第3章:嵐の前夜
第19話:招かれざる客
その朝、私はいつになく清々しい気分で目覚めた。
枕元には、クロードがくれた無骨なオルゴール。
窓の外には、突き抜けるような青空。
昨夜の祭りの余韻が、まだ胸の奥で甘く燻っている。
「一番目の乗客」。その約束を反芻するだけで、今日という日が輝いて見えた。
いつものように身支度を整え、私は宿舎を出た。
現場に行けば、またハンズたちが「昨日は楽しかったですね」と冷やかしてくるだろうし、クロードは「仕事しろ」とぶっきらぼうに言うだろう。
そんな、愛すべき日常が待っているはずだった。
――ドドドドド……。
異変に気づいたのは、現場まであと少しという場所だった。
地面が、微かに震えている。
地震?
いいえ、違う。もっと規則的で、重く、腹の底に響くような振動。
そして、風に乗って漂ってくる匂い。
いつもの石炭や鉄の匂いではない。
もっと鼻をつく、硝煙と、焦げた油の臭い。
「……何?」
私は足を速めた。
角を曲がり、現場の入り口が見えた瞬間、私は息を呑んだ。
そこにあったのは、見慣れた活気ある建設現場ではなかった。
黒い壁だ。
見渡す限りの「黒」が、現場を包囲していた。
帝国軍の制服。
銃剣を装着したライフル。
そして、その中心に鎮座する、蒸気機関で動く装甲車と、多脚戦車。
「な、何なの、これは……」
私は呆然と立ち尽くした。
数百、いや千に近い兵士たちが、銃を構えて現場を制圧している。
作業員たちは一箇所に集められ、不安そうな顔で銃口に囲まれている。ハンズが何か叫ぼうとして、銃床で殴られているのが見えた。
「ハンズ!」
私は叫び、駆け出した。
入り口のバリケードを守る兵士が、私に銃を向ける。
「止まれ! ここは現在、帝国軍の管轄下にある!」
「どきなさい! 私はここの総責任者、エリザベート・フォン・アルニムよ!」
私が名乗ると、兵士たちは一瞬顔を見合わせたが、すぐに道を空けた。敬意からではない。獲物が罠にかかったことを嘲笑うような目つきだ。
私は泥濘んだ地面を、ハイヒールの音を響かせて歩いた。
現場の中央、仮設オフィスの前に、異様な集団がいた。
軍服を着崩し、勲章をジャラジャラとつけた巨漢の男。
その男が、私の執務用の椅子――現場を見渡せる特等席――に、土足でふんぞり返っていたのだ。
「……遅かったな、お嬢ちゃん」
男は私を見下ろし、葉巻の煙をプカプカと吐き出した。
その顔には、隠しようのない悪意と、嗜虐的な色が浮かんでいる。
見覚えがある。
帝都の夜会で、いつも父の腰巾着として振る舞っていた、好戦的なタカ派の将軍。
「ゲルハルト将軍……。どうして貴方がここに?」
私は努めて冷静に問いかけた。
足が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える。
「どうして? 決まっているだろう。『視察』だよ」
ゲルハルトはニヤリと笑い、立ち上がった。
その巨体は、私を威圧するには十分すぎるほどの圧迫感を持っていた。
「国境の要衝に架かる橋だ。軍事的な観点からのチェックが必要だと、参謀本部が判断してな。……ご苦労だったな、エリザベート嬢。貴様のおかげで、随分と立派な土台が出来上がったようじゃないか」
彼は周囲の橋脚を見回し、満足げに頷いた。
まるで自分の手柄のように。
「視察ですって? 事前の通達など受けていませんわ! それに、このように武装した兵士を連れてきて、作業員を脅すなど……!」
「通達? 必要ない。ここは帝国の領土であり、軍は皇帝陛下の剣だ。どこへ行こうと勝手だろう」
彼は私の抗議を一蹴し、一歩近づいてきた。
「それに、だ。……我々は重大な懸念を抱いている。この現場には、リベール共和国のスパ……いや、『不逞分子』が紛れ込んでいるとな」
彼は顎で、一箇所に集められた共和国側の作業員たちをしゃくった。
ガストンたちが、銃を突きつけられ、膝をつかされている。
「彼らは正規の手続きを経て雇用した労働者です! 犯罪者扱いするのはやめていただきたい!」
「口答えするな!」
ドォォン!
