第8話 黒猫の草太

 可愛い長毛雑種猫のフローラちゃんに鼻と鼻をこっつんこさせるタイプの挨拶をして、毛づくろいを互いにするとかそういう、もうちょっと仲良くなろうとしたところで紺に掴みあげられた。そうしてまた、猫バッグ代わりのボストンバッグに突っ込まれる。動物虐待反対。


 聞こえているはずの声を無視して、紺は石井さんから部屋の鍵を受け取って、204号室へと向かう。


 前回九十三つくみからの依頼で、紺は一人このマンションを訪れていた。大家の石井さんと不動産屋の斎藤さんと一緒に部屋を内見して、色々契約して帰ってきた。


 敷金礼金、賃料なし。何なら紺に支払われる仕組みだ。正直相当長期戦を覚悟した方がいいだろうという九十三の助言に従って、三か月に一度九十三が顔を出すことになった。その際は、大家の石井さんと不動産屋の斎藤さんも立ち会うことにもなった。


「というわけで新居だ」

「にゃーーん」


 部屋の鍵を開けて、ようやく玄関に降ろされる。よいしょと草太は自分でバッグのジッパーをずらして、するりと部屋の中へと入った。


「あ、キャットタワー!」

「前にいた人が置いて行ったらしい」

「使うてええねんな?!」

「他に誰が使うんだよ、俺は使わねぇよ」

「じゃあこれおいんじゃ!」


 とん、とん、とん。と、軽快に草太はキャットタワーを登った。その頂上に置いてあるクッションに、満足げに丸くなる。しばらくそうして堪能してから、ひょいと、顔を上げた。


「んで、ここで何すんじゃ?」

「前の所と一緒だよ」


 キャットタワーを満喫している草太を横目に、紺はキッチンでお湯を沸かす。前の家は家具一式ついていたから、それはそのまま置いてきた。持ってきたのは紺の着替えくらいだ。


 いや、草太のベッドとか食事とかは大きなキャリーケースに突っ込まれているが。布団なんかは、どうしたもんだろうか。カーテンも必要だ。


 まあおいおいでいいかと言っているといつまで経ってもやらないのが目に見えているので、草太はその辺を突っ込み続けなければいけないな、とひとり頷いた。


 ちなみに電気ケトルは大家の石井さんからの引っ越し祝いでさっき貰った。とてもありがたい。


「なにがおるん?」

「……なんだろうなあ……」

「分からんき?」

「分からん。まだ未分化な状態で、それでも影響を及ぼすことが出来る程度には育っている」


 紺と草太の仕事は、風呂場に住み着いている薄桃色のあれが何であるかを見極め、対処することだ。対処の方法はまあ色々あるからどうにでもなるが。


「紺には、影響なかか?」

「無い。人間くらいになら影響できても、俺は無理だったね」

「ほーん。どこに居ると?」


「風呂場」


 草太は猫なので、風呂は好きではない。ちゃんと毎日毛づくろいも適当にして綺麗なので、問題はない、と思っている。


 温泉なら入ってもいい。あれと水を沸かしただけの風呂とは違うものである。


 電気ケトルをセットして、お湯が沸くのを待っている紺を横目にも見ずに、草太は風呂場へと向かう。閉まっているドアの内、曇りガラスの折り畳みドアの方がそうだろう、とあたりを付けて押し開ける。ちょっと重めなのだが、特に問題もなく開いた。


 ひくり。


 薄桃色の靄が、うごめいた。それは一旦ぶわりと大きくなったかと思うと、小さくなって。隅の方へとそっと動いた。


「こんー!」

「なんだよ」

「なんか大きなって小さなった!」

「お、草太の方が強いと認めたか」

「つまり?」

「俺たちは追い出されないってことだな」


 ふぅんとつまらなさそうにため息をついて、草太はキャットタワーに飛び乗った。ええもんをもろうたから、まあここで仕事してやってもよかよ。


 キャットタワー、他の猫たちから聞いていて、実はちょっとほしかったのだ。

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