門は開かず――神を選んだ数理生

霧原ミハウ(Mironow)

正弦(sine)と罪(sin)は同じ音

 三月のモスクワは、まだ冬の名残に支配されている。曇天は低く、校庭の雪は踏まれるたびに灰を吐いた。モスクワ大学系列の特別数理寄宿学校「K校」――寮棟と校舎をつなぐ渡り廊下のガラスには、指の脂で描かれた関数の痕がいくつも残り、誰かのいたずら書きの極限は、拭われても薄い影として残像をとどめている。


 フェオフィール・ザーハロヴィチ、十六歳。上位クラスの端の席。熱意は、ない。いや、正確には、向け先がない。数学の授業はよくできる。紙の上で「∴」を置く位置も心得ている。けれど、証明の終結点に点を打つたび、胸のどこかは「証明されないもの」の方へと、すこしだけ傾いた。


 朝、寮の食堂でマンナ粥を口に運ぶ。隣の席の優等生が、金メダルの話をしている。オリンピック予選の組み合わせ、審査員の癖、古参のコーチの伝説。誰かが「体育で五点を取った」と言った瞬間、テーブルの端から乾いた笑いが起こり、「暇人」と、ひとことで片づけられた。ここで価値を持つのは、走る脚ではなく、走らせる論理だけだ。


 フェオフィールはスプーンを置き、窓の外に目をやった。寮の裏手、煉瓦の隙間にまだらに残る雪の向こうに、廃屋が見える。昔、礼拝堂だったらしい。冬のはじめに、ここで古いラテン語の祈祷書を拾った。表紙は割れ、糸はほどけ、ページはところどころ欠けている。それでも、音の運びは残っていた。ドミネ、ノン・スム・ディグヌス。声に出さずに、一行だけ口の中で繰り返す。


 その朝、フェオフィールは授業の合間にふらりと外へ出た。渡り廊下を抜け、坂道を下り、トロリーバスの電線が鳴るのを聞きながら、ひびの入った舗道を歩く。街は、崩壊からまだ回復していない。酒瓶と紙切れ、階段に座る退役軍人、古本を広げる老女。聖堂の前を通ると、鐘は鳴らず、扉は半開きで、冷気が中まで浸みとおっていた。


 玄関先に老神父がいた。薄い外套の肩に雪が溶け、黒い布にしみを作っている。神父は、通りすがりの少年に目を留めた。


「君の目は、計算のあとなのに、休んでいない目だね」


 フェオフィールは、言葉の選び方を迷って、少し遅れて答えた。


「多分、証明のあとに、証明されないものが残るせいです」


 神父は笑ったのか、咳をしたのか、わからない微かな音を喉に落とし、扉の隙間から暖の気配を半分だけ見せて、そして何も勧めなかった。少年は礼だけ示して、学校へ折り返した。


 その日の午後、数学の小テスト。問題は素直だった。フェオフィールは鉛筆を走らせ、途中で天井を見上げ、また紙に目を落とした。ふと、紙の余白に小さな十字を描いた。指の先で、ほんの触れる程度に。


「正弦(sine)と罪(sin)は、同じ音だ」


 声にならないつぶやきが、口の中で自分に触れて消えた。


 前の席の少年が振り返って、眉をひそめる。「何か言ったか?」

「いいえ」とフェオフィールは微笑んだ。「ただの連想です」


 答案を出したあと、彼は校舎の階段を降り、寮のホールを抜け、共用電話の前に立った。硬貨を投げ入れる。呼び出し音のあいだ、自分の声の形を、ゆっくり整える。昨日、寮のテレビで見た映画の神父の発声。英語の抑揚は真似できないが、間の取り方なら再現できる。ゆっくり、滑らかに、断言せず、しかし退かない声。


「お父さん? 今、話していい?」


 受話器の向こうで、紙の擦れる音。父は研究室で、母は会議のはずだ。


「用件だけ言いなさい」


「大学とか、そういうことは、もうどうでもいい」


 沈黙。


「何を言っている。予選の季節だ」


「俺――」


 フェオフィールは一度喉を湿らせ、音を柔らかくした。言葉が自分の口から出るより先に、意味が胸の奥で形になった。自分でも驚くほど自然な、穏やかな調子で。


「僕は神父になります」


 電話の向こうで、椅子がきしむ。「誰の冗談だ、それは」


「冗談ではありません。修道院に入って、一生そこで暮らしたい。――観想の生活を」


「観……何だって?」


「静かに祈る生活です。世捨てに似ていますが、逃げではありません」


 母の声が割り込む。「フェー、気の迷いよ。疲れているの。夏まで休めば治るわ」


「お母さん、僕は、治したいわけではないのです」


 受話器を置くと、ホールのソファに数人の同級生がいて、こちらを見て笑った。


「聞こえたぞ」「観想? 語感がいいな」別の声が、「頭脳流出の新手だ」と言って、皆で少しだけ笑った。フェオフィールは、怒らない。怒りは、悩みの近くに座るが、今は違う椅子に座っていた。


 それから彼は、穏やかな口調を捨てなかった。担任に呼ばれても、友だちに冷やかされても、寮監に冗談を言われても、まるで祭服の襟のように、声の縁を整えて話した。


「先生、それも一つの信仰です。――証明の成功を、信じて始める、という意味で」


 担任は眼鏡の位置を直し、「まずは形からやめなさい」とだけ言った。口調のことだ。フェオフィールは頷いたが、やめなかった。やめるに値しないほど、よくできた形だった。


 夜、祈祷書をポケットに入れて、校門を抜けた。雪解けの水がアスファルトを薄く覆い、街灯の色が波紋に砕けた。市電の金属音が遠くで薄く鳴った。聖堂は暗く、扉は閉まっている。フェオフィールは立ち止まり、左へ曲がった。そこからさらに歩けば、郊外に、小さな観想修道院がある――と、噂で聞いた。


 門は、思っていたより低く、固かった。呼び鈴は錆びていた。鳴ったのか鳴らなかったのか、彼にはわからなかった。しばらくして、窓が一枚だけ内側から明るくなり、誰かの影が揺れて、また暗くなった。


 フェオフィールは、門の前に立ったまま、祈祷書を開いた。綴じ糸が、指にざらりと触れた。ラテン語はまだ肯定の語順に慣れない。けれど、音は、意味の知らない場所にも届く。彼は声に出さずに読む。ドミネ、ノン・スム・ディグヌス。三度繰り返すあいだ、胸の奥の空洞は、風の通り道のように静かになった。


 門は、開かなかった。彼は、責めなかった。修道院は、誰にでも急いで扉を開く場所ではない。観想は、入口で急いだ者からこぼれる。そう教えられたわけではないが、そうだと知っていた。


 背後で、街の音が、遠い波のように寄せたり退いたりした。フェオフィールは振り返らなかった。門に掌を当てる。冷たさは、金属のせいではない。世界のせいでも、まして他人のせいでもない。彼は、その冷たさを、しばらくのあいだ、測りたかった。温度計なしで。


 しばらくして、彼は掌を離し、来た道を戻った。寄宿舎の渡り廊下のガラスには、夜の灯りが鏡のように映り、関数のいたずら書きが、星図のように見えた。部屋へ戻ると、同室の少年が上体を起こし、「神父さま、お帰り」と囁いた。フェオフィールは笑い、


「――祝福を求められれば、吝かではありません」


 と、神父の口調で答えた。少年は笑い、寝返りを打った。


 机を前に座る。明日のための問題集が、開かぬまま待っている。フェオフィールは鉛筆を持ち、最初のページに静かに十字を描いた。正弦のグラフを一つ、丁寧に写す。罪の音は、どこにも記されない。けれど、音は音として、書かれないまま、耳の後ろに残る。


 彼は窓を少しだけ開け、冷たい空気を部屋に入れた。遠くで、列車がひとつ鳴った。何かが、明日へ延びていく音だった。扉の向こうの廊下で、巡回の足音。フェオフィールは祈祷書を枕の下に差し込み、目を閉じた。門は開かなかった。だから、明日もまた、ここで起き、ここで測り、ここで、証明されないものの輪郭を、少しずつ撫でるのだろう。


 眠りに落ちる直前、彼は、自分の声の形をもう一度そっと整えた。柔らかく、断言せず、しかし退かない声。祝福の言い回しが、口の中に残り、静かに溶けた。



エピローグ


 フェオフィールの神父熱は、翌年の夏を越えて秋に消えた。正確には、一年と二か月。

 その頃には祈祷書の角はすっかり擦り切れ、十字架の跡も薄れていた。彼は受験を思い出すように、机に戻った。修道院の門は開かなかったが、大学の門は彼の方から開けた。


 やがて彼はロシア対外貿易アカデミーへ進み、経済を学び、卒業した。


 数年後、ある省庁に勤め、計算と報告書の中で生きるようになった。

 数字に囲まれた生活は、寄宿舎のころとさほど変わらない。ただ、同僚が彼を恐れるのはIQの高さではなく、時おり唐突に爆ぜる癇癪だった。


 机を叩き、ファイルを投げ、沈黙する。


 だがその沈黙のあと、彼は小さなロザリオをポケットから取り出し、親指と人差し指のあいだに輪を作って、目を伏せた。

 そして一分後には、いつものあの柔らかな神父口調で言うのだ。


 ――まあ、誰にでも、試練はございます。


 部下たちはそのたびに顔を見合わせ、少し安心したように笑う。彼が怒っていない証だからだ。


 月に一度、彼は近くの教会で告解をする。何を話すかは決まっている。

「怒りを抑えられませんでした」

 神父は短く頷き、「赦されます」と言う。フェオフィールは深く頭を垂れ、赦された気になる。


 外に出ると、信号の赤がステンドグラスのように路面を染め、風の中でロザリオが小さく鳴る。

 手の中の冷たい珠が、かつて門を押した夜の金属の感触を思い出させる。


 ――門は開かなかった。


 けれど彼はもう、それを悔やまない。

 世界の中で生きることもまた、一種の観想なのだと、彼は自分に言い聞かせる。


 そして翌朝も、部下を穏やかに叱りながら、机の端でそっと十字を切る。


「赦すために、怒ることもある」


 そう呟いた声は、誰にも聞こえなかった。

 神父ではないが、彼は、少しだけ神に似ていた。


(了)

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