9話 秘められた一夜
夜になり、詩響は廉心を連れて家を出た。廉心は、水の樽を手押し車で引いている。詩響は、手持ちの灯籠で夜道を照らした。
「姉ちゃん、急にどうしたのさ。殿下たちへ水を持って行こうなんて」
「だって、尽きたら困るわ。看病で、お手持ちの水も使ってらしたようだし」
向かう先は、陵漣一行の宿泊所になっている団練だ。広場に陣を張り拠点にしている。
「けど、明日でよくない? どうせ、もう寝るだけなんだから」
「それは、だって、熱は下がったばかりよ。あるに越したことはないわ」
廉心は不思議そうに首を傾げた。詩響は廉心の視線を躱すように、ずんずんと進む。
(そうよ! あとから『配慮が足りない』とか、言われたくないだけ! それだけよ!)
詩響は自分へ言い訳をして、必死に胸中を誤魔化した。
歩くたびに赤い髪が揺れ、陵漣に口づけされたことを思い出す。なんとなく、唇の触れていた髪を握ってみた。潮風で傷んだ髪は、指先が引っかかる。毛先を切り揃えたのは、少し前だ。探さなくても、枝毛もたくさん目についた。
汚い髪だ。鳳凰の与えた赤毛も、手入れしなければ侮辱に等しい。どうしても翠蘭と比べてしまう。どうして陵漣は、美しいなどと言ってくれたのだろう。
陵漣の顔を思い出していると、ふと気づいてしまった。
(そういえば、陵漣さまの髪は黒に近いわ。でも、中枢の皇族は真紅。やはり言われるのでしょうね、汚い色だと――……ああ、だから、私程度の赤でも美しく感じたんだわ)
からかった理由に気づくと、急に肩の力が抜けた。そうなら、本当に馬鹿みたいだ。貴重な水を渡す意味を、急に考え始める。
俯くと、廉心に見つめられていることに気がついた。姉の矜持を崩すまいと、詩響は慌てて表情を作る。
「過保護でいいの。鳳凰陛下を身に宿す大変さは、私たちにはわからない」
「だとしても、川の水で十分だと思うけどね。せっかく備蓄してたのに……」
「なに言ってるの! 他の人にも、廉心を気に入ってもらわなくちゃ! 親しくなっておけば、太学に入った後もよくしてもらえる! 多少の媚は、将来の役に立つわ!」
「……それは、そうだね。寝ずに心配をするのは、いい心掛けだって見えるし」
そうだね、と廉心は大きく頷き、詩響はほっと息をついた。
縁を強めておきたいのは、本心だ。廉心の太学入学は確定だろう。けれど、入ったあとも良い待遇を得られるかは、別の話だ。できるだけ、廉心の得になる物は得ておきたい。
「でしょ! それに、移住すれば、家族にも仕事を紹介してくださるんですって! 私も街で働けるし、廉心は太学! こんな好機、二度とないわよ!」
「太学、ね……」
廉心はぽつりとこぼした。見ると、表情は暗い。落ち込んでいるようにも感じられた。
てっきり、喜びしかないと思っていた。不思議になり、廉心の顔を覗き込む。
「勉強できるのよ。本だって、きっといぱいあるわ。嬉しくないの?」
「嬉しいよ。けど、いいの? 村を離れたら――父さんと母さんの遺体は、探せない」
廉心の低い声に、詩響の足はぴたりと止まった。
両親の遺体捜索は、考えないようにしていたことだ。
詩響と廉心の両親は、山の土砂崩れに巻き込まれ亡くなった。幼かった詩響は泣きじゃくり、もっと幼かった当時の廉心は、親の死を理解すらできていなかった。
「俺はいいよ。覚えてないから、悲しくもない。でも姉ちゃんは違うだろう?」
「……もう十年以上も前のことよ。見つけるのは無理だわ」
詩響は俯き、声を絞り出した。
誰よりも賢くしっかり者の廉心が『弟』でいてくれるのは、詩響が両親の死を思い出し、泣いている姿を見てきたせいもあるだろう。
(吹っ切れたと言えば嘘になる。せめて遺体だけでも見つけたい。けど……)
詩響は山を見上げた。山は危険だ。あちこち掘り返したら、土砂崩れを引き起こすかもしれない。また誰か死ぬかもしれない。だから、山中の捜索は困難だ。
それでも、村のおとなたちは総出で探してくれた。三日三晩走り回ってくれたけれど、見つからなかった。仕方ないんだ――そう思えるようになったのは、朱殷が移住してきて、一年は過ぎた頃ようやくだ。
「……それより、朱殷に会えなくなるほうが寂しいわ。いまの私たちがあるのは、朱殷のおかげだもの」
「そうだね。兄ちゃんは、俺たちの転機になってくれた」
朱殷は、たくさんの話をしてくれた。賑やかな市場、華やかな宮廷。眩い世界の話は、暗闇に落ち込んだ詩響を、光の中へ引き上げてくれた。
詩響に余裕ができると、廉心も学ぶ余裕を持てた。飛躍的に賢くなったのは、朱殷に出会ってからだ。男親を知らない廉心にとって、兄であり、ときには父のようでもあった。
(廉心が目を輝かせて学ぶ姿は、私の支えになった。すべて朱殷のおかげだ)
生まれ育った雀晦村を離れることに、不安はある。それ以上に、朱殷のいない日常に戻ることは、悲しく感じられた。
けれど、詩響は拳を握りしめた。闇夜を照らす月へ向けて、大きく振り上げる。
「けど、廉心の将来のほうが大事! 鳳凰天子の後援は、つかんでおかなくちゃ!」
詩響は最上の笑顔を廉心に向けた。廉心は申し訳なさそうに眉をひそめていたけれど、なにも言わず、こくりと小さく頷いた。
過去の話は、これで終わりだ。詩響は廉心の肩を抱いて、並んで団練へ向かう。
「朱殷、いるかしら。夕飯まだなら一緒に――……あら?」
団練には給養員もいるので、食事に困ることはない。けれど、詩響は頻繁に朱殷を招いて食事をする。家が賑やかなのは嬉しいし、廉心も朱殷を独占できて楽しそうだった。
でも、じき雀晦村を出る。別離の日は遠くない。せっかくだし、ついでに泊まっていってくれないかな、なんて思っていると、朱殷の声が暗がりから聞こえてきた。
暗闇に耳を傾けると、誰かと話しているようだった。木の陰に目を凝らすと、向き合っているのは陵漣と魏懍だ。三人は険しい表情をしていて、緊迫した雰囲気を感じる。
「なにかしら。そういえば、陵漣さまは朱殷を気にしてるようだったけど」
「兄ちゃんを? なんで?」
「朱殷っていうか、外から来た移住者を気にしてるふうだったわ。なにかしらね」
「……聞いてみよう。手前にある背の高い茂みなら、向こうからは見えない」
「盗み聞きするの? 普通に声をかければいいじゃない」
「寝る時間に人の来ない場所で話すなんて、秘密ってことだ。誤魔化されるだけだよ。静かにしててね」
廉心は静かに手押し車を置くと、忍び足で朱殷たちに近寄った。詩響も同じように廉心を追うと、息をひそめて聞き耳を立てる。
「魏懍。朱殷の戦いぶりはどうだ。俺には、妖鬼と戦い慣れているように見えた」
「初めてではないでしょう。有利な戦法や弱点を、的確に理解していた」
「当然です。もう何度も出てますからね。団練は皆、妖鬼退治を経験してます」
朱殷から飛び出た突然の告白に、詩響の指先が揺れた。
(何度も!? あんなのが、ずっと近くにいたの!? 知らないわ、そんなの!)
慌てて廉心を見ると、廉心は首を左右に振った。知らなかったようだけれど、詩響と違い冷静だ。眉一つ動かしていない。
陵漣は腕を組み、指先でとんとん、と自分の二の腕を叩いている。
「詩響と廉心は、まったく知らないようだったぞ。まさか、教えてないのか」
「ほとんどの村民は知りません。知っているのは、長老を含めた高齢者と団練だけ」
「なぜだ。連中は人を襲う。移住して、逃げるべきだろう」
「俺も忠告しましたよ。けど、高齢者は村へ執着します。廃村が嫌なんでしょうね」
「……愚かだな。宮廷へ戻り次第、雀晦村の自治は国へ返還させる」
魏懍は頷いていたけれど、朱殷は苦笑いをしている。
「せめてもの対策で、村を囲うように堀を作りました。連中は目が悪いのか、堀に気づきません。足腰も弱いんで、落ちれば登ってこられない。上から刺せば、安全に殺せます」
「そうなのか? なら、今回の襲撃は稀か」
「初めてですね。残骸を調べましたけど、賢いですよ。何匹も積み重なって、数匹だけ堀から這い上がらせたんです。よほど会いたい相手が、いたんでしょう」
「……鳳凰陛下だろうな。初めて妖鬼を確認したのはいつだ?」
「二名の村民が殺され、発覚したそうです。それで団練を作ることにしたとか。まあ、雇われた当初は獣だと聞いてたんですがね」
「騙されたのか? それで、よく定住したな。普通に考えて断るだろ。詩響の言うとおり、お前の腕と器量なら、どこぞで目をかけてもらえる」
陵漣は真剣な表情だが、朱殷は肩をすくめて軽く笑った。
「もともと、腕試しで旅をしていたんですよ。異形退治なんて、他じゃできない。しかも衣食住を保証してくれるという。都合よかったんですよ」
「ふうん。出身はどこだ? 剣術は鳳凰国の伝統と違うんだろう、魏懍」
「違いましたね。いろいろ交ざっているので我流でしょうが、基本は応竜国に似ている。なにより、黒髪に陽の色の瞳は、応竜国民の特徴です」
魏懍は自分の髪をつんっと引っ張った。気にしていなかったが、魏懍は朱殷と同じ、黒髪に金の瞳だ。おそらく、応竜国の出身なのだろう。だが朱殷は、やはり肩をすくめた。
「自分でもわかりません。捨て子だったらしくて、物心の付いたときには、商隊で旅生活をしてました。というか、俺のことはいいんですよ。それより、かつて妖鬼に殺された村民がいたことは、詩響と廉心には言わないでください。絶対に」
「なぜだ。あいつらには、この先も協力してもらう。正しい情報を与えるのが筋だ」
朱殷は、んー、と唸りながら頭を掻いた。言いにくいことなのだろうことは、表情から察せられる。詩響と廉心は、ぐっと身を乗り出して耳を澄ました。
「殺されたのは、詩響と廉心の両親です。二人は土砂崩れだと知らされています」
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