ゲルハルトが近くのドラム缶を蹴り飛ばした。
大きな音が響き、私は思わず身をすくませた。
「いいか、小娘。貴様の『おままごと』は終わりだ。今日からこの現場は、我々帝国軍第三師団が管理する」
「……管理?」
「そうだ。設計の変更、人員の配置、資材の使い道……全て俺が決める。貴様のような、敵国の商人に尻尾を振る売国奴には任せておけんのでな」
売国奴。
その言葉が、鋭い棘となって突き刺さる。
私が必死で資金を集め、現場を守ってきた行為を、彼はそう呼んだのだ。
「認めません。私は皇帝陛下の勅命を受けた総責任者です。貴方に指揮権を譲渡するつもりはありません!」
「勅命? ……フン、これを見ろ」
ゲルハルトは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私の顔に叩きつけた。
ペラリと落ちた紙を拾い上げる。
そこに押されていたのは、帝国の
『戦時特別法に基づき、国境付近の全権限を軍部に委譲する』
戦時特別法。
そんな法律、まだ発令されていないはずだ。
つまり、これは――。
「……捏造ね。まだ議会を通っていない法案を、さも決定事項のように」
「黙れ。現場では軍刀を持った者が法律だ」
ゲルハルトは軍刀の柄に手をかけた。
絶対的な暴力の匂い。
理屈も正義も通用しない、野蛮な力がそこにあった。
「おい! その汚い手をボスから離しやがれ!」
その時、怒号と共に人影が飛び出した。
クロードだ。
彼は制止する兵士を突き飛ばし、私の前立ちはだかった。
いつもの作業着姿だが、その背中からは殺気にも似た怒りが立ち昇っている。
「……ほう? 貴様が噂の『天才技師』か」
ゲルハルトは興味深そうにクロードを眺めた。
「リベールの田舎者にしては、いい面構えだ。……どうだ? 帝国軍の技術将校として雇ってやってもいいぞ。貴様のその頭脳、戦車や大砲の開発に使えば、もっと評価されるだろう」
「ふざけるな」
クロードは唾を吐き捨てた。
「俺が作るのは橋だ。人が渡るための道だ。人殺しの道具なんざ、死んでも御免だね」
「橋も兵器も同じだろう? 鉄と火薬と物理法則。……使い手の問題だ」
「違うな。根底にある『魂』が違う」
クロードは一歩も引かずに将軍を睨みつけた。
「この現場から失せろ、軍人屋。ここは俺たちの聖域だ。土足で踏み荒らしていい場所じゃねえ!」
その言葉に、作業員たちからも「そうだ!」「帰れ!」という声が上がり始めた。
自分たちの誇りを、努力の結晶を汚された男たちの怒りだ。
しかし、ゲルハルトは鼻で笑っただけだった。
彼はゆっくりと右手を上げ、合図をした。
ガシャッ!
数百の銃口が、一斉にクロードと作業員たちに向けられた。
装甲車の砲塔が旋回し、不気味な音を立てて照準を合わせる。
「……魂だと?」
ゲルハルトの目が、氷のように冷たく細められた。
「ならば試してみるか? 貴様らのその貧相な魂が、帝国軍の鋼鉄の弾丸に勝てるかどうか」
静寂が落ちた。
誰も動けない。
引き金を一つ引けば、虐殺が始まる。
クロードが拳を握りしめ、震えているのがわかった。彼は怖がっているのではない。自分の無力さに、怒っているのだ。
これ以上はいけない。
ここで誰かが血を流せば、全てが終わる。
私はクロードの腕を掴み、後ろに引いた。
「……やめて、クロード」
「エリザベート!」
「引くのよ。今は」
私は彼を制し、ゲルハルトに向き直った。
そして、精一杯の貴族の礼をとった。屈辱で胃が焼けそうになりながら。
「……わかりました、将軍。現場の指揮権の一部、貴方に委ねます」
「一部? 全てだ」
「いいえ。技術的な判断は、引き続き主任技師である彼が行います。それが橋を完成させるための最速の道です。……貴方も、未完成の廃墟を占領したいわけではないでしょう?」
ゲルハルトは少し考え込み、そしてニヤリと笑った。
「よかろう。期限までに完成させろ。……ただし、これからは我々の監視下で作業を行ってもらう。妙な真似をすれば、即座にあの共和国人どもの首が飛ぶと思え」
人質。
最悪の条件だ。
けれど、今は飲むしかない。
「……承知いたしました」
私が頭を下げると、ゲルハルトは高らかに笑い声を上げ、私の椅子に座り直した。
泥だらけのブーツを、私の机の上に投げ出して。
***
その日の午後、現場の空気は死んだように重かった。
至る所に兵士が立ち、監視の目を光らせている。
作業員たちは銃口を突きつけられながら、無言で作業を続けていた。
冗談も、歌も、笑い声もない。
聞こえるのは、ハンマーの音と、兵士の怒鳴り声だけ。
私は仮設オフィスの隅に追いやられ、自分の机を占領する軍人たちを眺めていた。
彼らは私の集めた図面や資料を、汚い手で漁り、あろうことかコースター代わりに使っている。
「……クソッ!」
隣でクロードが壁を殴りつけた。
拳から血が滲んでいる。
「あいつら、橋脚の強度計算書を『焚きつけ』にしやがった……! 俺たちが徹夜で作ったものを!」
「落ち着いて、クロード。怒ったら負けよ」
「落ち着いてられるか! 俺たちの城だぞ! あんな奴らに……!」
彼の悔しさは痛いほどわかる。
私も今すぐにあの将軍の顔に熱い紅茶をぶちまけてやりたい。
でも、私たちが感情的になれば、ガストンたちが殺される。
私は窓の外を見た。
美しいアーチを描き始めた橋。
昨日までは「未来への架け橋」だったそれが、今は黒い軍隊のアリにたかられた、巨大な死骸のように見えた。
「……まだ終わっていないわ」
私は低く呟いた。
自分に言い聞かせるように。
「これは乗っ取りよ。でも、橋そのものはまだ私たちの手の中にある。……技術も、人望も、彼らには奪えない」
「……」
「諦めないで。隙は必ずあるわ」
クロードは私の顔をじっと見て、やがて深く息を吐いた。
「……ああ。そうだな。お前の言う通りだ」
「ええ。……だから、今は耐えましょう。泥水を啜ってでも」
私はハンカチで、彼の拳の血を拭った。
外では、軍隊のラッパが高らかに鳴り響いている。
それは、私たちの夢を蹂躙する「侵略」の合図だった。
平和な時間は終わった。
ここからは、鉄と血の味がする、本当の戦いが始まるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます