ふぬけて見える。伽藍堂がらんどうなのである。情熱が、心の中に見えない。私が可笑おかしいのだろうか。異常なのだろうか。今の時代、無駄に何かを求める事は、無意味なのか。只管ひたすらに自らを抑制よくせいし続けて生きる事こそが、美徳なのか。情熱、れはすなわち、欲望である。また、愛情でもある。野望と言っても、差しつかえないだろう。有りのままで居る事が、何故なぜさげすまれなければならないのか。社会、其処そこに情熱は在るのだろうか。人間には元々、備わっていたはずだろう。れなのに、どうして今、皆、失ってしまっているのか。

 完食した後、会計を済ませて外へ出た。食事を終える最後の一口まで、変わらぬ存在であった。最後に見たじじの姿は、消えかかっている蝋燭ろうそくように、静かで冷たかった。もうじき、終わってしまうと云う事なのだろうか。そうであるのなら、悲しい、兎に角悲しい事だろう。誰にでも、最期と云うものは平等に訪れるのに、どうしてほどまでに、如何どうしようも無く苦しい気持ちにさせられるのだろうか。

 駅へ向かった。人は何時いつもよりも多いような気がした。恐らくれは、間違いではなかった。クリスマスだからなのだろうか。近くを歩いているあの人は、れから如何どうするのだろう。此方こちらの方向に向かってくる人は、何をしに行くのだろう、のように思っていても、何も起こりはしない。ただ只管ひたすらに、駅の方へと歩いた。自分だけがみょうな熱を持っているような感覚がして、少し不気味に感じた。怖かったのだ。自分だけが、の世界から切り離されてしまったような気持ちが、どうしようもなく恐ろしかったのだ。末恐すえおそろしさと、一体如何どうしてかは分からない曖昧あいまいき気が、私を始終しじゅうおさえ付けていた。

 電車に乗って、可成かなり人が多い事に気が付いた。普段は席に座れるか、座れまいかと云う程度の人数であるのに、今日は一席すらもいていない。立っている人もまばらに点在している。私もの一人である。はしの方にって、硝子がらすしに町の様相をうかがう。雪の猛攻もうこうは止まらぬ。止まると云う事を知らないようだ。川を流れる尽きぬ水は、の寒さに耐えきれず氷になってしまっていて、の上にも雪が積もっている。所々に、小枝や落ち葉が在る。泳ぐ魚は見えない、当たり前だろう。氷に雪、川の在るべき姿を隠してしまっている。透明ではなくなった水、の下で魚は如何どうしているのだろうか。人間であれば、死んでいるに違いない。隧道ずいどうに入った。雪は止み、窓の奥は暗闇に染まった。電車が走る音が、否応いやおうなしに響き渡る。窓硝子がらすに反射する自分の顔を見た。曖昧あいまいな姿、本当は、どのような表情をしていたのだろうか。私にはよく分からなかった。揺れる、揺れる。電車やバスに乗っていると眠くなるのは、母の御腹の中に居た頃を思い出すかららしい。母が歩く時の振動と、乗り物が進む時の振動とが、似ているらしい。噓か誠か、信じるかいなかは人次第だろう。ただ、隧道ずいどうの中を進んでいると、胎児たいじであった時、子宮しきゅう内はのような光景だったのかと思う。なつかしくない景色である。だが、体内は暗闇のはずだ。暖房がよくいている電車の中、十数度程度だろう。胎内たいないは、の電車の中よりも温かいのだろうか。人間の平均温度は三十六度程度、深部体温であれば三十七度程度、やはり温かいのだろう。部位によって温度は変わるが、胎児でもそうなのか。れとも、母の温度と同じなのか。

 隣町に到着した。電車から降り、一旦いったん駅の様相を確認する。乗降場の屋根には、相変あいかわらず雪が居る。此処ここで同じく、雪が人々をもてあそんでいる。駅員を含めた数多あまたの人々は、防寒着に身を包んで、あまり寒がる様子を見せない。改札口近く、駅の外であるが、此処ここにもクリスマス・ツリーが鎮座ちんざしていた。あの喫茶店で見た物よりも、とても立派な一本の針葉樹。飾り付けが所狭ところせましとほどこされて、光を反射して輝いている。

 改札を出る。雪は未だ降り続いている。人々の往来おうらいは、何時いつもよりも激しく感じる。やはり、殆ど情熱が無い。唯一ゆいいつ、一人楽しくはしゃぐ子供と、の様子を見て微笑ほほえむ母親だけが、心臓に炎を持っているように見えた。うつむいて早歩きで進む会社員、店前で声を高々たかだかと発して宣伝せんでんする店員、はしの方で固まって何かを待っている学生、皆、悲しいほど静寂せいじゃくを保っていて、心は白い。生まれたばかりの子供は、未だ胎内たいないに居た頃の温かさを持っていて、母親はれに感化されて、わずかに情熱を帯びたのか。ほどまでに冷え込んでいる世界でも、かの者達は炎を灯して、燃料が勝手に追加されて、完全に消えてしまうの時まで只管ひたすらに温まり続けている。おそらく、そうだろう。私も昔は、あのようであったのだろうか。母の事を考えれば、のような事は無さそうである。昔から、既に冷めてしまっていた心だったろう。嫉妬しっとではないが、少し、うらやましく思ってしまう自分が居る。昔、あの親子のようであったならば、れは、どれだけ良かった事だろうか。今は少し情熱を持っていると思うが、れは母譲りの物ではないだろうし、幸福そうなあの親子が持っているような物でもない。薄汚い欲望と言う方が、正しいのかもしれない。すですたれ始めた命である。美しくなどない。輝いてもいない。どす黒い情熱、負の感情が溜まりに溜まった、醜悪さの塊。れに対して彼らが持つのは、まさしく炎、赤く、だいだい色に燃える、さびしょうじてもぐにこぼれ落ちて、れを修復するように新たな層が形成される、素晴らしき存在である。今迄いままでであれば、他にも情熱を持っている人が居たのかと、嬉しく思っていた事だろう。だが、今は、何と言うべきか、せつない、涙がしたたり落ちてしまいそうなのである。

 町を歩いて、人々は一見いっけんにぎわっているように振る舞っているが、肝心かんじんな熱が全く無い。機械的な温かみが有るのみで、人情があまりにも薄っぺらく見える。寒さにやられたのか、れとも初めからのような状態のか。今日と云う日以外、其処そこまで深く考えた事は無かったため、深くは分からないが、クリスマスと云う日は、のようなものでは駄目だろう。悲しいではないか。酷いではないか。鉄筋てっきん混凝土こんくりーとづくりの中高層建築物が立ち並ぶ広場、雪、相変あいかわらず降り積もる。数えきれないほどの窓硝子がらすに反射する白色の世界、淡泊過ぎて、味がしない。更には、先程さきほどまで冷凍されていたみたいに硬く、冷え冷えとしている。誰が好むのだろうか。飲食店の窓硝子がらすしに、店内の様相と、其処そこで機械仕掛けの暖気に包まれて過ごす人々の姿が観察できる。天井に設置された電灯が、嫌に無理矢理むりやり暖色を映していて、まとわり付くように人々が、偽造ぎぞうされたぬくもりを抱いて、意図的ににぎわいを捏造ねつぞうしている。かの者達は、むなしい人生を送っているとは思わないのだろうか。自らがすで草臥くたびれている事を、見て見ぬふりしているのか。そう思いたくないから、捏造ねつぞうして、自身を満足させているのだろうか。

 言うなれば此処ここは、哀愁あいしゅうただよう白塗りの町である。人々の生きる音が絶え間なく響いて木霊こだまするが、大切なものが抜け落ちている。無数の色付き照明が万物ばんぶつを照らせど、ただ影を生み出すのみ。其処そこに色など存在せぬ。何処どこかから音楽が流れていても、れを深くく者は一人たりとも居ない。聞ききて、むしろ怒りを覚える事も有る、そう云う人は大抵の場合、何処どこかで働く従業員達である。

 広々とした往来おうらいを、無数の人々と共に歩いていて、ふと洋菓子店が目に入った。店前にはサンタクロースをした大きな人形が設置されており、店の外ではの者以外に、客を店にき付ける者は居なかった。店内では、れまた一組の親子が居る。女の子が、展示された洋菓子を一つ指差して、母親に向かって何かを言っている。母親はれに応答して、何かを尋ねている。の光景を、店員は静かに微笑ほほえみながら、優しいひとみで見詰めている。気が付けば、道の真ん中で立ち止まって、の光景を眺めていた。の時の感情は、中々に理解しがたいものだった。只管ひたすらに、不思議な感触で、自分が今如何どうなっているのかすら、理解できなかった。何かに洗脳されてしまったように、私はあの光景にせられていたのだ。時間も、周囲も、社会も、何も気にせず、ちっぽけな空間の出来事に魅了みりょうされていた。

 母親が店員に何かをもうし、店員は少女が指差ゆびさしていた洋菓子を取り出して、包装し始める。手際てぎわ良く作業を進め、あいだ少女は目に見える光景を笑顔で見詰めていた。完全に包装し終えた後、袋に入れて、会計に移動する。最中さいちゅうも、少女は微笑ほほえんでいた。会計を終えた後、袋を少女に手渡す店員は、幸福そうな、一切悪意の無い笑顔であった。の場所には確かに、三つの情熱が在った。母親は店員に軽く会釈えしゃくをし、少女のいている方の手と手をつないで、扉を開けて外へと出た。店員は御辞儀おじぎをして、二人を静かに見送った。三人の登場人物、の全員だけが、鮮やかで温かみの有る色を持っているように見えた。れはまさしく、情熱であった。

 洋菓子店の扉が開けられて、外と内部が同じ空間になった、丁度ちょうどの時、クリスマス・ベルが、何かを人々に知らせるように、鳴っていた。

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